1540.孔子(48)左伝哀公14年、より

1540.孔子(48)左伝哀公14年、より:2011/5/30(月) 午前 11:23作成分再掲。

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春秋左伝、哀公14年=前481年、孔子71歳、死の2年前、です。

西狩獲麟の年=公羊伝・穀梁伝ではこの獲麟で仕舞いです。


⇒左伝は盛りだくさんです。主なところを・・
春、西狩獲麟(春秋本文)。叔孫氏の御者某が発見、不祥と思って役人に届出、孔子が麟と、それで記録に残した(左伝)。

公羊伝も穀梁伝もここで終わります、前漢当時は漢帝国の聖なる時代の到来というおもねりです。前漢末再編の左伝は王莽への配慮、とかつて読みました。・・さらに後の儒家孔子素王論ともいいます。


ですが西狩獲麟について孔子のもともとの気持ちは、呉王夫差滅亡の予感=天下和平の可能性への絶望、とracは考えていることは縷々述べているとおりです

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②春、邾の大夫某が魯に亡命(春秋本文)。某は句繹(コウエキ)の地を手土産に魯に亡命、「信義に厚い子路と盟(約束)させてほしい」と。子路断る。季康子は冉有(=季の家宰、孔子の弟子)を通じて「魯の国よりも子路個人を信じようというのは子路に名誉なこと、なぜ受けないのか?」、子路「国を裏切って土地を掠め取ってくるようなやつとは盟できない。」(以上、左伝)

子路の(子路らしい)見識の紹介です。孔子原文の春秋孔子伝(仮称)の残渣かもしれません。

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③夏4月、斉の簡公を斉の陳恒が舒に幽閉、6月弑殺する(春秋本文)斉の簡公は公子時代に魯に亡命していたが子我(=カンシ)を気に入った。斉の実力者陳恒(=田常)はこれを憚って簡公ともうまくいかなかった。陳一族と子我は一度和したが、陳一族に内紛おこり、結局5月田常は子我を殺し、斉簡公も舒(斉の地)に幽閉、6月弑逆した。

6月弑逆を知った孔子は3日間もの忌みをし、魯の哀公に斉を伐つよう三度にわたり懇請する。孔子「臣下が君を弑逆したから民の半分は味方する、だから魯軍で勝てる」と、哀公「季孫に相談せよ」、で結果実現せず。孔子は従者に「大夫の末席に連なっているから言ってみただけ」と。

(以上、左伝)

⇒いわゆる前481年の斉での田常の乱の左伝の記事です。

 

司馬遷は、この子我を宰我としました(弁舌すぐれ要領のいいところがあったらしい子我ですが、魯に亡命時代の斉簡公に見込まれ仕えるようになった)、同じあざなの別人(左伝はカンシ、とし別人説でしょう)で司馬遷の誤解との説もありますが、・・田常の乱への孔子の並々ならぬ憤り(・・公弑逆が主な理由ですが弟子への気持ちもあって・・めったに軍事行動を起せといわない孔子が魯公に田常征伐を三度進言するが三桓に容れられず立場上言ってみただけ、などと言い訳する)もあわせ考えると、ここも、司馬遷の読み、が正解と見ます。


⇒これまでも、子○と孔子の弟子かもと思わせる人名が断りなく(解説なくよくわからないまま)多く登場していますが、いずれも孔子の弟子とする(通)説はないようですが、案外すべて孔子の弟子、だから人物説明がない、孔子が書いた原左伝のなごりとみます。

すなわち、孔子が弟子達、ときに自分、の記録、を書きとどめたのが春秋孔子伝の本質だった、かもしれません。だから「後世、孔子を評価するも罰するも春秋によれ」という孔子遺言がある・・司馬遷は同じ気持ちで読み書いていると感じます(=こんなことも読み取れないものでしょうか?=歴代儒家のオトボケなのでしょうね)。つまり、多くの場合あまりにも後世の大人しい儒家像とは異なる弟子像で、真剣に生死をかける強烈な人間群像が書かれている。従い、孔子死後まもなく呉王夫差の没落をみて、学際派がり優位になり、志士派を嫌悪、韜晦、否定し始めるのだとみます。

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5月、宋の桓魋が曹に入りて叛く。6月、曹から衛に入る。(その兄)向巣も出奔する。(春秋本文)

宋の司馬(軍司令官)桓魋は君寵におごり結果宋公のために成らなくなった。宋公は母に頼んで宴会を開き桓魋を殺そうとする。桓魋は公を弑しようとするが、左師(左軍の司令官)で兄の向巣らは止めたので、桓魋は曹へ衛へと亡命する、弟追討を命じられて遂に兄向巣も亡命をやむなくされる。結果的に、長男の巣は許されて宋に戻るようです(宋の名門軍人ですから)が、桓魋桓'755;は斉に亡命し田常(=陳恒=陳成子)は亜卿とする、司馬牛は斉から最後呉を頼るが呉人に悪まれているのがわかって帰ってくる、斉田常や晋趙鞅も彼を招くが受けず、魯の門外で死んだ。(以上、左伝)

⇒これも既に述べた(記事1521-23)通り、この左伝の文章を注意深く読めば、何が起きたか、見当はつく、と思うのです。

繰り返します。宋有能な軍司令官桓魋は、晋趙鞅との同盟を軸に動いていた。司馬牛は孔門として親呉王夫差の立場で宋で(スパイ)活動していた。晋趙鞅と呉王夫差は前年黄池で会盟する、がすぐに呉王夫差はこけ始める。状況は不透明流動化し、宋公は晋とも呉とも距離を置き始める(=別に異常でも卑怯でもない=魯も衛も同じです)。強烈な晋派の桓魋。この前後に司馬牛が呉派でスパイをしていたことにも桓魋は気づく。桓魋は晋でも斉でも亡命できるが、司馬牛は行くところがなくなった(やはり孔門スパイだったでしょう)。

⇒本来、人間の生死のかつかつ、のお話なのです・・それをこの後のぬるま湯儒教は、何が何か分からない話に換骨奪胎して、司馬牛は軽くおしゃべりな男だったとか、宋の桓魋は君を裏切る悪者とか、とんでもないアンチョコな話に仕立て直してしまい、今日の通説に至る。あまりに酷い話で怒りさえ感じます。

(つづく)

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