1541.孔子(49)春秋左伝の意味

1541.孔子(49)春秋左伝の意味 :2011/5/30(月) 午後 0:39作成分再掲。

春秋と春秋三伝については記事1450の前後で30本ばかり作成したのですが、これもネット上では消えてしまっているようです。そのうちこれらも再掲します。多謝。

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孔子が書いたろう「春秋孔子伝(仮称)」はどの時点まで書いてあったものか、分かりません。しかし、公羊伝や穀梁伝が前481年の西狩獲麟でぴたりと筆を納めているところを見ると、獲麟で孔子も書くのをやめたとのかなり確かな伝承、が前漢まではあったのかもしれません。

⇒が、現伝春秋左伝は哀公15年=前480年以降も書き繋いでいます。左伝は公羊伝穀梁伝と違って、追加的に何を語りたかったのか?


分かり易くいうと、

孔子は死んだ(前479年)

孔子孔門が期待した、呉王夫差も越王勾践に敗れて死んだ(前473年)

その後子貢が期待した(かもしれない)、越王勾践も覇王とはいわれたが死んだ(前465年)

呉王夫差に対抗しもう一方の雄だった、晋の趙鞅も覇業ならず死んだ(前463年)

趙鞅のあと晋の知伯も晋の枠から出れず死んだ(前456年)

その大国晋も事実上、趙・韓・魏に三分(前453年)され、ついに周の朝廷も三国を諸侯として認めた(前405年)、

周朝下での天下統一は夢のまた夢、元の木阿弥どころか乱世戦国時代を迎えた。強者どもの夢のあと、歴史は繰り返すだけ、周朝下ついに統一なき中華の、絶望の歴史観、を伝えたかった。左伝は、知伯の死と晋の三分まで語って筆をおきます。これが現伝春秋左伝です。・・もし孔子死後も春秋孔子伝(仮称)を書き継いだ人がいたとしたら、やはり子貢か子貢系志士派弟子、です。これが「原」左伝です。それは孔子や子貢の夢が決定的に破れたという証しでもあったのです。
孔子は前551~479年。子貢は31歳下で前520~446年と伝わります、子貢は晋の三分割をその眼で見た、のです。・・お金儲けも上手で、衛や魯の宰相を務めたといいますが、あるところから先は斉で隠棲生活をした、とも伝わります。子貢系志士派が孔子左伝を書き継いだ可能性は大です。

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なお、
杜預の春秋左伝後序、より。「(三国志のあとの)晋の西暦280年(晋武帝の大康元年)河南省汲県で、古い墓から竹簡・科斗(おたまじゃくし文字。漆で書いたからとか)文字が大量に出た。・・分からない部分もあったが諸々の記録は、たいてい左伝と一致し公羊伝・穀梁伝とは異なっている、よって公羊伝穀梁伝は新しい時代(⇒rac前漢でしょう)のこじ付けで解釈したもので、春秋本来の精神を伝えたものではない、云々。」

「(公羊伝と穀梁伝の)二書は近世の穿鑿にて春秋の本意に非ず・・史記尚書と同じならずとも参(まじ)えてこれ(左伝)を求めれば、学者は端正す可し。」と。

(以上、鎌田正さん訳注「春秋左伝4」明治書院、昭和56年、より。要約文責rac)


⇒わが卑弥呼の大昔から、杜預は明言してくれているのです。
(つづく)

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