1527.孔子(37)子貢、五国調略

1527.孔子(37)子貢、五国調略 :2011/5/20(金) 午後 0:08作成分再掲。

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承前。「史記仲尼(孔子)弟子列伝」の子貢、より、続けます。

子貢の外交の続きです・・魯のための四大国調略です。後の蘇秦張儀以上の縦横家諸葛亮孔明を超える軍師ぶりです。前記事通り、子貢を「許して」派遣したのは他の誰でもない「孔子」である、と司馬遷史記も証言しているのです。


④呉王は大いに喜んで、子貢を越に赴かせた。

越王(勾践)は道路を掃除し郊外まで出迎え自ら子貢の馬車を御して宿舎に入り「蛮夷の国(越)に大夫(=子貢)は如何なる理由で車馬いかめしく来臨されたのか?」

子貢「わたしは呉王に魯を救うべく斉を伐ってほしいとお願いしに来たのですが、呉王は越について憂慮され越を伐つまで待て、という。このままなら、呉は越を伐つことは必至。報復する気もないのに相手に疑われることは拙い。・・」

越王は再拝して曰く「会稽での敗戦は痛恨の極み。日夜唇を焦がし舌を乾かして、呉王を殺し自分(越王)も死のうと思っている。どうしたらいいのか」

子貢「呉王(夫差)はひととなり勇猛暴戻、群臣は耐えかね人は疲弊している。伍子胥は諫死し、伯?(はくひ)は主君の過ちに従うばかりで、私利に走っている。いま大王(越王勾践)が呉王の機嫌を取って敬意を表すれば呉王は安心して必ずや斉を伐つでしょう。

呉が勝てば幸い、呉王は晋に向かうでしょう。そうなったら、わたくし(子貢)は北上して晋君(事実上は趙鞅)に目通りし、ともに呉攻めるように説得しましょう。そうなれば、呉は弱まり越に呉を亡ぼすチャンスが出てきます。」

越王は宝物を送ったが子貢は受け取らず、


⑤呉王に復命していわく

「臣(=子貢)は呉王の言葉を伝えました・・「呉王は自分を会稽の敗戦にもかかわらず助命し社稷を保たせてくれた恩人。呉に対して陰謀などめぐらさない」と越王はいいました。」

その5日後、越は大夫種を呉に派遣頓首していわく

「東海の奴僕勾践のことばとして、(呉の)大王は大義の軍を起して強国を誅し弱国を救い暴虐なる斉を苦しめて周王室を安んじようと密かに聞いている、越は全士卒三千を率い王自ら従軍する、出陣の餞を贈る」と。

呉王は喜び子貢に「越王は従軍するというが許すべきか?」

子貢「いけません。他国を空にさせ君主も全兵力も徴発するのは義ではない。越の贈り物と軍を容れても越王の従軍はご辞退せよ」

呉王は子貢に従い、呉の九郡を徴発して、斉を伐った。
⑥そこで、子貢は呉を去って晋に赴き、晋君に言った、

「・・斉と呉が戦争しようとしている。呉が勝たない場合は越が呉を混乱させようが、呉が勝った場合には晋に向かってくるでしょう」

晋君「どうしたらいいだろう?」

子貢「兵備を整え兵を休養させ待機されたい。」

晋君は承諾、子貢は晋を去り魯に戻った。

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⇒これをどう読まれるか?
1)このように一挙に読むといかにも数ヶ月の間のお話のように見えますが、それは違います。司馬遷自身が10年に及ぶことといい、上記記事の直後でも、「予定通り」と書き、
「呉王は艾陵(がいりょう)に斉を破り(前485年)、帰国せず」
「晋に向かい黄池で遭遇し(黄池会盟のことなら前482年)、晋は呉を破り」
「これを聞いた越王は呉の都城に侵攻」
「呉王は反転して越と戦うも三度戦って勝てず」
「ついに越王勾践は呉王夫差を破り(前473年)伯嚭(はくひ)を誅戮し」
「三年後には越は東方諸侯に覇を唱えた」(徐州の会盟なら前473年だが)
と同子貢伝で書きますから、文字通り、十年以上に及ぶことです。

なお①の斉の田常が魯を攻めるという話ですが、斉景公の死(前490年)後はその公子たちが魯にも亡命したこともあって、前490~485年のいつの話でもおかしくない。

①②の緊迫感からすると前485年ころとすると一番しっくりします。このときなら、孔子は67歳、まだ衛にいたとされる時期、子貢は36歳の働き盛り、です(なお、子張は19歳、子石は14歳です。)

・・なお斉呉の艾陵の戦いは上記どおり前485年、呉の伍子胥が斉に肩入れし北方政策を非難し呉王夫差から死を賜るのが前484年、斉の所謂「田常の乱」=田常が孔門宰予(宰我・子我)を巻き込んで斉で自滅するのは前481年です。(孔子の死は前479年。死の直前も子貢を待って迎えた、子貢は人の倍6年服喪した、といいますから、孔子子貢の関係はずっと続いています。)


2)だとすると、①~⑥の「簡潔な記事」は古くから本当にあったのか、司馬遷「作」とも疑われますが司馬遷はそんな人ではなく、ばらばらに存在はしていた竹簡記録を編集したもの、と「信じる」こととします。
(例えば、長生きし金持ち政治家として大成した子貢が残していた、あるいは孔子のオフィスにレポートしたものが残っていたなど・・いずれにせよ子貢の「証言」がなければ上記②~⑥すべて成立しません)

 

3)少なくともいえることは、

従来からrac新説奇説と主張している、とりわけ彗星の如き呉王夫差の北方斉への侵攻・晋の趙鞅との対抗については、僭越ながら司馬遷も①~③通り、子貢and/or孔子のシナリオだと信じていた、ということです。
⇒④⑤もそのまま信じれば、司馬遷はさらに孔子子貢は越の最終勝利まで読んでいたということになりますが、そこまでは孔子には無理でしょう。現実の孔子子貢が呉王夫差の代替まで考えていたとすれば(論語にも3句ある)葉公のいる楚の方だと想像します。

⇒ただ子貢は長生きしますから、どこかのタイミングで呉を見限り越王に乗り換えたことは十分ありえます、しかしこれは孔子の死(前479年)後。子貢についてはのちには魯衛の宰相にもなり斉で生涯を終えたと書く司馬遷ですから、あるところから先は、子貢独自の読みと戦略、と見たのが司馬遷の評価、というのが正確でしょう。

いずれにせよ、子貢・孔子・原始孔門は(・・このあと、子貢ひとりを切り離し、子貢を金に汚く口がうまく出世主義の悪人に仕立てていくのが、孫弟子世代以降の儒教論語なのですが)

・・論語やその後の儒教が主張するような、単なる道学者哲学者ではなく中華全体を睨み、極めて活発な戦略秩序回復を描き実際に誘導した人々だった、と司馬遷も見ていた、ということは間違いない。
4)司馬遷当時はすでに董仲舒もいて帝国型孝経型儒教は一大勢力でした・・比較的大人しい孔子像も定着しています。・・司馬遷はそんななか敢えてこういう孔子像孔門像を発表しようとはせず(格上の世家と持ち上げても孔子世家には取り上げず)、比較的目立たない弟子列伝の子貢のなかに10年5カ国分圧縮して、孔子の最後10年分の活躍を子貢に化体して、密かにしかしきっぱりと主張した、と読みます。

⇒ですが、ここも不思議なのです、司馬遷の列伝子貢分は偽作と言わない限り、誰が読んでも以上自明と見えますが、日本では、このことを明確に主張されたものを見ません。おそらく、どの時代でも気付いた人はいても、司馬遷同様の憚りがあった、ものとみます。・・清以降とりわけ毛沢東文化大革命以降はそんな遠慮は不要なはずで近現代中国にはこのことを主張される人はいらっしゃるに違いない、とは思うのですが・・(笑い)
(つづく)

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