1574.論語下論の曾子論

1574.論語下論の曾子論 :2011/6/18(土) 午前 9:06作成分再掲。

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次は曾子です。曾子は、今につながる孔孟儒教孔子孟子をつなぐキーマン。

孔門学窓派の中では、有子の礼法客観派に対し、曾子は忠恕内面派のドン。

孔子の後継として姿振る舞いが似ているからと有子(司馬遷は43歳の年少と)を推した子夏・子游・子張(いずれも孔子の陳蔡南方同行組みで孔子より40歳以上年少)らに反対したのも曾子司馬遷孔子より46歳若いと。なら子夏子游子張と同年輩。但し陳蔡南方には同行していない。なお本記事一番下ご参照)。

漢初に高く評価されその後も儒教のひとつの柱「孝経」をまとめたのも、曾子とされます。現伝孔孟儒教のまさに保守本流の最重要人物の一人、です。


しかし、ここで展開中の、論語上論10篇(=魯本系・孔門学窓派)と論語下論10巻(=斉系・孔門志士派)を分けてみてみようとする立場からは、とんでもないこと、になるのです。まず斉系・志士派からすると「素直に読む」限り「曾子は魯(鈍)」と極度のマイナス評価、要するにアホの代表、なのです。下論・斉本の一番最初の動機は他でもないこの一点にあったのかもしれない、と思うほどです。・・魯の孔門を仕切っているあいつは文字通りアホ(魯)といいたかっただけ?!

現伝論語下論10篇のなかでも最も印象的な句ですが、まさに先進篇にあります。
柴也愚。參也魯。師也辟。由也喭。(#270、11-17)
(読み下し)

柴(さい)や愚(ぐ)、参(しん)や魯(ろ)、師(し)や辟(へき)、由(ゆう)や喭(がん)なり。

(宮崎さん訳)

高柴(子羔)は馬鹿正直、曾参(曾子)は血の巡りが鈍い、?孫師(子張)は見栄ぼう、仲由(子路)はきめが荒いぞ。

(吉川さん訳、rac要約文責)

子羔(しこう)は愚直、曾子は魯鈍・のろま、子張は奇矯・誇張・僻、子路は行儀が悪く・無作法・はったり。
⇒子羔は孔子より30歳年少、子路の弟弟子で子路推薦で季氏支配地の費の宰(長官)になる、孔子は子羔の学は不十分で愚とおもっているから反対するが学より実務と子路は押し切ったと論語(#277)にある。

⇒子張は陳出身・孔子より48歳年少・陳蔡時代は小間使い・過ぎたる・仁に足りず・・。

⇒さてさて。
朱子(呉氏と)や吉川さんはちゃんと指摘されるが、この句でもうひとつ大事なことは「子曰」がないこと・・すなわち、論語は生真面目なほどに孔子の言葉とわかりきっていても必ず「子曰」をつけるが、ここには「ない」、のです。

⇒吉川さんは、この点を指摘の上で、この直後の句#271「子曰。回也其庶乎屢空。賜不受命、而貨殖焉、億則屢中。」と一体なので、やはり孔子の言葉である;そして顔回のそれ庶(近)しは上記4人の欠点もなく顔回は(完全な人物に)近い、但し貧乏、と解される、と。=二つの不審を一挙に解決されます。

・・しかしこれは「子曰」がないことを気にされての強弁で、通説は、このまま顔回は完全に近いと読んでしまう、あるいは宮崎さんは「庶乎。屢空。」と切り、いつも空っけつに近いな、と読まれる。いずれにせよ、二句説です。

⇒確かに#270は「名」の呼びかけと「きつい」内容でいかにも「孔子らしい」句と疑問なく信じてしまうのですが、この句に「子曰」がないのは吉川さんご指摘どおりかなり深刻、と思います。


⇒・・で、rac的には、「述而不作」(#148)は論語でも絶対のルールと信じないとすべて読めなくなるので例外は1件たりと認めたくないのだが・・ここは「子貢のでっち上げ」=このステートメント孔子も絶対そう思っていたとの確信犯、それでも「子曰」とまではさすがの子貢も書けなかったのだ、という可能性、も留保します。

⇒もちろん孔子の弁ならそれでよく?(事情や気持ちや読みはどうあれ)孔子曾子をアホ、と(一度は)言っている、ということなのです。

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⇒伝統外れ非常識の変なことを書き続けるとますます分からなくなると思いますが、ついでに気になることなので、ここにメモっておきます。先進篇でしかも最後の句です。=曾子のお父さんという人が出てくる、しかも論語でもここ1箇所にだけ登場するのです。

子路。曾晳。冉有。公西華。侍坐。子曰。以吾一日長云々(#278、11-25)の論語中の最長句についてです。
(要旨、吉川さん訳の要約文責rac

塾が終わってゆっくりした雰囲気の中で子路・曾晳・冉有・公西華に日ごろ脾肉をかこっている諸君に、抱負を語ってもらおう、と孔子

子路は、魯クラスの困難な国を治め3年で勇猛な国に生まれ変わらせたい、冉有は一回り小さな国で民を満足させたい・礼楽のごときは君子(専門家)に任せたい、公西華は宗廟や外交の小相(補佐官)になりたい、と。

その間、曾晳は瑟(大琴)を静かに引いていたが促されたのでことりと止めて、みなさんとは違うのでと遠慮がち、なお孔子に促されて、晩春のころ冠者5,6人と童子6,7人と川遊びし丘歩きし詠じて帰る、そんな生活がいい、と。孔子は大きなため息をして自分も曾晳に賛成だな、と。

三人が帰り曾晳が後れた、孔子にどう思われましたかと聞いた。子路を笑ったのは礼が大事と教えているのにいまだに勇猛の国というから、いすれにしても三人とも表現は違うが(公西華さえ彼の上に立つ上役などありえず)現実に政治をやりたいということだな、と。
⇒「孔子の豊かな暖かい性格を現す有名な章」(吉川さん)と、また「孔子70歳なら、子路61歳・曾晳同年輩・冉有41歳・公西華28歳」頃か、とも・・。大変含み論点の多い文章で、これをどう読解するかで逆にその読者の人となりや論語理解度、が分かるような句、でもあります。

⇒目下の文脈でrac的には以下。
(なお、ひととなりは良くなく論語もシロートですが、笑)

要はこの曾晳が忠恕派ドンの曾子そのもの?
①この曾晳は曾子の父とされていますが、実はこれこそ「曾子」でないか。

そうならば、年齢的・雰囲気的・孝悌的・孔子後継候補者的にも「あり」だとみえるのです。

平たく言えば「この」曾子なら自然道教的な趣で、礼法客観派の有子にNOをいうのも分かるし、また逆に、子夏子游らが曾子ではなく有子を推すのも分かる、のです。そして子貢らバリバリの志士派は魯鈍と言い切るのもよく理解できるのです。
そもそもこの句の日本伝統読みはいくつも間違っています。

②問題の第一は、孔子のため息(=喟然歎;喟=き=なげく、らしい)をどうみるかですが、曾晳に孔子は歎息し同意している・仲間になりたい、と通説は訳します。

③この点、朱子集注は正確で「曾晳の言は人のためでなく自分のみのため・・(だけど)孔子は歎息して深く許した」とします。「与(くみ)」するは吉川さんさえ「賛成」と不注意にも訳されていますが、そうではない、朱子のいうとおり「深く許した」だけ=孔子も年取っただけ、なのです。

④もう一点。子路の武勇で治めるとのニュアンスには、礼に違い謙譲ではないと孔子は笑いましたが、冉有の「礼楽の如きは君子を俟たん」には孔子は黙して同意しているのです。礼楽の如きは現実政治(民を安んず)には優先はしない。・・ここを吉川さんは「礼楽はさらに有能な君子がそのことに当たられるを俟つ」と訳され礼楽はさらに高級なことで冉有の言を謙譲の美徳のように解される、ここも間違いでしょう。そんないい加減な孔子ではありません。

⑤つまり、学窓より現実政治貢献だ、礼楽より民だ、自然道教的曾晳主張は孔子は許しただけ(子路には笑っただけと同じです、むしろ手がつけられないバカということです。・・自然道教的発言を日本的感覚で理解してはいけない。)で推奨しているわけではない、の三点からして、これを先進篇の最後に論語最長文でもって来たのは、やはり、斉系=志士派の意図なのです。
⑥曾晳は実在したかもしれない、否定はしない。しかし、この曾晳こそ曾子という人だった、原文は曾子だった可能性もある・・そのほうが全体ずっとすわりがいい。

論語曾子は孝行をいい親からもらった肉体を死ぬまで大事にする人、後の道学士めいたひとなので同門中に親がいたなら一言ありそうなものですが、親曾晳のことは論語曾子は一度も言っていない。これも不可解です。・・曾子の親や子を言い出すのは、曾子や子貢から百年後の「孟子」が始まり、のようです。(孟子離婁章句上19、盡心章句下36、そしてこれが「小学」などへ)

司馬遷の「仲尼(孔子)弟子列伝」でも、孝経ブームの当時曾子は有名人だったはずなのに「魯の武城のひと、孔子より46歳年少、孝経を著した」とだけ。司馬遷は相当調べたと思うが他と比べても曾子(曾参)の文字数は極端に少ない。論語の句も孟子も引用していない。もちろん魯(鈍)とも書かない。むしろ何かを感じて沈黙している、ともみえるのです。

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↑少し難しいでしょうか?

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なお、念のため、漢以降の儒教は(斉本を魯本が吸収合体して)止揚成長していきますから(日本では日本化も加わり上記「曾晳」に「不注意にも賛成」してしまうほど甘甘になるけど)、例えば
曾子の魯鈍が誠実一途の孝となり、子路の粗暴が剛直となって義に勇んだことなど・・その欠けたところを学問と修養で円熟さを加えると、美しい特徴となって光を発揮する」(吉田さん本、p245)などと説明されます。=もちろんこれはこれで結構なのです、が、上記は論語成立初期の歴史的思想史的展開の一段階として、フツーの儒教的とは違う観点と目的での、議論です。ご注意!
(つづく)

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