1519.孔子30:孔子の諸国遊説?

1519.孔子30:孔子の諸国遊説? :2011/5/14(土) 午前 10:45作成分再掲。

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先を急ぎたいところなのですが、急ぐと転ぶので(笑い)

陳蔡関連で、気になっているところをつぶしておきます。
いずれも細かなところで全体の流れには大きな影響はないと思うのですが、司馬遷孔子世家」が取り上げているところにも関連して、rac的にまだ腑に落ちない点です。・・まあ、結論ははっきりしなくともぎりぎりのところまで確認しておきたいのです。


脈絡なくバラバラですが、問題意識、を先に披露しておきます。

(1)陳蔡にはあわせて3~4年、前492~489年、孔子一行は(「拠点」として)いたとracは見ているが、もう少し狭められないか?特定できないか?司馬遷はどうおもっていたか。孔祥林さんはどう考えられているか。すり合わせ確認。

(2)秘密裏に「呉」ともすでに行き来があったとracはみたが、何か証拠はないか?

(3)宋の桓魋(かんたい)はこれまた「孔子の遭難」のひとつで陳行き途中とフツーはされるが、孔子一門の隠密活動時のひとつの遭難と見る余地はないか。例の鄭での「喪家の狗」もそうは見れないか?

(4)「世家」では陳の殆ど唯一の話題「粛慎の矢」の話は何か?司馬遷の意図は?


(1)陳蔡滞在時期・期間⇒あるいは孔子の諸国遊説とは
racは、礼の人孔子だから、衛の霊公の葬式(前493年10月)が終わるまでは衛にいた、その後陳蔡に入り、最後は楚昭王が楚陳国境の城父で陣没した時(前489年秋)には城父にいた、楚王の葬儀はどんなものかわからないが、いずれにせよ、前488年夏には魯哀公が呉使に会し、百牢の馳走を要求されているから、この時点には魯に帰っていた、と見ました。

②繰り返すように、孔子一行は、極めて活発な政治行動団体だったから、孔子も含め陳蔡にじっとしていたわけではなく、弟子達をあちこちに派遣もしていた・・とracは推定しました。


司馬遷史記孔子世家」はどう見ているのか・・素直に文脈を追う限り相当の混乱があり(だから司馬遷以降の後世だれにも孔子の行動をフォローできない主因ですが)

1)衛霊公と南子の馬車の話で「色を好むように徳を好むものを見たことがない」(論語にあり)といってすぐにも、衛を去り曹に行った、と書き、この年魯の定公が死んだ、としていますから、前495年です。

2)曹から宋にいき「桓魋の難」(論語にあり)、そして、鄭での「喪家の狗」(論語にあり)、陳にはいって、司城貞子の家に寄寓。1年余りたって呉王夫差が陳を伐ち趙鞅が朝歌を伐ち楚が蔡を囲み蔡が呉につき呉が越王勾践を会稽に破った、と世家はいいますから、前494年、です。

3)そして陳の王宮での「粛慎の矢」(論語にはない)の話(だけ)があって、陳に3年いて陳が晋楚呉に常に侵されるので、「帰ろかな、帰ろかな」(論語にあり)といって、帰途ここに「蒲の難」が来て、衛に帰った。(世家に明言ありませんが、3年いたなら、これが前491年です)

4)孔子は「蒲を討つべし」と進言するが霊公は容れず「3年くれれば良くするのに」とぶつぶつ言いながらすぐにまた衛を発ち、晋に向かい「仏?」(ひつきつ)行きを子路に反対されやめ「趙簡子も二賢臣を殺したから」といって黄河の手前から引き返し、衛に戻る。(「  」は論語にあり。この年は年も期間も不明・・)

5)それで衛霊公に陣立ての質問をされるが「礼のことしか知らない」といって翌日衛を離れる、そして再び陳に赴き、この夏霊公が死んだ、というから、この年は493年。
(⇒・・ここで、明らかに2年は過去にさかのぼっています。)

6)魯の桓宮僖宮の火災(前492年5月)を孔子は陳で聞いた(春秋左伝)のは世家も肯定する・・そして?求が魯の季康子に起用され戻ることになると、また「帰ろうかな帰ろうかな」と孔子は言う。これを492年のことと世家もみとめる。
(⇒なお、左伝は康子の父季桓子が同年秋死んだというから492年で矛盾はない)

7)翌年孔子は陳から蔡に移った、と世家はいう、なら前491年。そして秋斉の景公が死ぬ年(前490年)は蔡にいて、その翌年(前489年)には蔡から葉に入った、という、葉公とのやり取り2件は論語にもある。そして、葉を離れ蔡に帰り、蔡に入って3年、「長沮桀溺」「杖の丈人」「陳蔡間の遭難」「楚王の城父」がつづくから、すべて489年のこと。
(⇒ここまで前489年のはずだが、蔡に入って3年を単純に信じるなら前486年となる)」

8)楚では「孔子を封じない」「接輿の鳳」の話のみで、この後は、魯公と呉使いの「百牢の馳走」でこれは魯で前488年。この時点、孔子は魯ないし衛にいた、とみます。

9)その後、衛ないし魯にいた雰囲気だが世家では明言せず、前484年に衛から季氏によって魯に丁重に迎えられた、とのみ。

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どうでしょう、結論的にはa)「世家」は陳に入って3年、蔡に入って3年、を司馬遷はいかにも別物のように考えたから矛盾が拡大している。
⇒「百牢」や「城父」は春秋の書くところで動かないとすれば、陳訪問を早くして南子の馬車のあとに突っ込むしかなかった・・

b)司馬遷のみた「論語」は霊公と折り合いが悪く明日に衛を発つとあるから、まさか論語孔子自身の言う「述べて作らず」だから嘘のあるはずがないと信じて、その通り衛を発ったことにした。
⇒だから晋訪問や二度目の陳訪問を加えた・・そして2度目の陳は1年として、蔡には3年いたように書いた。

c)それでも、?白玉の宅に2度寄留したと同じように、ここでも「帰ろうかな帰ろうかな」がダブル結果となった・・

d)その結果、全体の時間が、2年ほど足りなくなった・・全体の旅程が後世辿れなくなった、わからなくなった

e)司馬遷のこの編集態度は、信頼できると判断した資料そのまま真摯に使ったから、逆に、そうなったのであり、


以上から言えることは、

司馬遷の残したものは材料としては基本信じてよく、唯二点のみ、(司馬遷は誤解したが)陳に3年と蔡に3年は同じ事態を指していること、論語の衛霊公にかかわる明日(にも)発ったとの表現は「嘘」の可能性が高いこと、が例外です。・・加えて、これをいってはおしまいですが(笑い)、

孔子一行は順に回ったのではなくて衛と陳蔡を拠点として、特に陳蔡の時期には孔子らは放射状にあちこちに出張活動していた(子魯や子貢は孔子とは別に単独でも行動した) とすれば、(順番は組変えねばなりませんが)司馬遷が世家で用いた材料はすべて生かせて矛盾なく説明できます。・・ということはここでもrac仮説の信憑性が担保されます。

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ですから、長い目で見て、

いわゆる孔子の諸国遊説、について結論的には
孔子(一行)は、魯を離れること14年にわたり、諸国を遊説しても、どこにも受け入れられず、やむなく母国に戻り学究弟子育成に励んだ、という過去の常識?イメージ?は、高い確度で間違いであり、
実際は、魯を離れたのは前497年~484年の14年(最大)であっても、うち衛に前後3回合計8年、陳蔡に4年(前492~489)は滞在し、とりわけ陳蔡にいた時期には各地に本人および弟子が活発に出張した。また衛時代の多くは隣国魯には自由に出入りでき、・・結局、本当に当てもなく流浪したのは前496~5年に衛霊公に??一味と誤解され出奔し魯定公の葬式に戻るまで=晋を目指したとフツーいわれる時期、一度だけ、とみます。
衛では無官だったが前後3回とも俸給はあり、陳蔡では呉系およびある時期からは呉楚からの公然あるいは内々の支援があって堂々たる政治活動行動を行っていた。
伝承されるいくつもの遭難は戦乱下治安が悪いための事故などはではなくいずれも具体的政治的理由があっての妨害や攻撃や孔子暗殺未遂であった
とみます。

なお、大枠流れの範囲で、ですが、世家とは上記どおりすりあわせ可能だし、ここでは詳説しませんが、孔祥林さん本との比較でも相互に説明可能・矛盾しません。

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むしろ、別に孔子儒教全体にとって大事な点、孔子は沢山記録が残っているから一生の流れくらいは伝わりそうなのに、こんな↑変なことになったのは、なぜか?つまり

これが後世こう伝わらなかったのは、・・早い時期に、孔子の「看板書き直し」が、孔子の孫弟子世代を中心に進められた結果、
とみます。・・ここはまだ先のお話、その仮説推定ですが、頭出しだけしておきます。
(つづく)

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