1551.獲麟後の斉の動向

1551.獲麟後の斉の動向 :2011/6/5(日) 午前 9:53作成分再掲。

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孔子は西狩獲麟(前481年春)まで「春秋孔子伝(仮称)」を書いた。その後を子貢が書き継いだ(=「春秋孔子子貢伝(仮称)」。追って、孔門学窓派が春秋孔子子貢伝を上書き換骨奪胎した(=「春秋原左伝」)、これが現伝「春秋左伝」の原型です。


獲麟の年、前481年夏6月、斉では田常が簡公を弑殺し孔子は斉簡公のため3日間ものいみをし、大変珍しいのですが哀公に斉討伐を進言するが三桓に相談せよといわれ立ち消えとない「立場上言ってみただけという頼りない孔子の姿」が現伝左伝にも論語にもあります。どうにも違和感があって気になっていたのですが、いまはこれは孔子が書いたわけでもなく子貢の筆でもなく、後の孔門学窓派のでっち上げの孔子のセリフ
とみます。

理由は

1)前486年の斉鮑氏の斉悼公弑逆、呉王夫差が3日間哭泣(翌前485年に艾陵(かいりょう)の戦で呉魯は斉を破る)からの連想。・・意外ですが逆ではない。

2)優柔不断なところのある孔子ですが、軍事行動を率先提案ししかも三桓反対にあって言ってみただけ、というのはいかにも頼りなく、ここは志士的孔子に対する、後の孔門学窓派の嫌悪悪意からきた捏造

3)孔門学窓派は、君を弑殺した田常は絶対に許せない存在で、孔子の変なせりふなど歴史捏造も平気でした連中(・・左伝や論語を改竄変造するのが学窓派儒家の傲慢な本質。一歩譲って、史実は、孔子はつい従者にこぼしたのかも。しかし孔子や子貢はこれは本質ではないから記録には残さない。しかし孔門学窓派は必要だと見れば揚げ足取りのようなこともする連中、です。)。

4)史実としては、以下通り、翌前480年には斉と魯は和しているから。

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さて、以下が本題です。西狩獲麟後の斉の動向です。
現伝左伝より。

①前480年(哀公15年)春、成(魯の邑)が魯に叛き斉につく。

夏、楚の子西・子期が呉を伐つ。

秋、斉の陳カン(田常=陳恒の兄)が楚に行く。途中衛で子魯は「魯との同盟」を勧める。

冬、魯は斉と和平、子服景伯が子貢を介添えに、田常は魯衛に仕えると約し成を魯に返還。


⇒斉の田常ははじめは楚と組んで斉の自立を考えたようですが、(楚は断わり上記子路の勧めもあって)魯衛呉の同盟に加わることにしたと見ます。子路や子貢の貢献です。

・・なお、この秋冬の文章は「春秋子貢伝」にあった、子貢伝はかように自分達の活躍をかいていた、とみます。ですがこの種の残渣はもう現伝左伝ではごくわずかしかみれません。(笑い)


②このあと、現伝春秋左伝でも斉の記事は殆どありません。=基本的には、子貢ら孔門志士派のシナリオに準じて=呉と組んでいるときは呉と、越と組んでいるときは越と、の同盟者として、孔門志士派を事実上国際社会で支えたのだみます。
孔門志士派にとっては魯衛は母国なのですが、魯衛は小国で力なく不出来で小さな私利私欲の公や有力大夫に振り回され難儀したようですが、・・さすが田常でまとまった大国斉は、南方の葉公でまとまった大国楚とともに、子貢ら孔門志士派にとっては、最も頼りになる存在、になって行ったようです。

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しかしです。

少しややこしいですが大事なので、繰り返しますが、
後の孔門学窓派にとっては、田常斉国は眼の前で(前481年)あろうことか君主を弑逆して成り立った国であり認めがたく、しかも子貢ら孔門志士派がそんな田氏斉国と魯国との同盟を進めたことは、とても許しがたかった。・・前記事、楚の立役者葉公については子貢の書いた春秋子貢伝オリジナルの雰囲気を残しても良かったが、斉の田常についてはそうはいかななかった、かなり手を入れた。

その際たるものが、孔子の冒頭のセリフ。そして子貢ら志士派に組した孔子についてもつい悪意が先立ち「ちょっと言ってみただけ」と従者にこぼすという頼りない孔子に描いてしまったのも、捏造派の孔門学窓派の連中です。

それでもこの秋(子路)や冬(子貢)の記事を残したのは、孔子が3日物忌みして討伐すべしと言った国とその翌年には同盟を結ばせた、子貢ら孔門志士派とはそんなひどい連中という非難の気持ちがあるからでしょう。・・たしかに孔子が3日物忌みしたのは本当かもしれない。そしてそういうことが大事なことでそんな国と同盟するなどもってのほかと考えるのが名分や礼儀の孔門学窓派なのでしょう。事実を残せば人は分かるはず、と考えた。だからオリジナルを残した。

要すれば、

現伝の左伝や論語は、この程度の人たちが変造あるいは編集したものである、ことは忘れてはならない。rac新説珍説を信じる必要はありませんが、そういう可能性もあるかもと頭の片隅に置いた上で、現伝左伝や論語を読むことをお勧めします。・・そういう時代なのです、もともとの孔子とその時代に即しての読むことが、すなわち現代において孔子を読む、正しく読む、ということそのものなのです。

(つづく)

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