1545.呉王夫差の死

1545.呉王夫差の死 :2011/6/1(水) 午前 11:43作成分再掲。

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黄池会盟をピークに呉王夫差は高転びに転び始めます・・それでも宿敵越王勾践に破れ夫差が自決するまで10年かかります。呉王夫差時代の呉の国力軍事力は相当なものだったと窺われます。


①年表風に追います。

前482年、黄池会盟で晋と覇を競う、この年、越王勾践が黄池会盟に呉王夫差不在の呉を襲い、太子以下を殺害。夫差とって返し、呉越和す。

前481年、斉で田常(=陳恒=論語では陳成子)の乱。田常は斉簡公を弑逆、呉王夫差の斉討伐、軍門で斉公を悼んで3日哭泣。呉は海上からも攻めるが、(晋趙鞅不穏?と)楚不穏で呉王夫差は勝たずして撤退。

前481年、魯にて西狩獲麟。

前479年、孔子卒。

前477年、越王勾践が呉を笠沢(りゅうたく)で伐つ。楚が陳を滅す。

前476年、越王勾践、呉を伐つ。

前475年、越は呉の都を囲む。

前473年、越は呉を滅す。呉王夫差自裁、越王は伯嚭(はくひ)を不忠として誅す。


②左伝哀公22年(=前473年)の該当記事は

⇒これ以上簡単にはならないほど、簡単なものです。↓

「冬、11月、越、呉を亡ぼす。呉王をして甬東(ようとう)におらしめんと請う。辞して曰く「孤、老いたり。いずくんぞよく君に仕えん。」と。すなわち、縊る。越人、以って帰る」(左伝)

(鎌田正さん訳注、春秋左伝4、明治書院、より)
司馬遷史記「呉の世家」から同じくだりをひくと(小竹兄弟訳本、筑摩。要約文責rac

呉王夫差の23年(前473年)11月・・越は呉を打ち破った。

越王勾践は呉王夫差を甬東(いまの舟山諸島とか)に移し、百戸の領邑を与えて居らせようとした。

呉王のいいよう「わしは老いぼれた。もはや君主(越王)に仕えることはかなわない。伍子胥の言葉(中原進出など意味はない、越を早く倒せ)を用いず、自分からこの禍に陥ったことが悔しい」とて、自ら首を刎ねて死んだ。

越王は呉を滅ぼし、太宰伯嚭を誅してその不忠を示し、帰還した。」(史記、呉世家)

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⇒ここも、史記と左伝を読み比べて明確なのは、左伝の呉王夫差嫌いです。
この短い文章の中に・・越王の意向だったらしいものを、主語をはずす事で、呉の誰か(本人自ら?)が助命嘆願したようなニュアンスをだすのが左伝。自刎したとする司馬遷に対して、自縊したと書く左伝。真実はどちらか分かりませんが、rac史記が公正と信じます。

(つづく)

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