1509.孔子⑳陳蔡の旅

1509.孔子⑳陳蔡の旅 :2011/5/8(日) 午前 9:10作成分再掲。

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孔子世家」には孔子の陳蔡の旅について情報は事実上ほとんどありません。司馬遷史記」の「孔子世家」から時系列的に要約転記します。

①前493年、魯の火事(桓・僖公廟の火事)を孔子は陳で聞いた、との記事。衛の記事からいきなりで、世家の読者はここで初めて、孔子が陳にいる、ことを知ります。魯の哀公3年、孔子60歳、孔子の還暦・耳順です。

②同年、魯の季桓子が死に、子の季康子に遺言「一時、魯は(孔子のおかげで)繁栄しかけたが自分が斉の女楽におぼれて損なった、必ず孔子を招致せよ」。が、公之魚が反対、(魯としては)孔子ではなく弟子の?求(ぜんきゅう)を招致。

③蔡の昭公は呉寄りだったが(呉の意向で)遷都し、蔡の大夫らに殺される、楚が蔡を侵す。この秋、斉の景公が死ぬ。この年、前490年。

④翌年(前489年)、孔子は蔡から葉(しょう、楚の地方)に入る。同年、呉が陳を伐つ、楚は陳救援のため、楚陳国境の城歩に陣する。孔子が蔡に入って(=衛を離れて)3年目(=魯の哀公6年、孔子63歳。)

⑤(楚が城歩に陣しているとき)孔子が陳蔡の間にいると聞いて、楚は人を派遣して孔子を招聘。が、陳・蔡の大夫たちが謀っていうには、
孔子は賢者、その論難するところは諸侯の欠点を指摘する、われわれ諸大夫が計画するところも孔子の意にかなっていない。楚は大国、いま孔子を楚に用いられれば、われわれは苦境に陥る」
として孔子を包囲して楚に行かせなかった。

孔子の弟子たちは病になり立つことも出来なかったが、孔子は自若としていた、子路が君子でも窮するか、と孔子に食って掛かった。孔子子路・子貢・顔回ら弟子とのやり取り。

孔子は子貢を楚にやって、楚の昭王は軍を出して孔子を迎えたので、困窮を免れた。

⑦楚の昭王は孔子を書社の地、700里で封じようとしたが、楚の令尹(宰相)子西が反対して実現せず、その秋昭王が陣中で無くなった。(ここまで前489年のこと)

孔子は楚から衛に戻る。この年、前489年=孔子63歳=魯の哀公6年、と世家は明記。

⑨翌年(前488年)呉が魯と繒(山東省)で会し、百牢(=膳)の礼で饗応せよ、と魯に要求。呉の伯?が季康子を召喚、康子は子貢を送って説得・辞めさせることに成功した。

⑩このとき(=前488年)??は国外にあり諸侯も衛を責める、孔子の弟子は多く衛に仕えていたので衛の輒(出公)は孔子の助けで政治を行おうとしていた。孔子子路と衛の政治についての対話。

とりあえず、ここまでにしておきます。

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この時系列流れの中に「世家」は独自の逸話や論語からの引用をはさみます・・しかしながら、その逸話は本来の文脈に沿ったものではなく、これを逸脱し主旋律を隠そうとしているようにみえるのです・・司馬遷の筆にしては珍しい、印象です。
平たく言うと、何のために、孔子らが、陳蔡葉にいたかよくわからないのです。この時期、後述どおり、陳蔡葉は大国楚と新興国呉の間にあって、大変な状況にあるのですが・・そんな中で、孔子らは、「何もしていない」様子で世家の記録は書かれています。
大変微妙で大変興味深いところですので丁寧にフォローします。その逸話群を先に紹介します。上記○数字の従います。

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①陳にあって、桓公僖公の廟から火事は起こった、と孔子は見抜いた。史記世家や左伝はここまでです。⇒しかし、後の儒家たちの解釈は、本来は、4代先までの廟の保存であるべき礼法に違い10代先の桓公=魯では三桓の勢力が盛んだったため三桓の祖先たる桓公の廟まで独立して祭っていた、これは過剰であって礼に背くものである・・それを孔子は見抜いていたのだ!、と展開します。(こんなことを微言大義などというのです)

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世家はここに、孔子の「帰えらんかな」のせりふを挿入します、論語から句を引きます。「子在陳曰、歸與歸與、吾黨之小子狂簡。斐然成章、不知所以裁之。」(論語公冶長の21、#114)
(試訳=孔子が陳にいるときいった「帰らんかな、帰らんかな、わが郷党の弟子達は、みんな大きな野心(=狂)を持っているが未完粗略だ。綾なす明らかな素材だが裁縫の仕方を知らない。)

さらにここには、この孔子のせりふを聞いた子貢は、孔子の魯に帰りたいという気持ちを察して、季康子家宰として魯に赴く?求(子有、孔子より29歳下=31歳)に孔子が魯に帰れるようにアレンジしろと言い添えた、と世家は記します。なおこのとき子貢は29歳、です。

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世家は、論語の葉公(しょうこう)の句三つのうち二つ、をここに引用します。「葉公問政。子曰、近者説、遠者來。」(論語子路の16、#319)
(試訳=葉公は政を問うた、孔子がいう「近くのものが喜(悦=説)び、遠くのものが寄って来たり」と。)

「葉公問孔子子路子路不對。子曰、女奚不曰。其爲人也、發憤忘食、樂以忘憂、不知老之將至云爾。」(論語述而の18、#166)
(試訳=葉公が孔子について子路に聞いた。子路は答えられなかった。孔子はいう「汝(=女)何故言ってくれなかったのか、その人となりは発奮すれば食を忘れ、楽しんで憂えを忘れ、まさに老いようとしていることも知らない(人だ)と」と。)

⇒これらは実は表面の意味以上に大変深いのです(後述1514)。

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⑤ここに、世家は道家風の、孔子生き様批判と反論、を2件載せます、本来の文脈とは関係なくまた長文ですが、論語微子(微子=大したことないやつら、との掛詞とracは読んでいますが)篇にもそのままありますから(このシリーズはもともと「論語」を読むつもりで始めたことでもあり、笑い)、論語から引用します。

「長沮桀溺、?而耕。孔子過之、使子路問津焉。長沮曰、夫執輿者爲誰。子路曰、爲孔丘。曰、是魯孔丘與。曰、是也。曰、是知津矣。問於桀溺。桀溺曰、子爲誰。曰、爲仲由。曰、是魯孔丘之徒與。對曰、然。曰、滔滔者天下皆是也。而誰以易之。且而與其從辟人之士也、豈若從辟丗之哉、?而不輟。子路行以告。夫子憮然曰、鳥獣不可與同羣。吾非斯人之徒與而誰與。天下有道、丘不與易也。 」(論語微子の6、#466)
(試訳=長沮桀溺(ちょうそけつでき=隠者)が鋤で並んで(=?)耕していた。孔子が通りかかり子路に渡し場(=津)を問わせた。長沮「あちらはどなたか」子路孔子です」「魯の孔子か」「そうです」「渡し場を探しているのですが」。桀溺「あなたはどなたか」「仲由(=子路)です」「孔子の弟子か」「そうです」。(長沮桀溺が)言った「天下は滔滔と水が流れる如し、こんなもの変(=易)えられない。しかもどんな人もダメといって避けている(=辟)ような人(=孔子)と一緒にいるなら、世がダメと避けている自分達と一緒がいいではないか」と土をかぶせる(=?)のを止(=輟)めなかった(渡し場を教えてもくれない)。子路孔子にそのまま言った。孔子憮然として「鳥獣と一緒に群れれない、自分は人間とともにあるしかない、天下に道があるのだから、自分は変わらない。」と。)

子路從而後。遇丈人以杖荷?。子路問曰、子見夫子乎。丈人曰、四體不勤、五穀不分、孰爲夫子。植其杖而芸。子路拱而立、止子路宿、殺?爲黍而食之、見其二子焉。明日子路行以告。子曰、隠者也。使子路反見之。至則行矣。子曰、不仕無義。長幼之節不可廢也。君臣之義如之何其可廢之。欲絜其身而亂大倫。君子之仕也、行其義也。道之不行、已知之矣。」(論語微子の7、#467)
(試訳=子路が後れていて、もっこ(=?)担ぎの杖の老人(=丈人)に逢った、孔子に追いついて「見かけませんでしたか」と孔子に問うた。(老人は孔子を非難して)「手足も使わず五穀(粟・黍・麦・米など)の違いもわからず何が先生か?」と、その杖をつかって農作業をした。子路は敬して子路の宿に招き鶏黍で歓待しその二人の子にもあった。翌日孔子に告げた(わけだ)。孔子は「隠者だね、お連れしなさい」と。反って見たがもういなかった。孔子はコメントした「仕えないのは義を無視すること、長幼のけじめは無くなってはいけないし、君臣の義は無くなるはずも無い。その一身のみを潔しとしても世の乱れは大きい。義を行うことこそ君子の仕事、道が(なかなか)行われないことは(百も)承知だが。」と。=朱子新注による試訳です。)

これらも暗喩、意味深といえば意味深、です。(追記、1518で多少はましな読み方を得ました)

⇒ここで一旦止めます。

(つづく)

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