1515.孔子26:陳蔡の遭難+弟子たち

1515.孔子26:陳蔡の遭難+弟子たち :2011/5/12(木) 午前 10:46作成分再掲。 QT

一度触れたのですが、陳蔡や楚での出来事は大変気になるので、納得いくまで何度でも取り上げます(笑い)。
「陳蔡の遭難」という言い方は論語には直接なく、一番古いのは孟子のようです。ですが、まずは論語から、陳蔡の遭難の関係で、論語が直接言及するのは以下のみ、です。

「(衛靈公問陳於孔子孔子對曰、俎豆之事、則嘗聞之矣。軍旅之事、未之學也。明日遂行。)在陳絶糧。從者病、莫能興。子路慍見曰、君子亦有窮乎。子曰、君子固窮、小人窮斯濫矣。」(論語衛霊公篇の1、#380)
(後段の試訳=陳に居た時には食糧にも困ったことがあった。従者も病気になり立つ(=興)ことも出来なかった。子路孔子のところにやってきていう「君子でも窮することがあるのか?」孔子はいう「君子はもともと窮する者だ。小人は窮すると乱れる(が、君子は乱れないという違いだけだ)」と。)

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このとき、孔子の一行はどういう人たちだったのか・・
論語にヒントはあります。(再出、記事○参照)

「子曰、從我於陳蔡者、皆不及門也。徳行、顏淵・閔子騫冉伯牛・仲弓。言語、宰我・子貢。政事、冉有・季路。文學、子游・子夏。 」(論語先進の2、#256)
(試訳=孔子は言った「陳蔡の時代我に従ったものは、もう門下にいない。徳行では顏淵)顔回)・閔子騫冉伯牛(冉耕)・仲弓(冉雍)、言語弁舌では宰我(宰予)・子貢、政事では冉有(冉求)・季路(子路)、文学学問では子游・子夏、(がいてくれた。頼もしかったし、)懐かしい。」と。)
racはここを遭難時だけでなく、まさに呉楚秘密同盟樹立のために、(いわば坂本竜馬のように)政治活動を激しく行っていた時期の、思い出話と読みます。いまや聖道研究と弟子育成で一線を引いたが、かつてそんな時代もあった、懐かしい頼もしい連中だった、と読みます。

⇒この段落は、古来「孔門十哲」といって、孔子一生の弟子の総括のように看做す・・みんな死んだか国に戻ったか就職したかして、手元にいなくてさびしい、ある種喪失感、と読むらしい。ですが、ここもracはそうとは思いません。

⇒この「十哲」は南方で積極的な政治活動を展開した時期に限ってのこと、とよみます(通説。但し吉川さんは陳蔡とは切り離してよむべきと異論)。そしてさらに大事なことは、失敗した過去や失敗した政治活動ではなく、少なくとも孔子生存中はシナリオ通りに天下の政道は展開している、戦乱で相変わらず難しい状況だが成果はあがりつつある=呉王夫差が南方および中原東部を制覇し晋の趙鞅と二強体制で黄池会盟の臨むのが前482年、孔子死没が前479年ですから=と思える、そんな中での言葉です。

⇒その頼もしい弟子たちの多くは、現在、魯・衛を中心に現実の政治や行政や祭事で(孔子にはしょっちゅう叱られながらも)大活躍している最中です。だから孔子には(喪失感などではなく)彼等を誇る、気持ちさえあります。・・これを孔子の塾で若き無名の弟子たちは、活躍中の諸先輩、自分達も就き従うべき先輩たち、の名前、として聞かされています。だから、孔子も弟子時代の呼び名ではなくここは改まって正式名で名を上げているのです。


⇒以上のように読めば、古くから議論されている多くの疑問も氷解します・・(だから、「孔子生存中当時は孔子一門は勝ち組の政治集団だった、主観的にも客観的にも。」という仮説が正しい、と思うのです)

⇒ついでに、もう一点。後世、「十哲」に、曽子の名前がない、子張の名前がない、と不思議がる。しかしこれも当たり前です(笑い)。「曽子」は弟子第二世代、あるい第三代世代以降、孝経の祖と貴ばれますが、・・孔子の現役時代とくに陳蔡時代にはそんなものは全く役に立たない、また行動の面では「魯鈍」であったと孔子自身も評しており、行動する政治集団としての孔門とは、別口の人だからです。(もちろん孔子は孝を否定するわけではない、重要な一面であることは間違いないです。)

「子張」は孔子の48歳下の最も若き直弟子、陳蔡時代は高々まだ15歳。しかも陳のひとで、孔子らが陳蔡滞在中に弟子入りしたのではないか?、いずれにせよ、子路や子貢、と同格同時代の人では全くない。(しかし子張は曽子同様、論語には比較的多く登場する、から、こんな珍、問題意識が出てくる。これは論語編纂経緯の問題です、別問題です。・・だいぶ先後述)

なお、若いという意味では、子游孔子の45歳下、子夏も44歳下、です(ここまでは年齢は史記孔子弟子列伝より)。子張と変わりませんが、15~20歳の3,4歳の差は大きい、でしょう。

加えて、重要なのは、子游は「呉」の人、子夏は「晋の温国」の人、と伝わっていることです。・・この二人は勉学も出来たのでしょうが、呉や晋の土地勘もあり利発で体力もあり、子游は呉へのメッセンジャーボーイ、子夏は晋国(の反趙鞅勢力)へのメッセンジャーだった、と見ます。

子張の「陳」国出身というのは孔子一門の呉楚秘密同盟路線では、ややむずかしい立場であり(事実、陳は呉に見捨てられ楚によって滅亡させられるわけで)子張の「過ぎたるは及ばざるが如し」と評されるのは別の意味(例えば何でも知りたがって秘密同盟を云々するにはいつも邪魔だったのかも、笑い)かもしれません・・ここは全くの想像ですが、この仮説に従うと、恐ろしいくらい、ジグゾーパズルはドンドン埋まっていくのです。

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実は、この「孔門十哲」は後の儒教からみての十哲、と言う以上に「陳蔡当時の孔子政治行動集団=呉楚秘密同盟を結ばせるための志士団、としてベストの集団だ」ということを、言いたかったのですが・・以上で十分でしょう。孔子の売りの「徳行」そして「弁舌」や「政事」は上記がベストメンバーでしょう。最後の「文学」学問がどうして子游・子夏だったのだろう、若いしどう必要だったのだろう、と思っていたのですが、その出身地を知ってこれも納得できました(笑い)。なお、子貢は衛の人ですが、それ以外はたしか魯、いずれにせよ、二人以外全員は魯か衛の孔子の故地時代からの「同志」のはずです。子游・子夏は子供だし他の同志とは意味が違ってメッセンジャーボーイとして活躍したということです。

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次は、陳蔡の「遭難」といい、「楚の軍に救出される」というお話はどこからきているのか、「孟子尽心下」に移ります。
(つづく)

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