1530.孔子(40)世家〆の淀みへの答え①

1530.孔子(40)世家〆の淀みへの答え① :2011/5/23(月) 午前 11:29作成分再掲。この辺もくどいですが、記録まで再掲。どんどん読み飛ばしてください。

QT

承前。司馬遷史記孔子世家」の〆部分・・について

1)弟子の中で「顔濁鄒のように相当程度まで成業したものも多かった」と司馬遷が書く理由。やはり前漢安定期の儒家たちに配慮しているのです。帝国型官僚型の儒家が本命の儒家、という価値観に配慮しているのです。

子貢のような超外交官で金持ちで衛魯の宰相を勤めた人間も違う、子路のようにまっすぐな軍人で義のために戦闘死する人も違う。宰我のように他国に勤め乱に巻き込まれるような人間も違う。曽子のように孝経を説くのも、子夏のような学者も、ちがう。

まさに董仲舒あたりが言い始める、漢帝国皇帝の下にあって物知りでバランスの取れた高級官僚になるための教養、それが儒教・・孔子の弟子達のイメージの中では、他の誰でもない、顔濁鄒あたりが目立たず無難なのです。

そういうつもりで、司馬遷は「顔濁鄒のように孔子の業を継承した成功者も多い」と書いているのです。かつてないほど安定し超大国となった漢帝国における期待される儒家像なのです。そして余り名は残らなかったけれど孔子の現実の弟子達の中でもこの官僚タイプの弟子が多かったのも事実なのでしょう。

しかし、これは司馬遷が魅力あるものとして理解した孔子孔子の弟子達の実像からは、はるかに遠い。顔濁鄒は世家と孟子にはでてきますが、同じ司馬遷史記の「仲尼(孔子)弟子列伝」=70数名の「異能の士」と司馬遷は書く・・にさえ名前はでてこない、司馬遷的には異能の士というべき弟子ではない、フツーの弟子達のひとり、という気持ちなのでしょう。


2)麒麟の死骸発見(獲麟=ものごとの終わりの意味)の前後も大変含みのある文章です。通常読まれる以上に、司馬遷のよどみは深いのです。

・・自分が認められない、学問が中途半端、世の中はよくならない、そんなよくある程度の嘆き・絶望にはみえない。高い理想を持ち現実と戦い、しかも結構いいところまで行ったのに、最後はこけた、そういう男の、激しい慚愧の念、なのです。

はっきりは書かなかった(書けなかった)けど司馬遷は、孔子呉王夫差の没落を獲麟に重ねてみている、とみたと、racはやはり思います。

いままでいくつも状況証拠をかいていますが、追加としてリファーすべきは、司馬遷史記の「呉の世家」の夫差の没落部分の短い文章です。
「斉の鮑氏が斉の悼公を弑した(前485年)。呉王(夫差)はこれを聞いて3日間、軍門の外で哭泣した。その間、海上から斉を攻めたが、かえって斉軍に破られ呉王は兵を率いて帰った。(呉王夫差の)13年(前483年)呉は魯・衛の君を招きタクコウ(魯の邑)で会盟した。14年(前482年)春、呉王は諸侯を黄池で会盟した。中国の覇者となり、周王室を安泰にしたいと望んだのである。その年(前482年)6月、越王勾践は呉を伐った。」・・・そしてこの後高転びに転ぶように呉滅亡(前473年)へ向かいます。(小竹文夫武夫兄弟訳の筑摩本「史記」第二巻、p209、要約文責rac)

 

鮑氏の斉悼公弑逆(前485年)に夫差は3日哭泣し斉を攻めたといいますが、これを並行するのが、田常氏の斉簡公弑逆です(前481年)・・このとき「珍しく孔子は田常(=陳成子)を伐つべしと魯の哀公に主張し自分で決められないから三桓に相談しろといわれ結局実現しない」という話です。論語にもあるし、孔子世家にもある、いかにも孔子に力がないな、春秋戦乱でそんなことを言ってもな、と読者が思ってしまう下りです。

軍事的に意味があったかどうか知りませんが、いわば呉没落のスタートとなる呉王夫差の斉鮑氏への攻撃と敗北は、案外、弑逆は成らぬ・罰すべきと孔子が強く主張したことが一因ではないか。軍事的には得策でないのに、このころには「入れ墨もの」夫差が孔子の世界を理解しそんな行動を起こしたのではないか。

 

何度も繰り返しますが、麒麟の逸話は前481年です。呉王夫差が黄池会盟と地元越王の反乱(前482年)でピークから滑り落ちたことがほぼ明白になった時期です。孔子には、やはり呉王夫差天下布武のひとだったのです。ピーク時に本能寺に非業の死を遂げる織田信長なのです。

孔子もそう見ていたし、当時広く資料に当たった司馬遷孔子はそう思っていたとracは解します。そして、丁寧に読めば分かるように司馬遷はあちこちに書き残していると読みます。こう読んで、世家のこの前後の司馬遷のよどみをよく理解できるのです。
(つづく)

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