1553.春秋孔子子貢伝まとめ

1553.春秋孔子子貢伝:2011/6/5(日) 午後 0:48作成分再掲。

このへんもくどいですが、当時の勉強と思考の流れを記録まで。読み飛ばしください。

QT

孔子が春秋(経?伝?)をまとめ書いたという伝説を信じるなら・・rac的には、

孔子は獲麟(前481年春)まで「春秋孔子伝(仮称)」を書いた。その後を子貢が書き継いだ(=「春秋子貢伝(仮称)」。追って、孔門学窓派が春秋孔子子貢伝を上書き換骨奪胎した(=「春秋原左伝」)=これが現伝「春秋左伝」の原型です。

--------------------------------------------------------------------------------

現伝春秋左伝より末尾魯の哀公時代の楚・斉・晋の記事を見ましたが(前記事3本)、やはり、

孔子や子貢ら孔門志士派が中華の状況を一変する可能性がある勢力として頼りにしたのは、繰り返すとおり、東夷の呉王夫差孔子的には獲麟=前481年春まで、子貢的には前475年まで)その後は越王勾践(子貢的には前475年~前468年の哀公越出奔まで、でしょう)でした。

1)決して、大国ではあっても古い体質の楚や斉や晋ではなかったのです。

楚に対しては葉公がいて南方を安定化してくれる勢力として信頼していた節はありますが、有力諸卿が専横を振るう下克上の斉や晋を当てにはしなかった。

2)魯や衛公も諸大夫に苦しまされるという意味では同じ、小国で実力はないのだから、孔子や子貢は郷党意識(愛国心でしょう)はあっても、何も期待もしていない。

3)中華統一和平と周朝秩序体制回復は、呉王夫差ならできるかも、と見抜いたのは孔子でした。黥面文身断髪の東夷だったわけですが、孔子らの影響でしょう、やがて斉門で3日哭泣したり、礼を中国と争わぬといったり、冠に拘り始めて孔子を喜ばせたり、の呉王夫差でした。・・孔子の関心は単にこんな礼法的なことではない。・・会稽で越王勾践を許してしまった呉王に何かを見たのかもしれない・・孔子は見込んだ。記録には殆どありませんがこれは間違いないでしょう。・・孔子と子貢ら孔門志士派はそこに実践すべき道を見出した。

4)呉王夫差が会稽に越王勾践を破った前494年、衛礼公の葬儀を終えて前493年には孔子らは陳蔡に入り呉王夫差を中原に誘導すべく陳蔡楚で工作、前489年には楚を城父に釘付け呉楚秘密同盟、そしてこの後呉は中原に進出、中原安定の核となる。孔子は前489年に衛に、前484年に魯に帰還。そして前482年には呉王夫差は晋や魯ほかと黄池の会盟。呉王夫差のピーク。そして足元で越の内乱・・

5)孔子は黄池の会盟の後には、呉王夫差に、違う何か見たようです。・・もうダメだと直感して、記録もやめた(春秋孔子伝の獲麟=前481年春)。


子貢の思い
子貢は、孔子のその判断にはすぐには同意できなかった。斉の前481田常の乱のあとむしろこれを支持することで斉を安定。孔子の死(前479年)後も孔子の墓に庵をむすび孔門志士派の仕事を継続。楚も前479年白公の乱のあと葉公体制で安定し、呉王夫差体制を支援しつづけた。

しかし、呉王夫差の動きをずっと見、孔子の早い判断にもどこかで納得したのでしょう、呉王夫差を見限って前475年には越王勾践に乗り換えた(越人の始めての魯訪問は前474年春、と左伝、など)。


子貢らの援助もあって、めでたく越王勾践は前473年には呉王夫差を滅し、北上し、徐州会盟する。やはり子貢らのアレンジだったのでしょう。


しかし越王勾践には自国を危うくしてまで中原中華のために動く気持ちなどなかった・・呉王夫差の二の舞などごめん、というところ。

子貢の性格からすると相当ねじ込んだと思う。・・楚は越を裏切らない、斉もついてくる、魯や衛の中原の中小国も任せてもらっていい、懸案は晋くらい、と、晋との最終決着を希望し強く進言したと思う。しかし、越王勾践は乗らなかった。・・これがはっきりしたのは徐州会盟の直後、ではないか。・・徐州会盟で趙鞅と越王勾践の対面はあったものか、どういう話だったものか・・

子貢はそれでも諦めきれず、矛先を変えた。天下布武よりも・・魯や衛の小国の、私利私欲に固まった有力大夫群の粛清と本来あるべき周王朝諸侯の姿を魯の哀公や衛の出公に求めた。・・二人とも乗った・・子貢のシナリオだったとみる。

しかし、歴史の現実は、哀公も出公も見事に国を追い出され、越国に亡命することになる、それぞれ前468年と前470年、です。

問題は越王勾践だった。越王勾践は、この二人=魯の哀公や衛の出公、を盛り立てて、魯や衛に侵攻し大夫たちを追い出すという、子貢が期待したようには動いてくれなかった。・・どうでしょう、衛の出公が前470出奔、ですから、このとき越王勾践は魯もそうなれば動こうくらいを言ったのではないか。子貢ら孔門志士派は本当に力があって、前468年には哀公も国を捨てて越に出てきた。

何があったものか・・越は二人を厚くもてなすくらいはしたろう・・しかし大夫らがおそらく膨大な賄賂を越に送ったと左伝があちこちに書くのは嘘ではない・・このときだった。

子貢は敗れた。完全に敗れた。

孔子の言った意味、呉王夫差なら(純粋だから)出来るかもしれない、の意味が初めて分かった。夫差と勾践は違っていたのだ。・・子貢も春秋子貢伝を記録することをやめた、これが前468年哀公27年でしょう。
ですから、「子貢伝」の一番最後の記事は「哀公は越を引き入れて自国を伐ち、三桓を排除しようとした。哀公27年秋8月、公は公孫有山氏を頼って、?経由で越に行かれた。人々は公孫有山を責めた」というところまでです。
そして実は、公孫有山というより、これこそが子貢だったのです。

 

後の孔門学窓派は、春秋子貢伝を上書き改竄する際、子貢が自らを責めた末文、を公孫有山というわけの分からない人に差し替え;世の中そんなものという思いで、そのあと、前記事⑧の記事を加え、大国晋の場合には3分割して国自体が失われたのだ、それに比べれば、公の出奔と亡国くらいはどうってことはない、と子貢を慰め悼み、・・そうして自分達の孔門学窓派の「原左伝」を作り始めたのです。
(つづく)

UNQT