1572.論語下論による子貢論

1572.論語下論による子貢論 :2011/6/16(木) 午後 2:39作成分再掲。

QT

子貢がボス格だったろう、孔門志士派系=斉本系=下論の先進・顔淵篇のなかから、子貢関連の句をピックアップします。

⇒その前に、
現伝学而篇の子貢関連の2句は、孔門志士派の発想で(子貢自身が)加えた二句と見ましたのでその復唱から。記事1567
#10 (通説和訳)

子禽が子貢に聞いた「孔子先生は各国にいかれたが、必ず各国で政治に与った。自分からそうされたのでしょうか?」

子貢が答えた「先生は温・良・恭・倹・譲な方だった。だから自ずと政治にかかわることになった。先生の政治参画の場合は、他の人が自分から求めてそうするというのとは諸々違っていた。」
⇒おそらく、孔子は(孔門志士派は存在もせず)諸国遊説はしたが各国で受け入れられなかったのだというような学窓派のキャンペーンが行き渡り始めていたのでしょう、子貢は「とんでもない、孔子は諸国にいくだけで声がかかり自然に政治に関与した」と証言しています。


#15(通説和訳)

子貢「貧しいけどへつらうことなく、富んでもおごることがない、どうでしょう?」

孔子「それはそれでよい。だが、貧しいけどなお楽しみ、富んでなお礼儀正しい、こっちが上だな。」

子貢「詩経に切磋琢磨というのはこのことですか?」

孔子「子貢や、ようやくともに詩経を語れるな。撃てば響くだな。」
朱子も言うとおり、子貢自身は自分は金儲けして孔門に貢献しても驕らずなお礼儀正しいとの自負もあった、しかし孔子先生には「そんなことはどうということはない、貧しくとも道を追求しそれを楽しむ=自分はそうだ。子貢や、お前は楽しんでいるか」と、一本取られたなあ~です。・・こう読まねばこの句の本当の味(笑い)がわかったことにならない、です。

--------------------------------------------------------------------------------

先進篇第十一から、3句、です。
#266(11の12)

閔子、側に侍す、誾誾如たり。子路、行行如たり。冉有、子貢、侃侃如たり。子楽しむ。由のごとくんば、その死然を得ざらん。

(通説和訳)孔子のそばにいるときは、閔子騫は(上の大夫に対するように)中正行儀良く諌めるように、子路は行行(=遠慮なく剛強に)、冉有と子貢は(下の大夫に対するように)理屈だって強かった。孔子はその様子を楽しんだ、で子路は畳の上では死ねないのだろうな、と。
⇒4人の(4人とも孔門十哲=志士派=先進野人)違いを孔子は「楽」しんだ、といいます。ギンギンもカンカンも礼法の郷党篇で、孔子自らが各国朝廷で取った態度です。冉有と子貢は孔子を目下の大夫相手にする時のようであった、といっていますから、結構偉そうなのです(笑)。行行はやってもいい遠慮なく剛強自然に、やや無神経で、フツーの死に方は出来ないかな、と孔子子路への厳しい眼です。改めて古注新注各時代みましたがそれぞれの時代感覚で漢字そのもの意味とは少し違う印象、です。
#269(11の15)

子貢問う、師と商といずれか賢れる。子曰く、師や過ぎたり。商や及ばず。曰く、しからばすなわち師愈(まさ)れるか。子曰く、過ぎたるはなお及ばざるがごとし。

(通説和訳)子貢が問う「師(子張)と商(子夏)はいずれが賢いか」、孔子「子張は過ぎ、子夏は及ばず」。子貢「では子張がまさるか」。孔子「過ぎたりはなお及ばざるがごとし。」
⇒孔門子弟の誰をどう使うか、は孔子と子貢あたりが決めていたようにも見えます。子張も子夏も子貢より更に十数歳若いですから、こういう人物評を記録に残しても彼等に失礼にはならない。

⇒子張は陳出身で陳蔡時代は小間使いです、ですが論語の世界では大物です。子夏については鄭玄は晋の温国出身ともいい、対晋のメッセンジャーボーイでしたが、曾子らとは合わずまもなく孔門を外れ西方魏に向かい学者として大成したようです。・・なお、対呉のメッセンジャーボーイだった子游も同様で魯を離れ江南で学者として大成し江南夫子と呼ばれるようになるらしい、です。
#272(11の18)

子曰く、回やそれしばしば空しきに庶(ちか)し。賜は命を受けずして貨殖す、億すればすなわちしばしば中(あた)る。

(通説和訳)顔回は本当に貧乏だ。子貢は(天の、孔子の)命令もなしで金儲けした、その(相場の)予想はよく当たった。
顔回と子貢のもっとも顕著な違いでしょう。金儲けは孔子の指示でもなかった、自分勝手にやったこと、と証言しています。

--------------------------------------------------------------------------------

⇒子貢は堂々として客観的(に表現し)ながらも、嫌味でない程度に、自慢にもなっています。

⇒下論の、顔淵第十二から3句、続けます。
#286(12の7)

子貢、政を問う。子曰く、食を足らし、兵を足らし、民、之を信ず。 子貢曰く、必ず已むを得ずして去らば、この三者に於て何をか先にせん。曰く、兵を去らん。子貢曰く、必ず已むを得ずして去らば、この二者に於て何をか先にせん。曰く、食を去らん。古より皆死有り、民、信無くんば立たず。

(通説和訳)
子貢が政を問う。孔子「食を十分にし兵を十分にし民が政治を信用(約束どおりやってくれる)できることだ」。子貢「やむなく一つ捨てるとしたらいずれか」。孔子「兵だ」。子貢「やむなく次は」。孔子「食を捨てる。昔から人間は死ぬものだ。政治というものは、民の信用がなければ成り立たない」。
⇒政や仁などについては沢山のひとが孔子と会話しています。しかし、もっともレベルが高いのが子貢とのやり取りです。

⇒後の一部儒家が言うように、兵を否定などしない、むしろ最後に残る三つの一つという表現です、帝国安定期でなく春秋戦乱期の実感でしょう。すごいのは、兵の次に捨てるのは食という、人はどうせ死ぬから食は次に外す。政治とは民との約束・それを守ることだ、と言い切っている。・・まさに孔門志士派の気合でしょう(笑)。
#287(12の8)

棘子成(衛の大夫)曰く、君子は質(しつ)のみ。何ぞ文を以て為さん、と。子貢曰(いわ)く、惜しいかな、夫子の君子を説くや。駟も舌に及ばず。文は猶お質のごとく、質は猶お文のごときなり。虎豹(こひょう)の?(かく)は猶お犬羊(けんよう)の?(かく)のごとし。

(通説和訳)衛の大夫言う「君子は質(実質)のみ、文(文章や形式や飾り)はいらない」。子貢「惜しいな、あなたの君子を説くのは。四頭立て馬車も舌に負ける(軍も言葉に負ける、一度言うと馬車でも追いつけない、など)。文と質は切り離せない。虎豹の美しい皮も毛模様をとってなめし皮にしてしまえばその辺の犬羊と変わらないともいう」
⇒なんとも子貢らしいスナップ写真に見えます。

⇒惜しいかななどと大夫に偉そうに言うことはない、言葉がハデで難しい・・まあ多弁多能できらめく才気は出ています。・・ですが内容はあまりない、よくわからない。・・孔子ならもっとうまく言うでしょう。
#302(12の23)

子貢、友を問う。子曰く、忠告して善くこれを道(みちび)く。可(き)かざれば止(や)む。みずから辱(はずかし)めるなかれ。

rac訳)子貢、友を問う。孔子「忠告していい方向に導く、言って聞かねばそれ以上は止める。(相手を)罵り辱めるのはやめよ。」

⇒通説的には、「毋(=無)自辱焉」を「更に言ってこちらが辱められないないように」とする。原文も受身とは読めず、能動でよいと思いますが・・
⇒友についての論議のレベルは一転して高くない。むしろ、子貢は、すぐ上の#287通り、一言余計で惜しいかな、といってしまう。そんな人を馬鹿にするようなことまで言うな、と子貢相手だから、孔子は言っている。

--------------------------------------------------------------------------------

⇒最後の二つになると、子貢自らが選定した句とは考えにくい。子貢が自戒をこめてピックアップしたとすればたいしたものだが、むしろ、後世、子貢らしい才気・詭弁・高慢も出ていると見て採用した、ここは魯系の人のピックアップでもおかしくない。

⇒他の篇にはまだまだありますが、下論の先進と顔回の2篇からは、これで子貢はすべて(のはず)です。・・子貢は、まあ、「格好いい」、「結構いけてます」。

--------------------------------------------------------------------------------

さて、続いて、

上論から(公冶長篇など)から、子貢の句をみます。こちらは結構「きつい」です(笑い)。
(つづく)

UNQT