1535.孔子(43)「春秋左伝」魯哀公8年より

1535.孔子(43)左伝哀公8年、より :2011/5/27(金) 午前 10:53作成分再掲。

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春秋左伝より魯の哀公8年(前487年、孔子65歳、死の8年前)、です。
①前487年、正月、宋が曹を侵し、曹公某を捕虜とする(春秋本文)。捕虜として曹公他を殺した(左伝)

⇒所謂伝統国の諸侯は殺されることはそれまでめったになかったのでしょうが、宋公は曹公を殺した、周王朝秩序はますます崩れます

②呉が邾(ちゅう)のため魯を伐つ(春秋本文)。この経緯を左伝は長文で説明します。

「呉王は魯を伐つことの是非を、叔孫輒(ちょう)に下問、「魯は名前ばかりで力がない、伐てば思う通りになる」と。輒は公山不狃(ふちゅう)にこう答えたというと、不狃は「その返事では礼にかなわない・・亡命者は本国に恨みがあっても私怨を晴らすために故郷は売らない、褒めた話ではない。呉王夫差はあなたを案内人にするだろうから断ってください、そうなれば自分を案内人にするだろう」。

呉王は不狃に下問、不狃「魯には国を興そうというものはいないが国のために死ぬものはいる、諸侯も救おうとするから、思い通りにするのは難しい。魯は斉晋の唇で唇がなくなれば歯が寒い。晋が斉と楚と共に魯を助けると厄介。」と。

三月、呉は魯を伐つ。不狃(=子泄)が案内、不狃はわざと険しい道をとった。武城では王犯や澹(タン)台子羽の父が居り呉に寝返るのではないかと魯の人々に思われていた・・武城・東陽・泗上と侵攻。魯は300人の決死隊を募り、夜討ちをかける、呉王は一夜に三度宿を変えた。決死隊の中には有若もいた。誰かが季康子にいった「あれでは人を無駄死にさせるだけ」と。で、やめさせた。

呉と和平することになり、子服景伯は城下の誓いを嫌がって強硬論、子服景伯を人質にすることを呉は承知したが代わりに呉の王子を人質に取ろうとしたので取りやめになった。呉は誓って帰った。」
(以上、左伝要旨)
⇒これは一体何か?どう読むか?

⇒まず、呉には、叔孫輒(ちょう)や公山不狃(ふちゅう)が亡命して呉に仕えていたことがわかります。この二人は、前498年の三桓攻めのとき季桓子・孔子子路らに負けて斉に亡命しました・・前490年に斉景公が死んだ後、斉は公子たちの争いや亡命・田常らの横暴で混乱しますので、前490年ころには斉から呉に亡命先を切り替えていたとみられます。

呉への亡命は、本人たちの意思かも知れず、斉や中原進出を意図する呉の勧誘かも知れず、なんともいえませんが、rac的にはすでに孔子や孔門志士派が動いたこと、としてもいいと思います。・・三桓攻めも含め古くからよく知っている相手ですし、公山不狃のところへは孔子も一時行く気になって子路に叱られて思いとどまったという逸話もあるくらいですから、孔子とも親しかったとみていい。また、不狃の上記発言で礼を持ち出すなど孔子子貢の臭いを感じられるからです。

⇒王犯や澹台子羽も孔子の弟子らしい、です。彼等が呉に寝返るかもと魯のひとびとは思っていたというのも、孔門と呉の間に何らかの呼吸があったことを示唆します。

⇒この呉王夫差親軍の動きも変です、夫差自ら乗り出して勝っているようなのに、理由がはっきりしないままに、城下の誓いだけで帰った、とします。子服景伯の人質も取りやめ。その誓いの中身はよくわかりませんが、少なくとも邾の独立と邾子帰還があったことだけは間違いない、です。

⇒大山鳴動、魯内政反対派に相当揺さぶりをかけ、呉魯同盟をなします。ここにも孔子・孔門志士派と呉王夫差との間のアウンの呼吸をみるのです。

・・上記要約のせいだけでなく左伝自体が奥歯にものが挟まった言い方、で終始します。春秋経本文でも「秋、7月」とだけあってあと欠文になっている、有名な箇所、でもあります。案外、呉王夫差孔子孔門志士派の本当の意味での同盟が出来たのはこの時、かもしれません。

 

・・以上、いずれも現伝左伝文章ですが、遥か孔子の筆のにおいが残っていると信じて読んでいます。どうでしょうか?読み込みすぎでしょうか?
③夏、邾子某を邾に帰還させる(春秋本文)。⇒左伝すら何のコメもしませんが、呉との城下の誓い、の一つ、その実行でしょう。

⇒このすぐあとが、古来有名な「秋、7月」のみで欠文の部分です。・・暗示的です(笑い)
呉の魯侵攻と並行して、斉に魯は領土を取られますが、このあと、魯の実力者季康子が斉悼公に自分の妹を娶わせ・・斉と魯は和平し領土を取り戻す、の話があります。略。

(つづく)

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