1557.子貢年表 (上)

1557.子貢年表 (上):2011/6/8(水) 午前 11:07作成分再掲。

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子貢年表


前520年、子貢、端木賜、衛に生まれる。孔子より31歳年少。

前506年(子貢15歳、孔子46歳、魯定公4年)ころ、子貢は魯の孔子塾に入門。孔子は、斉から引き上げ後で、三桓・陽虎らの横暴を避けて集中勉学弟子育成中のころ。
前495年(子貢26歳、孔子57歳、魯定公15年)春、邾公と魯公面談。両公の礼法をみて両公とも命の長くないことを、子貢察知。(左伝)

⇒これが多分子貢の左伝初登場。

⇒この前年、大司寇の孔子は斉の80人の女楽の策で、魯公および季桓子によって、魯を追われ衛に移っている。三桓攻めのさい子路は季氏家宰だったがおそらく失職、子貢は礼法指南のような形で魯に残っていた可能性大。

⇒前495年秋、定公葬儀、子貢あたりが葬儀屋を務めたのではないか。孔子はこの葬儀には参加しその後再び衛に入る。このときには、子貢も魯での職を辞し孔子に従った、とみる。
(前年の前496年、??の乱に巻き込まれ孔子は衛を出奔し匡や輔の難に遭う、このときは子貢が居なくて酷い目に遭うわけで如才ない子貢が孔子一行に就いていくことを選択する、とみる。)
前493年(子貢28歳、孔子59歳、魯哀公2年、衛霊公42年)10月衛霊公の葬儀、孔子らとともに子貢も参加。

⇒霊公と話が合わないからといって翌日出奔ではなく、礼を尽くして霊公の葬儀には参加。42年公位にあった霊公だから各国からも多くの弔問があり、とりわけ、前年前494年春、夫椒会稽で越を破った呉王夫差は各国外交団の新しい話題になった・・

孔子一行はこの年末か翌年には意を決して南方陳蔡に向かいます・・
前492年(子貢29歳、孔子60歳、魯哀公3年、呉王夫差4年)子貢、孔子と共に陳にいる。(左伝)

⇒このころには、新鋭呉王夫差の力をかりて、腐りきった中原に中華和平を実現、周朝秩序を復活する、(ひいては魯や衛の郷土のためであり魯や衛公への恩返しでもある)という大望が、孔子らの活動方針となり、そのためにひっちゃきに動いているのだとみます。頭脳明晰の若き子貢辺りが急先鋒だったのかも。孔門志士派の成立、でもあります。

⇒おそらく、一方で、魯や衛には孔子塾はそのままあった、とみる。いわゆる学窓派のひとびと、実際に官職や仕事がある人はそのまま郷土にいて、高弟を中心に六芸の私塾学校運営を続けていた・・。

⇒中華中原和平・周朝秩序復興を掲げ呉王夫差抱き込みに南方陳蔡につき従ったのが、いわゆる孔門十哲たち=孔門志士派、なのです。・・そう見ると論語孔門十哲についての孔子の独特の感慨もよく理解できまず。

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⇒以下、諸国遊説部分は、左伝も含め、現伝資料群は殆ど何もない(孔子自ら春秋経伝を見よと言ったというのに、です)=後に孔門学窓派によって意図的に消されたことを示しているとみますが・・ので、状況証拠から推定するしかありません。
前492~489年、子貢孔子ら陳蔡楚呉など徹底訪問、人物を見、呉王夫差は孔門志士派に答えうる実力者であり、そうさせるための、南方情勢固めを行う。

孔子らは表面的には、中原名門魯の宰相まで勤めた男が、有力弟子たちを連れて南方の田舎にやってきた中央の学問の先生たちなのですから、まずはどこでも出入り自由だったでしょう。

⇒で、孟子論語も示唆するとおり、陳と蔡には上下とも人材なく日和見の集団、楚は古い王国だが中原ほど下克上は酷くなく特に葉公(しょうこう)という有力パートナーを見出す。

⇒中原各国、魯・衛・曹・鄭・宋にも呉王夫差のための調略を進めます。各国共に半信半疑だったでしょうが、魯・衛・曹・鄭らは対晋対斉対策もあって親呉を徐々に強める。但し、宋は司馬桓魋(かんたい)らが前から親晋の趙鞅派ですから節を変えなかった。弟の司馬牛は孔門の一人としてスパイ役を務めます。

また、鄭の門外で孔子が迷子になり野良犬みたいといわれ、子貢が探す話もこのころの逸話とみます。

孔門十哲のうち、少年子夏(前507年? -前420年?)は晋の温国出身で対晋包囲網形成のためのメッセンジャーボーイ、子游(前506年 - 紀元前443年?)は70数名の孔門高弟のうち唯一呉出身というがこのころ少年子游は呉対応のメッセンジャーボーイであったと見るべき、ことも既述しました。


⇒残念ながら、この面での、孔子らの呉との直接交渉の形跡は、仲尼弟子列伝の子貢伝以外、殆どない。

・・呉には記録があったと見ますが呉が滅亡した国であること、呉を吸収した越にとってもそれらは必ずしも愉快な記録ではなかったことから、徹底して記録が抹消された可能性が強い。

・・なお、子游は呉の人で後に江南に儒学を伝え江南夫子ともいうらしいが、陳蔡時代は少年でメッセンジャーボイに過ぎず呉滅亡を見たあとの彼の感慨は如何なるものであったか、孔子や子貢とは違い、その本質が学窓派的だったこともあって、志士派の南方記録を意図的に消す側に回ったことも十分ありうる、でしょう。
前489年(子貢32歳、孔子63歳、魯哀公6年、呉王夫差7年)呉が陳攻め、楚昭王は陳救援に向かい城父に布陣。孔子ら陳蔡の難(厄)。子貢が楚陣に向かい楚軍が孔子らを救済。楚昭王は陣中で変死。楚は戦わず撤退。

⇒繰り返すとおりで、3年の工作もあって呉は遂に本格北上を開始した。・・楚昭王以外の令尹子西・司馬子期(いすれも昭王の兄弟)や葉公(しょうこう)は、孔子らの調略もあって、不戦派であり、昭王を暗殺するという非常手段で呉とは戦わずして引き上げた。

⇒事実上、呉と楚の秘密同盟がなり、やがて陳蔡は呉楚に乗っ取られるだろう、呉楚同盟の仕掛人たる孔子を殺せ、と陳蔡一部大夫らに襲われたのが孔子らの陳蔡の厄、です。

弁舌の子貢が楚に救いを求めに行くこと、また、虎や野牛が野にさまよう比喩の問答(顔廻・子路・子貢三人対比)、また楚の重臣達が孔子の弟子達を非常に優秀で恐れる様などが、世家にある。・・孔子一行はさまよっていても虎や野牛であり、楚の諸卿を恐れさすほどに、孔子らの活動は楚の幹部に知られていた=学窓ではなく志士武断派のイメージ、です。

(つづく)

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