1528.孔子(38)正名と軍事 :2011/5/21(土) 午前 8:40作成分再掲。

1528.孔子(38)正名と軍事 :2011/5/21(土) 午前 8:40作成分再掲。

QT

承前。

子貢・子路・曽子ら孔子の弟子達をどう見てどう評価するか、が、論語やその後の儒教を見るうえでも大きな分岐点です。
論語」をどのような弟子達が編纂変更していくのか、「春秋」にどのように手を入れていくのかこれも孔子というよりは弟子達の仕業です。・・今後この辺を読み取っていく上でも重要なことです。

 

情報量は膨大で矛盾しているようにも見え、またとても読みきれているとは言えませんが、・・史記・左伝・論語のみみても、司馬遷史記さえ幾層かあって;

孔子世家」史記作成当時の儒家たちへの配慮も重ねた上での表門、

孔子弟子列伝」も基本はそうなのですが前記事でみた子貢分など結構司馬遷の本音も見える、多くはありませんが「その他の世家・列伝」でかかれる孔子やその弟子達は生き生きしている(=司馬遷が真実と思うことを伸び伸び書いているからです)

「春秋左伝」孔子や弟子達は自然で、古伝が割とそのまま伝わっている・・

論語には弟子達との話や弟子の逸話が沢山ありますが、総じてしゃちこばり、自由度に欠け、道学士めいている(=論語主張主流に縛られているからです)。但し、孔子の弟子達の評価は総じて面白い(=本当だからです後述)、

とみえます(=感じます)。

・・要するに書き手編集者の個性とその意図の差なのです。司馬遷としては衛魯に帰ってからの弟子の逸話は論語や春秋や別途弟子列伝に譲るというところでしょう。ならなおさら、世家最終部分でわざわざ取り上げた(弟子)逸話には深い意味を司馬遷は見出していたということです。

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正名論語から。

子路曰、衛君待子而爲政。子將奚先。子曰、必也正名乎。子路曰、有是哉、子之迂也。奚其正。子曰、野哉、由也。君子於其所不知、蓋闕如也。名不正、則言不順。言不順、則事不成。事不成、則禮樂不興。禮樂不興、則刑罰不中。刑罰不中、則民無所錯手足。故君子名之必可言也、言之必可行也。君子於其言、無所苟而已矣。」(論語子路の3、#306前後)
(試訳)

子路「衛の君(=出公)が先生を待ち政治に登用されようとしています。何から手をつけられますか?」

孔子名を正すこと(正名)が第一だな

子路「ありゃまた、先生は迂遠なことを。で、名を正すとは?」

孔子「がさつだな、子路は。君子は(あらゆるものについて)そのポジション(位置・役割)をしっかりわかっておらねばならない、これが名だ。これがわからないと言葉も妥当でなく、言葉が妥当でないなら事も成らない。事が成らねば禮樂は興らず、禮樂がなければ刑罰に頼ることになる、刑罰があると人々は手足も伸び伸びとはできない。だから君子は名と必ず言う、言えば必ず行う。君子の言葉とはそれほど重要なのだ。」
⇒古来、子路のがさつさを叱り、言葉を大事にしろ、と読む説も有力らしい。・・ここもちがう。

⇒吉川さんは「名称を正せば事実が正しく認識判断されそれで政治がすべて正しくなるというのは普遍な真理でないことはない。しかし・・この条は甚だ強調的・・朱子ほかおおむねの注釈は、名を正すとは相続者をはっきりすることとし・・司馬遷が衛国のお家騒動のくだりに入れたのは賢明な措置・・」と。(朝日本「論語上下」)

⇒吉川さんの冒頭通りでいいのであって「名を正せば事実が正しく認識判断され政治とはそれがすべて」は躊躇される必要はなく、孔子的にはこれが普遍の真理;ここでいう名・言・事・禮樂・刑罰・自由の関係とその意味と実行有らしめる手段、について、世が知らず解決策を持たないことが問題で、哲学としては体系的で正しいのです、少なくとも孔子はそう信じていた。・・そう読むべきです。・・これを司馬遷がここへ持ってきたのは衛のお家騒動レベルの話ではない(司馬遷はひとこともそんなことを書いていない)。

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冉有軍事のお話の含意はもっと重要です。
世家の前後長めにmirobiiさんのブログより、w/多謝。
http://blogs.yahoo.co.jp/mirobii/17910967.html
冉有は季氏の軍を率い、斉と郎に於いて戦い、これ(斉)に勝った。

季康子曰く「なんじは戦いに於いて学んだのか?性分なのか?」と。

曰く「孔子にこれを学びました」と。

季康子曰く「孔子は如何(いか)なる人か?」と。

冉有は応(こた)えて曰く「これを用いれば名声が有り、これ(名)を百姓に広く知らせ、諸(もろもろ)を鬼神に質(ただ)して憾(うら)み無し。これを求めてこの道に至り、千社(二万五千戸)を重(かさ)ねると雖(いえど)も、夫子(孔子)は利さずなり。」と。

季康子曰く「我(われ)これを召すことを欲するが、良いか?」と。

冉有は)応(こた)えて曰く「これ(孔子)を召すことを欲するならば、小人(とるに足らない者)を以ってこれ(孔子)を守備しなければ、良い」と。

しこうして衛の孔文子がまさに太叔を攻めんとし、計略を仲尼(孔子)に問うた。

仲尼(孔子)は知らないと断(ことわ)り退(しりぞ)きて、車に載(の)ることを命じて行き、曰く「鳥(とり)は木を選ぶことはできるが、木はどうして鳥を選ぶことができようか」と。

孔文子は止(や)めることを固(かた)めた。

そのとき、季康子は公華、公賓、公林、を追放し、贈り物を以って孔子を迎(むか)え、孔子は魯に帰った。

(いわゆる14年ぶりの孔子の魯帰還、前484年、です。⇒rac的には、孔子にとっては魯でも衛でもやるべきことはやっている、14年ぶりの帰還という言葉はあまり意味ないことは繰り返し述べている通りです。)
⇒この文章は現伝論語にはありません(よね?)・・司馬遷はどこから取ってどういうつもりで採用したのか?

⇒読み方の難しいのは、孔子は軍事に通じているといい、それゆえに季康子(魯の実質支配者、季桓子の子)は孔子を招こうとしている、他方衛の孔文子(衛の実力者)も軍事で役に立たないから孔子が衛を去ることを認めたように、司馬遷も書いている点です。

現伝伝統論語世界では、孔子は礼のことはやっても軍事はしないと自らは言い続けます。そういう人として論語孔子を描ききっています。それゆえに、この前後も、最後の衛でも魯でも「失業し続ける」ように書きます。

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しかし、司馬遷世家ではこの部分大分違う含みを持たせているのです。
つまり、
1)先の「子貢」では周辺大国を相手に縦横家顔負けのシナリオを描き子貢を派遣したのは孔子と書き、

2)ここでは「冉有」に語らせて軍事を孔子から学んだと言わせます(ここは通常の論語世界では、数年前陳滞在中、先に魯の季氏に就職が決まった冉有に子貢から孔子のことも頼まれたから孔子のために苦しい嘘をついた・・のだと説明するらしいです)

3)もう少し後では、達巷党(500家の村)人にいわせて孔子に飛び出た一芸がないと。これを聞いた孔子はそれなら六芸(=礼楽射御書数?)中最も卑しい御をとろう、といった・・また「子牢」の言葉を引いて孔子自身は器用貧乏といっていたと証言もさせます。

4)遡りますが、前498年には魯の司寇として季氏家宰の子路らと、三桓の三城のうち二城を攻め落としています。孔子も軍略をできたこと、を示唆します。

5)後、世家の〆部分では、孔子の死後「歳時を以って孔子冢の祭祀を奉(たてまつ)りて、もろもろの儒家がまた孔子の冢(墓)に於いて礼を講(こう)じ、なかまと飲み、大いに弓術(六芸の一つ)をした」(mirobiiさん訳)ともあり、

孔子が純粋に文のみで武を嫌い行わなかったとしたら、これは、おかしな話です。

いずれも世家です、しっかり記録しています。

しかしながら、現伝論語では、軍略武器をもって戦った孔子の姿は、きれいに抹消されています。1)2)4)5)の記録の一部は論語にあっても、孔子の戦う姿は一切ありません。
3)は不思議なことに論語にあります。フツーの論語世界では「偉大なゼネラリスト孔子のユーモラスな側面を語るもの」としますが、司馬遷はどんなつもりでこれを世家最終部分に引いたのか・・同文を論語から。

「逹巷黨人曰、大哉孔子、博學而無所成名。子聞之謂門弟子曰、吾何執、執御乎、執射乎、吾執御矣。」(論語子罕の2、#208)
(試訳=逹巷党人が言った「孔子は偉いものだ、博学だがこれといって名を成すところがない。」これを聞いた孔子は門弟に言った、「何を得意といおうか、御にするか射にするか、やはり御をとろう」)

実は孔子は何でも出来た、武略戦略はもちろんやった。当時の士大夫として当然射や御もやったが、実は下手クソだった、弟子はみんな孔子の射や御の下手振りを知っていた。だからこれは難しい話ではなく、孔門仲間内の笑える冗談だった、と読みます。

 

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大国(呉)のおかげで小康を得た小国(衛魯)での仕事は、民を安らぎ豊かにする善政を敷くこと、・・だが現実はこれをいいことに私利私欲の地方小戦争を繰り返す魯季氏や衛孔氏に辟易していた・・弟子達を就職させたのもそういう趣旨だから、これに反するような弟子達の戦争参加や政治手法には心から怒って反対しただけ、なのです。目の前の現実はそれでやむない、だが塾で学んだとおりもう一段上を目指せ、と常に言っているだけ。
司馬遷は、全体としては、孔子というひとをそのように見ていた。・・しかし時代柄あからさまにそうはかけない。史記編纂当時すでに儒家には常識になっていた「軍事は語らない孔子像」を中核にしながらも、実はそうではない、中華レベルの大軍略や呉王を中原に誘うほどの大政略もやった、軍事軍略の大プロでもあった、と別途ちゃんと書いた。・・一方で地元の郷党の人々を巻き込むような魯や衛の小国の私利私欲の軍事には常に抑制的だった。それだけのこと。このへんは、弟子達もよく知るところではあったが、村の里人は与り知らぬ公然の秘密であった。そして、衛の孔文子や魯の季康子も暫く付き合えば孔子の本音くらいはすぐわかった、だからその弟子達ゆえに孔子を国老や無任所大臣的に遇してもその実、敬遠していた、というところだろう。
司馬遷はみていた、と読みます。
(つづく)

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