1537.孔子(45)左伝哀公11年、より

1537.孔子(45)左伝哀公11年、より :2011/5/28(土) 午前 6:21作成分再掲。

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春秋左伝、魯の哀公11年=前484年、孔子68歳、死の5年前、です。


①春、斉の国書が魯を伐つ。(春秋本文)

②5月、魯公が呉と会し斉を伐つ。艾陵(かいりょう)の戦い、呉が斉の国書軍を破る。(春秋本文)

魯内のまとまりは良くなかったようですが、冉求や樊遅(ぜんきゅう、はんち、いずれも孔子の弟子)らの活躍で斉軍を防ぎ、5月には呉王夫差軍と合流して、艾陵(かいりょう)で斉に大勝します。孔子の名前こそありませんが孔門幹部の大活躍を明記します。

左伝は長い解説を入れます、以下。

「春、斉軍が魯に侵攻してきた。

季康子が家宰冉求(孔子の弟子、冉有とも)に下問、冉求「三桓のうち一人が都を守り魯公と他の二人で国境で戦いましょう」。季康子が孟孫と叔孫に申し出るが「説得できない」。

冉求が説得し、孟孫家が右軍、季孫家が左軍。季孫家の軍は冉求が将・管周父が御・樊遅が右、季康子「樊遅では若すぎる」、冉求(=子有)「役につかせれば大丈夫」。季孫氏の兵は7千、冉求は別に武城の300名を手勢とした

斉軍と郊で対面。魯軍は動かない。樊遅曰く「号令を真に受けないだけ、約束を三度すれば動く」その通りすると軍は動いた。右の孟孫軍は弱くここで不狃(ふちゅう)も戦死、左の?求樊遅軍が回り込んで斉を破った。冉求は追い討ちを主張するが孟孫氏は許さず。・・孔子「義に勇むもの」の発言。

5月には、呉王夫差軍と合流し、呉王夫差軍が斉主力を艾陵に破り、兵車800・兜首3000を得て魯公に献上。呉王夫差は叔孫を呼び「お前の役目は何か」、叔孫答えられず、子貢が代わりに受けて「叔孫はありがたくこの御兜を賜ります云々」と

またこの戦いでは越王勾践は呉王夫差はじめ呉に贈り物をし呉の人々は喜んだが、伍子胥だけは心に恐れ「これは呉への餌。斉を得ても石の田で使いようがない。それより越を沼にせねば呉は滅びる。はやく越王を始末せよ。」と主張したが呉王夫差は容れなかった。

伍子胥は斉に使者に行った際に自分の子を鮑氏の預けた(これが斉の王孫氏)ことを呉王夫差は知り、(利敵行為として)伍子胥に属鏤(しょくる)の剣を賜い自殺させた。遺言*に「墓に?(ひさぎ)を植えよ、早くいい棺桶材になる、呉は3年で弱くなりやがて滅びるから。」と。

(以上、左伝)
    *なお、「梓(あかめかしわ?)を植えよ、わが眼を抉り出し呉の東門の掲げよ、越が来て呉を滅ぼすのを見れるように」との伍子胥の有名な遺言は、史記の呉世家、にあります。ここは司馬遷は原?左伝以外の伝承もみています。
主役は冉求・樊遅の戦闘、子貢の気の効いた外交、そしてどうみても後ろには孔子がいて呉と魯の同盟によって斉を艾陵に破ったことが窺われる、など、孔門の活躍が主題です。・・左伝はそのように書いています。

⇒一方、越王勾践の越国力温存のしたたかさ、それを見抜き恐れる伍子胥、は書きますが、反面ここには賄賂に転んで伍子胥を排除するとされる伯嚭、は登場しません。

石の田で使いようがない斉を攻めるのは、・・斉公を弑逆した斉の大夫たちへの罰や周王朝的秩序回復を意図する、孔子的シナリオ、に即したものに見えます。伍子胥を死に追いやるのも、過去通説がいう伯嚭ではなく孔子らであってもおかしくはない。

⇒上記孔子のせりふ「義に勇むもの」は、通説では「冉求が弓を取るべき将にもかかわらず臨機応変に矛で突き入ったから」(竹内さんの注)というらしいですが、どうでしょう。素直な文脈なら「愛する小姓と共に戦死した少年公子」への賞賛、少し大きく見るなら経済的メリットのない斉を義のために征伐にやってきた呉王夫差を賞賛している、とも読めます。

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この後、左伝は、孔子が衛を去ることになる、衛の孔文子との逸話を入れます。つまり、衛の孔文子が半ば私怨ともいうべき小戦争=衛の大叔疾が宋へ逃げたため攻めようとして孔子に軍略を相談しますが

孔子「祭りの道具のことはわかるが兜や矛のことはわからない」「鳥は木を選ぶが木は鳥をえらばない」と答える。

そして魯から礼物を持って招請があったので魯に(14年ぶりに)帰った、というお話、

さらに魯では季康子が冉求を通じて増税の話を孔子に相談するが、これにも孔子は答えない・・と続きます。

(以上、左伝)
⇒前段で、軍事外交に長けた孔門の姿が見えすぎるため、むしろ反軍反戦のイメージを強調したくて、後に追加挿入された、とみます。増税の話も同様で、孔子は後で冉求には周法(十分の一税)に従えばいいことで気ままに増税したい季康子には答えようがない、といったと、左伝。

⇒この辺は、内容的に、後の論語史記を見た上でその知識で切れ味悪く緊張感なく書かれている;従い時制的には後世儒者の挿入=でっちあげ、と強く感じます。

(つづく)

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