1577.一を以って貫く:曾子と子貢

1577.一を以って貫く:曾子と子貢 :2011/6/20(月) 午後 1:03作成分再掲。

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 承前。少しダブりますが・・
そういう目で曾子を見れた一人が、孔子だった。孔子が一貫を語ったのは、論語による限り、子貢以外では曾子だけです。その句です。里仁篇第4です。

子曰、參乎、吾道一以貫之。曾子曰、唯。子出。門人問曰、何謂也。曾子曰、夫子之道、忠恕而已矣。(#81、4の15)
(読み下し)

子曰く、参(しん)や、吾が道は一(いつ)以て之を貫く。曾子曰く、唯(い)。子、出ず。門人問いて曰く、何(なん)の謂(い)いぞや。曾子曰く、夫子(ふうし)の道は、忠恕(ちゅうじょ)のみ。

(現代語訳)

孔子曾子にだけ呼びかけて「わが道は一貫だ」。曾子「分かっています」。孔子が去り門人達があつまって「どういうことか?」。曾子孔子先生の道は忠恕のみ」。

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さて、極めて面白いところですが・・
斉本ではこれに対抗して、子貢を持ち出し、この曾子の発言や理解をまたまた否定している、と読みます。

子曰、賜也、女以予爲多學而識之者與。對曰、然、非與。曰、非也、予一以貫之。(#381、15の2)
(読み下し)
子曰く、賜(し)や、女(なんじ)は予を以て多く学んで之を識る者と為すか。対えて曰く、然り。非(あら)ざるか。曰く、非(あら)ず。予(われ)は一(いつ)以て之を貫く。

(現代語訳)
孔子が子貢に呼びかけて、「おまえは自分孔子を多くを学んで学を識る者となすか?」こたえて「そうです。違うのですか?」。孔子「自分は一をもって学を貫いている」。
⇒そしてここであわせて確認すべきは同じ霊公篇第15の、

子貢問曰、有一言而可以終身行之者乎。子曰、其恕乎。己所不欲、勿施於人。(#402、15の23)
(読み下し)
子貢、問いて曰く、一言にして以て終身、之を行うべきもの有りや。 子曰く、それ恕か。己の欲せざる所は、人に施すこと勿れ。

(現代語訳)
子貢の質問「一言で終身行うべきものはあるか?」。孔子「それは恕(=思いやり)か。己の欲せざるところは人に施すなかれ。」

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これをどう読まれるか?

①伝統通説的には、この3本をみんな一緒、孔子が一道一貫を忠恕と言っている、と読む向きもあるようですが、そんな粗いことではいけません(「微言大義」笑)。・・違います。

曾子#81には、「わが道」は一貫、という。そしてそれを忠恕と解したのは曾子であって、孔子は答えを言っていない、留保している、と読む。

子貢#381は、「多学識学」を貫く、一が自分(孔子)にある、といって、これには孔子も子貢もそれが何か言っていない。

子貢#402は、「終身行」について、ここは孔子自ら、恕=己の欲さざるところ人に施すなかれ、というのみ。

三本それぞれ微妙に違うと読む。孔子自身は、一貫一道については、結局何も発言していない、のです。終身行うにあたって一言でいえばそれは恕、といったまで、です。

「述而不作」、漢字を正確に追う限り、そうでしょ?(笑)


③ここも史的順序としては魯本の#81が先に曾子有子の塾から、出てきた。孔子は実は何も言っていないのに、周りを(曾子系孫)弟子(複数と感じます)に囲まれた曾子が、つい自分の理解で、忠恕のみ、といってしまった。

吉川さん(上p99)は「忠と恕、ただこの二つ、忠とは自己の良心に忠実なこと、恕とは他人の身の上を自分のことのように親身に思いやる、と読むのが、普通の読み方」とされます。

これはおかしい、数が合わない、一つが二つになっている(笑)。後世には忠義(君に忠の忠)と恕(人への思いやり)に分かれていくから、これに引きずられて、忠義の忠では(封建君主的で)おかしい、この忠=自己の良心に忠実だ=古義も曾子の使い方もそうだ(#4)=真心だ、まではよかったが、忠と恕はふたつのままに、さすがの吉川さんの頭の中にある。・・が、これも多分違います。

曾子の意図は、忠=恕の一体、人の真心とは人を思いやること、という思いがある、自分と他人(主客)を分けていない、自然道教的曖昧さもある(笑い)、だから一つ。・・そう読まないと、曾子は1と2の区別もつかないアホということになりますゾ(笑)。

④ですが、これまた残念ながら、曾子の理解であって、孔子がそうとは確認してはいない。曾子はそう思って孔門を運営したのでしょうが(そしてこれが魯の学窓派の儒教原点になる)、・・正確に言えば、孔子の真意は論語文字では不明のまま、です。

⑤子貢は#81を見て、魯の曾子はまたアホを言っていると思った・・それで対抗して公表したのが#402。

つまり「孔子は忠恕などとは言わなかった。近いところを言えば、終身行を一言で言えば、恕、とはいったが。忠恕などと忠の字はなかったよ。曾子のアホは君に忠などといいかねない男だからなあ。釘を刺さねば。」が子貢の思い、でしょう(笑い)。

⑥子貢は重ねて、一貫一道については、孔子は結局何も明言していない、と念を押す、それが#381。しかもここには「道」という言葉はない。多くの「学」識を一本貫いているものを予(自分孔子)は持っている、というだけ。

ここまでです。

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子貢の見方:学の一貫=実践=理想社会のこの世での実現(=学而篇筆頭1-1)。
孔門志士派としては、曾子ら学窓派とちがって、諸国遊説(と通説的に言っておくが)に長く行動をともにした。そして、いくつもの難にもあい、五大国調略もやり、かなりのことを現実にやったのが孔子と孔門志士派だったと身をもって知っている。・・それは忠恕の一言で済むような修身的道学士的身近なことではなかった。

それは間違いなく、呉王夫差の人物と軍事力を見込んで支援し、中原中華に和平と周朝的秩序を復元すること、と実感できていた。

#381を注意深く読めばふたつの之=学で、孔子は「学」を貫くものを言っている。#1通り、学びて之を習う=習うは志士派は一貫して鳥が羽ばたくで実践です。(繰り返すが吉川さんら過去ほぼすべての儒家はこれを否定し、実践ではなくおさらいとされます、笑と涙)・・

これが、子貢の理解する、孔子の一貫だった。だがこれは歴史の裏面で(しかも見事に失敗したことで)必ずしも表立って言えることではない・・

そういう意味で、弟子に囲まれて、忠恕といってしまった?#81の曾子よりも、#381の子貢の沈黙が、孔子の一貫に近いとみる。孔子自身の沈黙も重い。


恕はもちろん孔子の一つの生き様行動原理だったがそれは孔子が子貢に言った時の一貫ではない、という確信は子貢にはある。そんなパーソナルな心得ではない・・。

この辺の(志士派)孔子を最も知り分かっていたいたのは、子貢とおそらく顔回曾子など本当に知るところではない、そういう思いも子貢にはあるのでしょう。

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もう一つ、読み込んでおきましょう。

孔子の見方:人それぞれだが、孔子・子貢・曾子は一貫もって生きるタイプ。
論語を過不足なく信じるなら、孔子が一道や一貫を曾子と子貢のふたりに(だけ?)、参や、賜や、と親しく話しかけたのは、これまた重い、とみる。子貢がやはり孔門志士派の後継者、子貢を待ちかねたといって迎えその7日後に死んだ孔子。魯鈍は承知だが孔子がわが道と尋ねかけた曾子には孔門学窓派の後継者、という孔子なりの直感はあったのかもしれない。むしろ、そこに孔子の言の意味を見出だすべきかもしれません。

⇒なお、

孔子本人は、子貢以上に志士派で理想社会のこの世での実現が一貫でしょう。
学=習=実践、は悦(楽)しいとまでいった。晩年獲麟前後には尋常ならず嘆いた。忠恕が為らないからといって人はあんな嘆き方はできない。ここはかなり確実、と思います。

子貢の方は孔子の一貫を継承した。しかし為らなかった。・・そして斉(や陶)で晩年は金儲けに徹した、3度儲けて2度ばら撒いた、ともいう。理想社会の実現と金儲けは異質だがその金を人にばら撒いたというなら、子貢なりの一貫、はあったのかもしれません。

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さらに一言。

曾子の見方:道の一貫=(忠)恕=己の欲せざるところ人に施すことなかれ
孔子呉王夫差を信長にみたてて天下布武と周朝的平和の回復に邁進したことを曾子は知っている、そしてすでに前481年には孔子は何かを見抜き獲麟と嘆いたことを知っている。子貢ら残る孔門志士派がめげずに夫差を支援し前475年ころには越王勾践に乗り換え、天下和平から諸侯絶対性回復に目標を下げ、そしてなお越王に裏切られた。前467年には流石の子貢も空しく斉に隠棲したことも、曾子は知っています。

孔子や子貢ら孔門志士派が大仰に天下を語り大論客大志士のように東奔西走していた間も、曾子ら孔門学窓派は、ずっと、魯の塾を預かり愚直に弟子を育成し続けていた。

孔子子貢がやったことは結局なんだったのか?身近にいえば衛公と魯公に国を喪わせ越に客死させただけ。

その後の歴史は衛でも魯でも有力大夫の専横はむしろ一層強まり公はなきに等しい存在となる。

それを曾子らは塾で見続けた、弟子達をあちこちに就職させつつ、それを感じ続けていた。孔子や子貢が利口ぶって懸命にやったことも結局は何の役にも立たなかった・・むしろ魯三桓の政治体制は強化された、記録にはないが曾子がみた当時の三桓の政治は小さい世界ながらも牽制しあって小康を保ったのかもしれない。
このなかで、中華全体の平和や理想的な統治体制ではなかったかもしれないが、狭くこじんまり安定的に管理され支配される民の姿や社会があった。それを曾子は見ている。ここに、曾子の極めて自閉的小市民的な世界が意味を持つ。間違いないように過ごし、親からもらった肉体を傷つけずに、死んでいけるように。

士と生まれ職をもって生きるがその任は重く果てしない、死ぬまで苦労は続く。戦々恐々、深い淵を見、薄氷を踏む思いで日々をすごし、わずかに音楽詩歌自然に安らぎを見出す。

そして死にいたることを義務や責任からの解放ととらえる。
・・そういう中で、人の道として一貫すべきは(忠)恕のみ。孔子は遂に明言しなかったが愚直魯鈍の愛弟子曾子はそう信じて生きてきた。曾子にとっては、一貫とは間違いなく(明晰な子貢の補足があって明確になるのだが)忠恕=恕=己の欲せざるところ人に施すことなかれ、であった

(つづく)

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