1533.孔子(42)「春秋左伝」魯哀公7年、より

1533.孔子(42)左伝哀公7年、より :2011/5/26(木) 午前 10:34作成分再掲。

・・ますます微細に入っていきますが、10年前の思考の流れを追う上で・・目的はこれまでの仮説を春秋左伝で検証するにある・・参考になるので再掲。これ以上興味持てない向きも多かろうと思います、読み飛ばしてください。

QT

司馬遷史記の「孔子世家」では、孔子は自分を見たければ、春秋をみよ、といっています。そう司馬遷は書いています。
大切な留保ですが、司馬遷の時代には、現伝春秋三伝、とは違う、おそらく内容的には左伝に近い「原左伝」(とracがずっと言ってきているもの)があって、・・これを司馬遷は見ているような気がします。そこには、特に陳蔡楚から帰った後の、衛魯にあっての孔子と孔門の動きについては、結構書いてあった。だから、孔子世家には上記孔子の言葉を引いて、それ以上は司馬遷はあまり書かなかったのは、その必要がないと思った。その可能性もあると見ます。


こうなってくると、

春秋経本文が、西狩獲麟、の哀公14年(前481年)、で終わっているのは、フツー思う以上さまざまに重要な意味がありそうです

春秋公羊伝(くようでん)・春秋穀梁伝は伝(解説)もここで止めてしまったが(トラバ先前後ご参照)、やはり事情を分かっている左伝(rac説では、公羊伝と穀梁伝があまりに分かっていないからその補正のつもりで、散逸していた原左伝をもとに他の資料もあわせて、歴史資料的に客観性を帯びさせつつ、前漢末に再編集されたのが左伝、です)は、その後の呉王夫差の没落と他方趙鞅活躍の晋国のその三分裂(趙魏韓への三分裂=春秋時代の終わり)まで言及した。・・やはりそうでなければならなかった。

つまり孔子や子貢ら孔門「志士」派の「絶望の深さ」を最後まで語るには、・・呉王夫差に夢みた中華帝国の和平と統一は結局ならず、その対抗馬で敵役の趙鞅さえ亡くなり遂にその大国晋も統一の中核になるどころか分裂してしまい、いわゆる戦国時代、を迎えざるを得なかった。・・孔子たちの夢は遠くはるかに及ばず・・その理想は、すくなくとも形だけでも統一和平が実現するのは・・秦漢帝国、それまでにさらに戦国200年間、が必要だった。


孔子が書いた、春秋孔子伝(仮称=その断片が「原左伝」でしょう)は、孔門「志士」派の動きを中心に、哀公14年あたりまではもともとあった、と、今は、想像します。しかし、孔子はその後、書く気は失せ、1~2年後には死ぬ(=前479年)。

が、春秋孔子伝が哀公14年まであったことは伝承として伝わり、だから、公羊伝や穀梁伝の作者は、形だけそれを真似して哀公14年まで書いた・・だが内容は、その後の儒教教義ベタベタ(公羊伝と穀梁伝の違いは措いて)だった。

左伝はそれはやはり違うと思って上記どおり書き継いだ・・そして少なくとも左伝のほうが孔子や孔門志士派の思い・意図ははるかに(ちゃんと?偶々?)引いていた。

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そこで、今は残念ながら現伝左伝しか見れませんが、孔子世家」はここで終わり、つぎに現伝「春秋左伝」↓から、・・話を戻して、子貢の百牢の馳走(前488年)の直後あたりから、お話をつづけます。通常、魯にこもって学究と弟子育成に努めていたはずの孔子、その実像、を弟子達の活躍の姿を見つつトレースすることが目的です。

https://ctext.org/chun-qiu-zuo-zhuan/zh


⇒①前489年秋7月、楚昭王が城父で没し、楚は陳の救済もせず呉王夫差との決戦もせず撤退、呉は一挙に中原に進出します。・・孔子一行も衛か魯に一挙に引き上げます。孔子らは衛にいても魯にいても、衛も魯も兄弟の国(とはそういう意味です)、どちらも似たようなもので、捨扶持をくれるならどちらも一緒です。孔門志士派は全国全中華にいてフル回転しています。

(以下、平凡社竹内さん訳「春秋左氏伝」、要約文責rac,⇒racコメ)

②前488年、春、宋は鄭を伐つ。(春秋本文)

⇒・・宋は晋の趙鞅派、鄭はすでに親呉です。すでに衛・魯・曹・鄭も反晋親呉です、孔門ネットワークの工作でもともと反晋のこの辺の国々は親呉、になっていたものとみます。

③同、晋の将軍魏マンタが衛を伐つ。(春秋本文)

⇒・・衛は明確に呉寄り、だったたのでしょう、案外孔子が当時衛にいたから、かも知れません。

④同、夏、魯哀公が呉と鄫(しょう)で会合。(春秋本文)

・・ここで百牢の要求があり魯の大夫子服景伯は断りきれず受けた(春秋左伝)のでしょう、さらに、呉の大宰伯嚭(はくひ)は魯の実質支配者季康子を呼び出しますが子貢が出張って礼論(まあ詭弁です)をもって事なきを得ます。(左伝)

⇒魯の政権担当者にしてみれば、孔子の言うことを聞いて呉に組することを決め、早々に魯公は鄫(魯領内です)で呉使(伯嚭以下)とあった。・・魯側は同格同盟と思い込んでいたが呉に事実上の服従を要求されてたまげた。それで、孔子らに「どうなってんだ、話が違う、責任取れ」とせまり、孔子は子貢を伯嚭のもとにやって「つまらない上下関係にこだわるな、目的はもっと大きいだろう」云々言って事なきを得た・・というところでしょう。・・呉王夫差・伯嚭や孔子・子貢らはもっと大望を抱いていてこの限りでは肝胆相照らす関係だった、とみます。

⑤同、秋、魯哀公が邾(ちゅ)を伐つ、邾子某を拉致する(春秋)

この経緯を左伝は以下のように語ります。
「④を受けて邾から帰って呉にことをなす力はない、とみて、季康子は邾という近隣の小さな国です、これを乗っ取ろうとする。乗っ取りに成功するが、邾の某が「晋は弱い、呉は遠いとみて、魯が鐘の音が聞こえるほど近い邾を侵し弱いものいじめする」と2000里離れた呉に行って呉王夫差に直訴し、呉王夫差は「けしからん、邾を救おう」と。で翌年、呉は魯を伐つことになる。」(左伝、要旨)

⇒孔門は天下の大勢をみつつ呉王夫差を中原進出に駆り出したのに、邾というローカルな小さな利害のために要らぬ摩擦を生じた・・魯哀公や季康子はその程度の人物であった、と左伝に語らしているのです(そんな言い方は「礼」に反するから一言も左伝は言っていません、しかし、そう読むことを孔子は期待しているのです、だから左伝を見よ、と孔子はいうのです)

⑥同、秋、宋が曹を囲み、冬、鄭が曹を救う。(春秋本文)

宋は趙鞅の同盟軍です、宋の司馬桓魋(かんたい)もいたはずです。呉の進出でこの地域が一挙に流動化します。しかし「晋は宋を救わず、国境の五城の普請をした」と一言左伝は書くのみです。左伝の作者(原左伝であり、孔子伝まで遡れるとした孔子、です)は、晋(趙鞅)の不誠実さ、を責めたいのです。

⇒おそらく、宋桓魋の弟で孔門の宋の司馬牛はさまざまな情報を集め孔子に、そして呉にも流したでしょう

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↑この密度ではシンドイかもしれませんが、この密度で「春秋と左伝」を読まねばよく見えません・・やむないです・・続けましょう。

(つづく)

UNQT

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(追記2020年7月)10年前は、ネット上で、中国古典原文、原漢字、読み下し、現代語訳、を見るのは結構大変でしたが、いまや結構あるようです。ですので当時の文章で?など見えなくなっているところもどんどん無視しコピペして先へ行きます。多謝。