1556.孔子年表(下)

 

1556.孔子年表(下) :2011/6/7(火) 午前 10:18作成分再掲。

QT

承前。この後、抑えておきべき大事なところは
①魯や衛ら中原伝統小国は、この時期、東に斉、西北に晋、南には楚、という大国に挟まれ右に左に揺れた時期です。

②しかも、このとき魯(前495年)も衛(前493年)も代替わりがあって、跡目争いが加わり状況は流動し大夫クラスの勢力争いもひどくなります。晋の趙鞅は??を使って衛に介入し、斉景公は魯に介入しようとします。斉の歴史の中でも繁栄期の一つですが、その斉景公も前490年に死に公子たちは魯らに避難、鮑氏や田氏が下克上して国を押さえ、魯を侵攻しようとします。

③これが、この時期の孔子らをめぐる状況です。こんなときに政治や礼法を語る彼等がのんきに私塾で座学や礼法実習に明け暮れていただけとはそもそも考えがたいでしょう!2400年後の日本の松下村塾に似てさまざまな議論や計画がなされた、のです。

もう一点。彼等は、冠婚葬祭屋でもありました。おそらく諸侯諸大夫の死があったとき彼等の出番、しかも周朝下各国から人々が集まり、葬儀屋(時に通訳も)としては誰が誰で何が何か知っている必要もある、国際情報交換情勢分析の場でもあったに違いない・・何日も何ヶ月も喪や葬式にかけたというなら話題はどうしてもそっちへ行ったものでしょう。そういう意味では孔門は本来的に情報のプロでもあるのです。

呉王夫差が、遠い南方の夫淑会稽で越王勾践を破って、彗星のごとく中国社会に登場した。それまでの常識では南方は夷狄の世界、中華中原とは関係なし、です。しかし、晋も斉も楚も王・諸卿・大夫が下克上に勢力争いをするという腐った伝統社会に対し、孔子らには、呉は王絶対専制の新しいタイプの国に見えた。

また古典を学ぶ孔子たちにとっては、舜も禹も南方東夷の人と知っていますから、南蛮東夷というより舜禹の再来と見た可能性さえある。・・その後の儒教歴史観で物を見てはいけない。司馬遷すら呉が周朝と兄弟の国とは孔子から学んだといい、呉を30世家の筆頭に置いた、のです。

孔子らが陳蔡に下ったとき、すでに、呉王夫差を中原に呼び込み、中華世界の和平統一と周朝秩序復活に利用したい、という明確な方針、はできていた気、がします。

そういう思いで陳蔡に3年いた。・・孟子論語も示唆するとおり陳蔡には人はいなかった。何らかの機会に呉王夫差にあった、黥面文身断髪だったのかもしれないが孔子らは夫差にいい物を見た=要するに中原都会人からすると田舎の純朴さ・力強さなども含めて。もちろん伯?(はくひ)・伍子胥孫武にもあったろう、軍事的な可能性もみたろう。そして、さらに楚にも出入りした、古い王国ではあったが葉公という有力者を見出した・・。

⑥ここから後の基本シナリオは、孔子子貢の五国調略路線(記事1527)どおりです。司馬遷も前489年以降約10年にわたる5国のシナリオは孔子子貢らによって書かれたと信じていたとみていい。
--------------------------------------------------------------------------------


孔子を評価しあるいは罪したければ春秋をみよ」が司馬遷の書く孔子の遺言です・・現伝春秋左伝を中心に見ます。


前494年(孔子58歳、魯哀公元年、呉王夫差2年)、呉王夫差が越王勾践を夫椒(ふしょう)会稽で破る。越大夫種(しょう)が勾践の助命嘆願、呉の伍子胥は殺せというが、夫差聞かず、越王を許す。呉越和平が3月と。

⇒「この記事が春秋経本文にないのは、呉も越もこれを(中原に)告げてこなかったため」と左伝。
前494年(58歳、哀公元年、衛霊公41年)から前493年10月の衛霊公葬儀まで、は孔子は衛にいる。

論語も世家も、衛の霊公に戦のことは知らない、といって翌日にも陳に向かい、途中、宋で桓魋の難に遭うように書きますが、これはいずれも間違い、とみます。6万斗の粟を捨扶持に給してくれた霊公です、ケミストリが合わないからといって翌日出奔するような孔子たちではない。

⇒衛霊公は在位42年の長きに渡りますから各国から弔問客が来たでしょう、呉王夫差のことも話題になった・・・
前492年(60歳、魯哀公3年、呉王夫差4年)魯の桓僖宮が焼けたことを、孔子は陳で聞いた。

⇒桓僖宮など数代も前を祭るのは三桓の先祖だからで過剰な礼との孔子の発言(左伝とその解釈)。この辺は、孔門学窓派の発想でしょう。

⇒この後、魯の春秋経本文にしては尋常でない量の陳蔡楚呉の記事です。うけて、春秋孔子伝には相当なコメがあったと見ますが、後の孔門学窓派の手で多くは変造削除されたと見ます。
前489年(63歳、魯哀6)呉が陳を伐つ。楚昭王が国境城父(じょうほ)に陳を救済すべく布陣。孔子ら陳蔡の厄(難)。7月城父で楚昭王は暗殺。楚呉同盟。呉軍は北上中原を目指す。孔子も衛に帰る。

⇒弊記事1515~1517
前488年(64歳、魯哀7)夏、魯公が呉と?で会合。

⇒百牢の馳走の要求、子貢の活躍。

⇒何度も言いますが、南方城父で楚昭王がなくなって、1年足らずで、中原の小国魯が呉と同盟しています。・・ずっと孔子らが動いていた・工作した結果、とみます。

⇒そもそも呉の田舎の王様が、中原を目指すなど当時もその後も「滑稽」なことで、このこと自体が孔子ら孔門のこれまで数年に渡る呉王夫差へのご進講・教育の結果と思います。伍子胥など地固め派は苦虫をつぶすような思いだったでしょう。呉王夫差はやはり孔子らの大望・理想を理解する「何か」を持っていたのです・・。

⇒この年、親晋の宋は衛や鄭を攻めています、呉の魯による中原進出が晋の趙鞅を刺激したのです。
前487年(65歳、魯哀8)春、呉が魯を伐つ。魯の季氏が執着の?を取りましたので、?がなきつき呉が魯を伐ち、元に戻します。

⇒これも戦争としては魯が完敗したようですが、子貢の活躍で、最小限の譲歩で済んだようです。公山不狃の愛郷心や武城のことなど、興味深い話題がいくつもあります。ですが孔子らにしてみれば、中原和平の大望を図る中で、目先の利を求めた魯季氏の愚行、には頭にきたことでしょう。

⇒弊記事1526、1535。
前486年(66歳、魯哀9)と前485年、呉が斉攻め、魯も援軍を出す。前485年3月鮑氏が斉悼公弑殺、呉王夫差陣門で3日哭泣、海軍を動員するも勝てず。
同年晋の趙鞅も斉を攻める。南方で陳楚の戦い、呉王夫差南下して陳を救う。
前484年春(68歳、魯哀11)斉が魯を攻める、呉王夫差が救いに来て、5月呉魯は艾陵(かいりょう)で斉に圧勝。艾陵の戦いでは、呉の側面支援だったようですが、季氏家宰の冉求(ぜんきゅう)や樊遅(はんち)ら孔子の弟子達が魯の将軍として大活躍。

⇒孔門志士派は戦争もやったのです。現伝左伝さえ記録しています。孔子「義に勇むもの」発言。

⇒弊記事1536,1537
同年(前484年、68歳)孔子14年ぶりの魯への帰還。衛の孔文子と「祭りのことはやっても軍のことは知らない」「鳥は木を選ぶが木は鳥を選べない」と高踏なセリフで衛を去る。魯の季康子ら反対大夫を外して国老の礼で孔子を迎える。

⇒艾陵の圧勝の後に、魯は孔子を厚く迎えた、と現伝左伝・・事実でしょう。魯公や季氏が孔子らのシナリオを初めて信じたのです。その証です。ただし、この時期の孔子は衛にいても魯にいても同じ、子貢はじめ弟子達はすでに衛魯(のみならずですが)の要職にあって、それぞれに孔門志士派の夢実現に100%稼動していた、とみます。
前483年(69歳、魯哀12)夏、呉魯同盟の確認(橐皐の会合)。秋、呉魯にくわえて衛・宋(但し皇瑶です)も同盟に加えようとして失敗したようです(鄖の会合)。

⇒斉に勝った艾陵の戦いの余勢をかって、中原大同盟、を意図したようです。翌年の黄池会盟の下準備のつもりだったようですが、うまくいかなかったようです。少なくとも、宋が一本化しなかった、後には晋の趙鞅がいたこと、は間違いないでしょう。

⇒弊記事1538
前482年(70歳、魯哀13)夏、魯公、単(ぜん)公・晋公・呉王と黄池会盟。6月越王が呉を伐つ。晋が衛を侵す。陳の政変?。蟲(しゅう)が二度でた。(左伝)

⇒「呉王夫差が高転びに転び始める」とは何度も書いたが、左伝は当に、そのニュアンスたっぷりです。前年鄖(うん)の会合辺りから様子がおかしい・・事態がほころび始めていることを示唆します。

⇒黄池会盟も、周の代理人たる単公が立会人で、晋の大軍と呉の大軍が対峙しただけ。魯公はこれまで孔門の言うとおりに動いてうまく行っていたからついて来ただけ、流石に様子がおかしいと感じて今度は子貢ではなく子服景伯を表に立てて早々に逃げ帰ってきた(現伝左伝)。

⇒さすがの孔門にも慢心が出始めてどこか詰めが甘くなっていたのかもしれません・・

⇒弊記事1539
前481年(71歳、魯哀14年)春、西狩獲麟。

⇒おそらく、春秋孔子伝はここで止まっていた、そういう強い伝承があった、だから前漢時、公羊伝も穀梁伝もここで打ち切った。

孔子が見た「麟」とは実際何だったのか?大鹿か何かか?中華統一和平の聖朝にはでるという麒麟が、時と場所を間違えて登場した、との思いは孔子主観的に真実であり麒麟に見えたのでしょう。

--------------------------------------------------------------------------------

孔子年表ですから、孔子の死までは追います。
同年前481年、6月宋桓魋(兄弟)宋から逃亡。夏、斉簡公を陳成子(=田常)が弑逆。冬、陳は呉派に戻る。

孔子呉王夫差の将来を予想し、楚も越もその他のだれも呉王夫差の代わりは務まらぬと読みきって、獲麟の後は行動も記録もやめた。この後は、子貢あるいは孔門志士派というネットワーク自体が持つエネルギーで、孔門志士派はめげずに大望を追いかけ続けます。

⇒子貢自身は、孔子呉王夫差を見切ったようには見切れなかった・・志士派でも相当議論もしたでしょう、結果、呉王夫差支援を前475年ころまで続けた、とみます。

⇒この年は、宋がついに呉同盟に就いた、陳も呉派に復した、とよみます。
なお前483年(あるいは前481年)顔回(前514~)32歳ないし34歳で夭折。孔子は「天、われを滅ぼせり」と。前481年、斉での田常の乱で、簡公に仕えていた宰我は殺される。前480年、衛での政変で、衛の孔家邑宰を務めていた子路は戦闘死。

⇒おそらく、宋の司馬牛がどこに亡命することもなく孔子の下に来て仁・君子・兄弟を語り魯郊門で自殺し、怒った兄の桓魋が魯の孔子塾に押しかけてきて難に遭うのも、このころです。

⇒最も深く孔子を理解し愛した人々は、孔子の絶望の中で、孔子に先立って死んでいったようにさえ見えます。孔子と弟子たち=但し孔門志士派です、の強いつながりです。
前479年4月、子貢を待ちかねたといい子貢らに看取られて孔子卒す。73歳。

UNQT