1576.論語上論の曾子

1576.論語上論の曾子:2011/6/20(月) 午前 11:27作成分再掲。

QT

論語上論10篇から曾子をみましょう・・伝統的に知られる曾子のイメージそのものです。

世界遺産伝統儒教には心地いいものが多いのでしょう。・・これが魯本学窓派のもともとからの臭い、なのです。
下論斉本志士派とは全く違うのです。表と裏、明と暗、外向と内向、開放と自閉、そして(志士派流に言ってしまえば、笑)賢明と魯鈍、の違いです。

⇒そんな曾子魯学窓派が孔子の冒頭原学而篇にまで、曾子らの句を突っ込み、孔子の精神をグチャグチャにしはじめました。このことが、子貢ら斉志士派が斉本を纏め始め、曾子らを愚弄し始めた、直接の動機、だったろうことも既述しました・・

--------------------------------------------------------------------------------

曾子の句、まず学而篇第1の2句を繰り返します(記事1566)。曾子の弁です・・

吾、日に三度わが身を省みる。人のために謀りて忠ならざるか。朋友と交わりて信ならざるか。習わざるを伝えしか。(#4、1の4)
終わりを慎みて遠きを追えば、民の徳、厚きに帰せん。(#9、1の9)
(通説的現代語訳:人の終わり(死)を慎んで送り先祖の祀りを欠かさずにすれば、民の徳も重厚なものとなっていくものだ。)

--------------------------------------------------------------------------------

曾子の句、泰伯篇第8より、5句

曾子、疾(やま)いあり。門弟子を召して曰く、予が足を啓(ひら)け、予が手を啓け。詩に云う、戦戦兢兢として、深き淵に臨むがごとく、薄き冰(こおり)を履(ふ)むごとくせよ、とあり。而今而後、われ免れしを知るかな、小子(しょうし)。(#187、8の3)
(通説的現代語訳:曾子が危篤、門弟を呼び集めていった。「自分の足や手を良く見てくれ、(変な傷などないな。)詩経は戦々恐々と深い淵に臨み薄氷を踏むようにせよ、という。その教えに従ってきたがいよいよ死ねる。そんな状況から(ようやく)解放される。さらば諸君。」)

曾子疾あり。孟敬子これを問う。曾子、言いて曰く、鳥のまさに死なんとするや、その鳴くこと哀(かな)し。人のまさに死なんとするや、その言うこと善し、とあり。君子の道に貴ぶところのもの三あり。容貌を動かして暴慢に遠ざかる。顔色を正して信に近づく。辞気を出して鄙倍(ひばい)に遠ざかる。?豆(へんとう)の事には、有司存す。 (#188,8の4)
(現代語訳:曾子危篤、孟敬子が見舞い。曾子が言った「鳥が死ぬ時は鳴き声は哀し、人が死ぬ時はその言うこと善し、という。(だから聞け)君子の道の貴ぶべきは三つ。容貌を(礼に従って)動かせば(自分のかつ他人の)暴力や傲慢を避けることができる。顔色を(礼に従い)正しくすれば(自分のかつ他人の)信(信用・約束)に近づく、言葉の雰囲気(=辞気)を(礼によって)出せば(自他共に)卑しく叛く(=鄙倍)事を避けられる。祭祀お供えごとについては専門の係りに任せればよい。」)

曾子曰く、能をもって不能に問い、多きをもって寡きに問う。有れどもなきがごとく、実(み)てるも虚しきがごとし。犯さるるも校(あらがわ)ず。昔はわが友、かつてここに従事したりき。(#189、8の5)
(現代語訳: 才能があっても才能のない人(の意見)を聞く、多数派(常識)でも少数派(異端)を聞く。充実していても謙虚に。文句喧嘩を吹っかけられても抗わない。昔、そういう(立派な)友達がいたものだ。)

⇒その友達とは顔回だろう、と古来通説。

曾子曰く、もって六尺の孤(こ)を託すべく、もって百里の命(めい)を寄すべし。大節に臨んで奪うべからざるなり。君子人(くんしじん)か、君子人なり。(#190、8の6)
(現代語訳:6尺(春秋尺だから22.5cm、135cm程度)の(君主の)孤児を託せて、百里(方百里か戸百里か=いずれにせよ小国一国)の民(政治)を預けうる。節操は堅い。そういう人がいれば君子人か、そうだろう。)

曾子曰く、士はもって弘毅(こうき)ならざるべからず。任、重くして道遠し。仁、もって己が任となす。また重からずや。死してのち已む。また遠からずや。(#191、8の7)
(現代語訳:士は弘毅たれ、任は重く果てない、仁を任としその重さを自覚せよ。死してようやく解放される、果てないものだ。)

⇒吉川さんは曾子ではこれが「最も優れる」と。吉川さんは士は広く教養ある人間と解していいというが、やはり、原義通り、大夫の下の「士」と読むのが誠実、でしょう。

--------------------------------------------------------------------------------

伝統儒教的にはうなずけるものばかりなのでしょう?#191で吉川さんご指摘どおり、#191が比較的マシで、あとは通俗プロトタイプでしょう。

⇒・・ですが、

もう一つ、読み込んでやらねば曾子が可哀想なのは・・春秋戦乱の私利私欲下克上の当時は、#191も一般論つまり諸侯大夫向けのメッセージなら逆に勇気あり過ぎの発言、です。が、曾子はそこまで行かない。むしろ、志士派いうとおり、曾子のことばの多くは、当時でも戦々恐々の愚直魯鈍、と聞こえたでしょう。

#189の「能をもって不能に問い、多きをもって寡きに問う」などもむしろ自分が不能、自分が少数派と自覚している、とさえ見えます。

だから、#191も安易に一般化して読んでは無責任・あくまで体制下にある士(官僚や兵士)へのメッセージと厳しく読むことで曾子の個性が分かります。そして、孔子や子貢のように天下国家を語らず、自ら戦々恐々として生きたらしい曾子というひとの愚直魯鈍の深みが分かります。

漢帝国体制以降吉川さんにいたるまで、曾子の句は体制維持身分社会では常識で平凡に見えるのでしょうが、発言当時は士たるものが戦々兢々魯鈍な弱者であることを認めること(そうでもあるでしょ?)は、尋常ではない勇気ある発言だった、のではないかとも思うのです。

--------------------------------------------------------------------------------


そういう目で曾子を見れた一人が、孔子だった。孔子が一貫を説いたのは、論語による限り、子貢以外では曾子だけです。
その句です。論語でも陰の薄い曾子ですが、
里仁篇第4の句です。これが最後、以上で論語曾子連句はすべて(のはず)です。子曰、參乎、吾道一以貫之。曾子曰、唯。子出。門人問曰、何謂也。曾子曰、夫子之道、忠恕而已矣。(#81、4の15)
(読み下し)

子曰く、参(しん)や、吾が道は一(いつ)以て之を貫く。曾子曰く、唯(い)。子、出ず。門人問いて曰く、何(なん)の謂(い)いぞや。曾子曰く、夫子(ふうし)の道は、忠恕(ちゅうじょ)のみ。

(現代語訳)

孔子曾子にだけ呼びかけて「わが道は一貫だ」。曾子「分かっています」。孔子が去り門人達があつまって「どういうことか?」。曾子孔子先生の道は忠恕のみ」。

--------------------------------------------------------------------------------


--------------------------------------------------------------------------------

さてさて、これに関連して、次の課題です。極めて大事なところなのですが・・斉本ではこれに対抗して、子貢を持ち出し、この曾子の発言や理解をまたまた否定している、と読みます。

⇒吉川さん流に言うなら、この#81が曾子の一番いいせりふでしょう。・・曾子は有名な割りに論語に魅力ある文章は少なく、明晰で弁も立つ弟子が多い中では、きっと表現力なしの口下手・戦々恐々・愚直・魯鈍が印象的・・子貢辺りとはケミストリが合わなかったでしょう。それでも、琴を鳴らしたり自然と親しんだり弟子達に優しかったり、自然道家的な温かみのあった人のような気がします。

⇒・・ですが、斉本は(文章の)いいところを曾子くんだりもっていかれるのは絶対イヤ、といわんばかり。・・斉本は徹底して曾子をタタキタイ・否定したい、らしい。子供の喧嘩みたいで困ったことですが、そうとしか見えないのです(笑)。

 

(過去2千年もあってこの業界の人はなぜ「こんな風にも」(「にも」ですよ)読まないのか、信じられないのです。何人もいる書き手の心情の機微をまるで見ていない。・・フツーならそんな読み方はありえない!許されません!・・少なくともその限りで儒教は当然、否儒学も、独善扁平の「宗教」です。)


(つづく)

UNQT