1544.呉王夫差の黄池会盟(国語より)

1544.呉王夫差の黄池会盟(国語より):2011/6/1(水) 午前 10:32作成分再掲。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/958950 

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⇒左伝の描く、黄池会盟(前482年)以降の呉王夫差は生気がなく、その記述ぶりも、衛や魯や宋や斉や楚や晋の有力者達の間に紛れ込まして印象が薄まるように書いています。・・なぜこんな呉王夫差を(孔門志士派たちは)ああまで盛り立てたのか信じられない、といいたげ、にみえるのです。呉王夫差は黄池会盟の翌年斉田常の乱で斉を攻めますが、これ以降二度と中原には登場することなく、じりじりと後退し10年後の、前473年に越王勾践によって破られ自殺する=左伝はこの間をあまり興味なさげに淡々と記します。それだけです・・。

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黄池会盟の呉王夫差のピーク時の姿を「国語の呉語」=夫差の一代記です、から
引きます。・・「国語」は時に「左伝外伝」とも言われます。

https://ctext.org/guo-yu/wu-yu/zh
(大野峻さん訳注、明治書院、昭和53年より。要約文責rac)
黄池会盟には呉王夫差は3万以上の大軍を以って臨んだ。

縦横100名の1万の兵に方陣を組ませ、中軍はみな白裳・白旗・白兜甲冑でかため、白羽の矢で、望見すると、ちがやの白い花が咲いたようだった。

呉王夫差は鉞を持ち白い旗の戦車で、中軍を率いていた。

左軍の一万の方陣は、みな赤裳・赤旗・赤い鎧兜で赤い矢、火のように真っ赤だった。

右軍の一万の方陣は、みな玄裳・黒旗・黒い鎧兜で黒い矢、墨のように真っ黒だった。

晋軍との距離は一里(約半キロ)未明に王がバチを持って、自ら鐘・鼓・・・を鳴らし鐸を振った、勇者も臆病者も全軍トキの声を上げ・・天地を動かした。

晋軍から使い「呉と晋の両君が友好のために正午に会盟しようというのになぜに未明にトキの声をあげるのか?」

呉王夫差「周の天子から勅命あり「周朝は衰微し諸侯は仕えずみつぎものなく上帝をまつることもできない。」と急かされている。それゆえ這うようにして晋君に相談にきた。しかるに晋君は周王室の安泰でないことを心配せずに、晋の兵の多いことを頼みに、長幼の序に従わず12の同姓の諸侯を征伐した。呉は先君来の席次を守り上回ることは求めないが下回ることも受けない。本日ことがうまく運ばず諸侯に笑われることを恐れる。君に仕えるも仕えないも本日決定する、(決戦によって盟主を決めよう)云々」

そして晋使の面前に、「少司馬茲と王の兵5名」があらわれ自ら首をはねて酬いた。
⇒絵本のように美しく書かれています。中国史というより日本史の一場面にあってもおかしくない、・・共通性を感じます。つまり、日本人(の一部、・・林羅山ではありませんが)は、呉泰伯や呉人の末裔なのです。

⇒黄池会盟とは、晋の趙鞅の軍と緊張したまま対面した、と窺われます。南北決戦、2000年後の日本で言うなら関が原決戦と勝西郷談判を足して二で割ったような雰囲気だった、和戦両構えだった。

⇒ここで、国語が引用する呉王夫差のセリフが、まさに孔子と孔門の願いであった呉王夫差の発言原稿は孔子孔門が書いたものではないか?しかし、「左伝」はこれを一切引かない、この三軍の雄姿を語らない、のみならず、会盟の長を晋に譲り、越の反乱におののきそれを伝えた使者7名の首を夫差自らが刎ねた、とまで書く。

・・国語と左伝、どちらが真実かはわからない。・・しかし高い確度でこの場面は国語呉語が真実に近い、と信じます。

(つづく)

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