1511.孔子22:呉の南方制圧

1511.孔子22:呉の南方制圧 :2011/5/9(月) 午前 11:41作成分再掲。

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承前。少し細かく見ていきましょう、「春秋哀公篇」を軸にします。
前497年 呉越「?李(すいり=浙江省嘉興市)」の戦い、「越」勝利。呉王闔廬(こうりょ)が越王勾践(こうせん)即位直後を襲う。勾践をなめきっていた呉王闔廬の油断と越の謀臣范蠡(はんれい)の奇策で呉敗戦。呉王闔廬は矢傷が元で死亡、その子(次男)の呉王夫差は復讐を誓い臥薪嘗胆の日々・・

前494年、呉越「夫椒・会稽」の戦い、「呉」の勝利。越王勾践が仕掛けるも敗北、越に撤退し会稽山で降伏。呉の謀臣伍子胥(ごししょ)は勾践を殺すことを勧めるも呉王夫差は許す(3月)。・・後に禍根を残すことになる。
(この記事は、春秋本文=経にはないが、左伝は長文で伍子胥の弁を中心に記す・呉も越も報告してこなかったから本文にないのだと注記。所詮は中原外の夷狄の出来事なのである・・)

同年、この間に「楚」「陳」らが「蔡」を囲む・・「蔡」は呉に乗り換える。

同年、「呉」は対越戦勝利の余勢を駆って「楚」に入り、8月「陳」に入り止まる。陳公曰く「楚につくものは右に、呉につくものは左に」と。(領地(田)がどこにあるかで、陳は事実上、楚と呉に二分された状況。)

同年秋、「斉」景公と「衛」霊公ら、范氏を救うため晋を伐ち・・

同年12月、「晋」の趙鞅は朝歌を伐つ・・

 

前493年、「魯」の季桓子ら三桓が「?」(ちゅ)を伐つ・・

同年4月、衛の霊公死す、10月葬式。

同年6月、晋の趙鞅が陽虎を使って??を<戚>に入れる。

同年8月、晋の趙鞅が<鉄>にて「鄭」を破る。

同年11月、「蔡」が(都を)移す・・蔡の内紛・・
⇒以上が、春秋の魯哀公1,2年の記事です。

⇒一見分かりにくいが、

話は、単純です。
1)「呉王夫差」が「越」を破り、「楚」を圧迫し、「陳」を二分し、「蔡」は呉に就いた・・これが南方情勢です。

2)北部中原では、「晋の趙鞅」(後に晋を三分する趙韓魏の趙のご先祖です)が席巻し、范氏・中行氏など晋の反趙勢力と「斉」「衛」「鄭」は、趙鞅との長い戦争を継続中、です。

3)極めてローカルでセコイ話なのですが、「魯」の三桓は近くの「?」の田を狙って掠め取ろうとし(これが後に呉の介入を許す因となる)・・また、長期政権で安定していていた「衛」は霊公の死で一挙に情勢流動化した・・

4)前495年9月には魯定公の葬式、そして前493年10月に衛霊公の葬式ですから、「孔子」は、何があってもこの二つの葬式には出席した・・と見ますから、「孔子一行はこのとき魯か衛か」にいます。中原の各国から弔問使節が来たはずで、上記のような、一挙に流動化した南方中原状況は情報交換の中核であり、当然孔子の耳にも入った、でしょう。

5)そして、くどいですが、魯の桓宮僖宮が火災になった前492年5月には、孔子は「陳」でこれを聞いたといいますから、霊公の葬式の後には、かなりはっきりした目的があって「陳」に入った、と見るべきです。

6)このとき「陳」はすでに呉に侵食され、呉派と楚派に二分しています、そういう時期に孔子一行は「陳」にいたのです。

7)いうまでもないでしょう・・この段階で誰かの誘いがあったかどうか、分かりません、むしろだれの誘いもないままに、孔子と高弟たちが情勢分析し自ら陳に入った・・陳蔡の現状、楚と呉と越の動きを見極める、そして自分達の働き甲斐のあるところに自らを売り込みたい・・そんなところではないか。
孔子の魅力のひとつは、その後の多くの儒家とはちがって、優秀で「行動的」な弟子たちがたくさんいることです・・
また、その後の儒家のように「負け組根性」に執り憑かれてもいない・・孔子は優柔不断なところがあったと思うが弟子はみんな若い(というより老人の弟子たちは就いていけずに若い弟子たちがこのころから主力になるのでしょう)し論客です、志士たち、なのです、松下村塾と同じとみていい・・。

 

春秋や史記など古い記録から上記程度はうかがい知れるのに、その後の儒教伝統では、この辺のことに余り触れない、雲がかかっている、様な印象、があります・・後世の儒家にとっては、芳しくない、と思われる何か、が「孔子一行の陳蔡滞在と遭難の本質」だったのです。

当に、心身を張っての政治行動そのもの=ひそかに呉と組んで呉を中原に誘い晋の趙鞅と対抗させ、魯や衛の主体を回復し、ひいては魯や衛の政治を全うなものとし、あわよくば天下の騒乱を晋と呉の相互牽制で和平し周王朝の王道を回復する・・これがこの前後に孔子一門が到達した「今後の活動方針」だった、とみます。
(つづく)

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