1542.孔子(50)子路の死
1542.孔子(50)子路の死 : 2011/5/31(火) 午前 10:56作成分再掲。
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哀公15年=前480年以降の春秋左伝の残りの部分をどうメモるか迷ったのですが、孔子や論語を読むための立場で、いくつか逸話ごとにメモっていくことにします。
第一は子路の死です。左伝の哀公15年=前480年の記事です。
rac感性で読む限り、実につまらない私的な紛争に自ら巻き込まれ、半ば自殺のように見えます。
子路には、
麒麟は時を間違えてあらわれごみのように無惨に死んでいったという孔子の嘆きの意味はよく分かり、かつて楚の葉公に対し孔子が自分のことを耳順は過ぎたが心は若々しい老革命家となぜ紹介してくれなかったかと子路を叱った*ような孔子の覇気はすでになく、孔子もまもなく死を迎える、ということも感じていたように見えるのです。革命=天下統一和平、はまだ可能と信じるならこんな死に方はしなかったように思えるのです。
以下、左伝の記事から子路の死です。子路は当時、衛の実力者孔家の家宰かその邑の長官だったようです。孔家のサラリーマンですが、孔子と衛の孔家に近しい親戚関係があったわけではない、ようです。
衛霊公が死んで12年、元太子蒯聵(かいかい)の子の出公(輒)が衛公についていますが、蒯聵は晋の趙鞅や陽虎の援助で衛の一角<戚>を占拠しています。・・呉王夫差と晋の趙鞅の手打ちは2年前黄池の会盟でなされましたが、越王勾践が呉王夫差の足元を切り崩し、中原でも呉王の優勢は崩れ晋趙鞅らの巻き返しが始まっています。
衛の実力者孔文子は蒯聵の姉孔姫を娶り、子の孔?(かい)が当主です。文子が亡くなり孔姫は某と通じ、某をつかって<戚>に止まっていた弟蒯聵を衛に導きいれる。某と蒯聵は女装して孔姫にかくまわれていますが、内紛が発生します。
孔家の大事ですから孔?に言われて、子路は小軍隊を率いて衛の都に入ります、弟弟子の子羔(しこう)は「もう間に合わない、災難にあってはつまらない」と助言しますが、子路は出公と孔?のために戦闘死します。
子路は「君子は死んでも冠は落さぬもの」といい、冠の紐を結び直して死んだ。
孔子はこの騒動を聞いて「子羔は戻ってこようが、子路は死ぬだろう」といい、結果その通りだった、と。
結局、孔?は??を衛荘公、として立て、翌年2月には出公輒は出奔した。
⇒通常は、武人らしい義に堅い子路らしい、死。それを見通した孔子の子路評価の正確さ、と解するようです。
⇒もちろんその通りなのですが、加えて、上記どおり、子路の疲れ・子路なりの絶望・死期を悟っていた、と読むのがいい・・子路は孔子より9歳若く、もっとも古くからの同志です。子路は孔子の優柔不断をたびたび叱り、孔子は子路のまっすぐさや単純さを時に笑い時に愛しています。・・孔子は子路をわかっていたでしょうが、子路も十分孔子を分かっていた、肝胆相照らす中だった、と思います。
(つづく)
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