1510.孔子21:孔子らは呉王夫差の隠密部隊

1510.孔子21:孔子らは呉王夫差の隠密部隊 :2011/5/8(日) 午後 0:49作成分再掲。

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「春秋左伝」の哀公篇を比較的丁寧に読みました、そして「史記」の「世家群(孔子・衛・楚・呉・晋など)」を注意深く読み合わせると、孔子らの、陳蔡滞在の意味、がはっきり見えてきました。

結論をセンセーショナルに言ってしまえば「孔子一門は、当時飛ぶ鳥落とす勢いの、呉王夫差の隠密部隊であった」
ということです。・・例によって以下、rac新説奇説です、ご注意!(笑い)。

大枠を言うと以下です。
①越王勾践を破った呉王夫差は「楚」と「陳」を圧迫しつつ、「越」を警戒しつつも、中原を目指します。

②「晋」の趙簡子(=趙鞅)の勢力に押され続けていた、「衛」や「魯」は「斉」を当てにして、「晋」と対抗していました。「衛」は比較的安定していたのですが、衛の霊公の死後内紛が強まり、また、斉の景公がなくなった後、東の大国「斉」も急速に分裂弱体化。

③そこで、孔子たちは呉王夫差に注目、呉王夫差も越・楚・陳を押さえ込んで、中原に関心、孔子らの誘導もあって、中原に進出、晋と直接対抗するようになる。

④最終的には、「黄池」の会盟で呉王夫差は晋の趙鞅と並んで覇を競うまでになりますが、このときがピーク。范蠡の指導による「越王勾践」が呉の本拠地を襲い、このあと越王勾践優位の呉王夫差敗北(=呉滅亡)へと向かいます。
孔子が、陳や蔡や葉(楚の一部)にいたときは、この序章=呉が楚や越を押さえ込んで北上し中原に進出しようというまさにそのときです。

孔子の時代の中華対抗関係を一言で言うと、南方では「楚と陳と蔡が同盟して呉に対抗」、中原では「晋は宋と組んで鄭や曹を攻める」、孔子の故地「魯や衛は晋の圧迫が続き、これまで斉と組んでいたが斉の弱体化のなかで、先、どうしようか?」という時期です。

孔子が陳や蔡や葉にいた時期はまさに、もともと超大国楚の勢力下にあったこれらの国々が、呉に蚕食され押され、やがて呉、が北方進出しはじめる時にあたります。孔子一門は、呉と極秘に連携し、蔡の切り崩し、楚陳同盟の弱体化、おそらく葉は楚の一部ですが呉になびくよう、その手助けをしたとみます。そしてむしろ孔子一門も手助けして呉を中原へ導きます。

⑧そして、驚く無かれ、孔子存命中は、このシナリオが殆ど実現されつつあるようにみえたろう、ということです。


孔子一門の動機は、斉が頼りにならないために、晋に対抗して、伝統国魯や衛の自立を守ることにあります、あわよくば呉王夫差を教育し天下をとらせ、王道を回復する、くらいの夢を描いていた、とみます。
孔子一門は呉王夫差からみれば「隠密部隊」ですが、孔子一門からすれば、呉王夫差は自分たちの「理想を実現するための道具」、つまり、「晋の趙鞅」という毒を制するために「呉王夫差」という毒を以ってする、
と思っていたでしょう。

そして、驚く無かれ、孔子存命中は、このシナリオがほぼシナリオ通りに進んでいるようにみえたろう、ということです。だから、孔子の弟子達は、魯や衛を中心に自信を持って大活躍もしている、天下は戦乱のままですが、自分達のシナリオどおり、に進んではいるのだ、と思えた・・だから、彼らは決して負け組みではないのです。
⇒負け組み根性で、孔子のこの輝ける?世界を、いわゆる論語儒教、の世界に落とし込んでいくのは、この次の弟子(孔子らが期待した呉王夫差の惨めな滅亡を目の当たりにした)世代です。そう読むと例えば、出世頭?誇る?べきとも言うべき子路や子貢をなぜああまであしざまに言う孔子を伝えるのか、よく合点がいくのです。(後述)

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少し細かく見ていきましょう、「春秋哀公篇」を軸にします。
(つづく)