1507.孔子⑱衛を再び出る

1507.孔子⑱衛を再び出る :2011/5/6(金) 午後 2:19作成分再掲。

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晋というより周に行ったあと=この旅は意外に短く、1年前後で、孔子一行は衛に戻ってきます・・

既述通り、ですが、ややこしくなってきたので(笑い)この前後一度お話を復誦
しておきます。・・すべてrac新説奇説ですから、ご注意。
1)もともと衛に1年10ヶ月もいたのに出奔したのは、馬車の中での霊公と南子の密談を聞いた、内容は太子蒯聵を廃して末子郢(えい=子南)を後継に、という南子のおねだり。これを正直者の孔子は怒りと共に(色より徳を愛する者を見たことがない、とかいいつつ)つい口に出してしまい、太子蒯聵も知るところとなった、蒯聵は自衛上先行して南子殺害を試み失敗して出奔した、孔子はこんな問題には局外中立だが霊公に疑われ密偵までつけられたので、やむなく・・


2)蒯聵の乱の直後、前496年秋、衛を出奔した。まあ余り準備なく、急なことだった。

当時は斉・魯・衛は同盟関係あり、故郷の魯にも戻れず、まあ孔子は仏肸の誘いにのろう(これは反趙簡子だから斉魯衛の反趙簡子同盟の路線あり問題がないので)と思ったが、子路らの筋論で反対され取りやめて、

要するに、行き場を失う。

世故長けた子貢はこのとき、魯にいるから、同行していない。・・それで、多くの弟子たちが行ったことのない憧れの「周」へこの際行ってみましょうとなり、西に向かった。そして、楽や資料収集など一定の成果はあった。しかし、往きは匡で、復りは蒲でひどい前に遭った。

が、もともと出奔の動機が、霊公の誤解であり、霊公の誤解であることは衛の孔子の友人高官たちは分かっているから、孔子のために霊公にとりなしもしてくれて、案外短期1年程度で、引き上げてきた。

前495年末ころ、でしょう。

(なお、子貢は魯のアドバーザー役で魯定公の死=前495年5月を看取りますから、この孔子の西方への旅には同行していません!また、礼の人、孔子は魯公の葬式同9月に参列くらいはするのではないか、このために早く周?を引き上げ魯公の葬式に出席してから衛に戻った。前495年末、が最もありそうか。)

3)前494年、それでもやはり、霊公と孔子は直接にはケミストリが合わず、蒲攻めでも孔子の意見は通らず、やがて「礼のことはわかるが軍事は分からん」とまで言い切ったので、霊公との関係は冷えた。

ちなみに、前494年4月には斉公と衛公が晋の邯鄲を救い、秋には斉・衛・魯の同盟軍が趙簡子勢力と晋や斉で戦っています(春秋左伝)、軍事顧問もやれないなら無駄金、と思われても仕方ない状況です・・。

・・それでも、衛の高官たちの好意や弟子たちの就職仕事の関係もあり、また霊公は死ぬ(前493年4月)まで、粟6万斗を孔子一門のために禄として認めていた、のだとみます・・

(そうでなければ、衛関係の人々等の記録が、こんなには残らないでしょう。衛同様に3年もいたはずの陳と比べても衛の記録は圧倒的です・・)

4)衛の霊公が亡くなる(前493年4月)までは、そして、礼の人孔子ですからその葬儀が終わる(同10月)までは、孔子一行は、衛に居て世話になっていた。・・そしてこの後、孔子の場合も平たく言えばやはり「金の切れ目が縁の切れ目」。要するに、霊公は中途半端な孔子を遊ばせておくだけの度量があったが・・、
衛霊公の・・後継者たちは、孔子に粟6万斗も出せない、ということになった・・これが、孔子が衛を去る基本的な理由、
とみます。証拠はありませんが、以上、世の常識的読み、といいます(笑い)。

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ここから以下が、まあ、新しい話になります。
客観状況情報が必要なのですが、さすが司馬遷ら「世家」ではちゃんとこの辺を明記しお金の問題であったことは示唆しています。「史記各世家」や「春秋左伝」も交え、年表風に纏めます。

前493年4月、 衛の霊公死ぬ(孔子世家、春秋、史記衛の世家など)

同年春、衛の霊公、馬車に末子郢(えい、=子南)を呼び出し後継を言い渡すが辞退し、??の子の輒(ちょう)を推す、霊公死後南子も郢に即位を進めるが辞退(春秋左伝、史記衛の世家)。そして、輒が衛の出公となることが決定する(孔子世家、衛の世家)。

同年6月、晋の趙簡子(=趙鞅)が陽虎の詐謀を用い??を、衛の「戚」に入れた、衛から来たといって喪服の??らが号泣しつつ戚に入りそのまま居ついた(孔子世家)。衛も気付いて戦闘になったが、(喪中だからでしょう)中断してそのまま(史記の衛の世家)。

前492年春、斉と衛の軍が戚の??らを囲む(決着せず)。(春秋)

同年5月、魯の桓宮・僖宮の火災。孔子はこれを陳で聞く。(孔子世家、春秋左伝)

同年秋、魯の季桓子が死ぬ、子の季康子に孔子起用を遺言。魯で検討結果、代わりに弟子の?求を召す。陳にいた孔子「帰ろうかな」と、子貢がそれを聞いて孔子が魯に帰れる様に計れと?求にいう、?求は魯に向かう(孔子世家、春秋左伝)。

前491年7月、斉・衛軍が晋に范氏を救済にいく。(春秋左伝)

同年11月、趙鞅が晋の邯鄲を落す、得る。(春秋左伝)

同年、この年、孔子は陳から蔡に移る。(孔子世家)

同年2月、蔡の昭公が賊に殺される(孔子世家、春秋)

前490年夏、斉が宋を伐つ、晋が衛を討つ。(春秋)

同9月、斉の景公死す。(春秋)

同年この年、孔子は蔡から葉(しょう、楚の邑)に移る。(孔子世家)

前489年7月、楚の昭公死す。(春秋)

同年 孔子は楚から衛に帰る。(孔子世家)
⇒衛の霊公の死の前後は、南子の推す末子郢(えい=子南)と趙鞅の推す長男??(戚に陽虎らと居座り中)と??の子の輒(=出公)の三勢力があった、と見られます。結果論ですが、南子を嫌い趙鞅を恐れる衛の群臣たちは、輒を取ったようです。

⇒吉川さんらは孔子は自然な長男??を推した、というらしいが、そうではない。霊公亡き後うまく立ち回って輒派について貸しを作る手もあったが、どうなのだろう、・・そういうこともせず。局外中立だったのではないか。霊公と合わずに衛を去ったように論語は示唆するがそうでもない・・輒派で固まった群臣につくこともなく・・

⇒翌年の前492年5月には陳にいたことだけ、を孔子世家と春秋左伝は明記する・・霊公の葬儀が終わり次第、衛の後継者内紛や群臣の争いが噴出して、嫌気が差したのだと、みる。

・・要すればフニャフニャグジグジしていても許していてくれた霊公というスポンサーを失っただけ。

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魯と衛とは兄弟・・とはこの時の言葉だろう、論語から引きます。

「子曰、魯衛之政、兄弟也。」(論語子路の7、#310)
(試訳=衛の政治も魯と似たもの同士。臣が君を超え、子が親を超える。)

⇒あまり難しく読む必要はない。単純に、君臣・親子の関係が乱れていること、孔子を厚遇しないこと、を嘆いたのである。霊公42年の治世が終わったとたんに衛はガタガタ。孔子は衛を離れる決心をした。

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今後どうするか、どこへ向かうか?
このときは案外時間があったのではないか。弟子たちとも相談した。子貢も魯を辞めて孔子の元に帰っていたと思う。満を持して、次の行き先をみんなで検討した。・・その結果は、陳というよりも、当時日の出の勢いだった、南方夷の国々、楚や呉越をめざすことにしたのだ、とみます。しかし、その結果はあまりに惨めなものであった、途中の宋や蔡や陳でも容れられず、楚からも呉越からも声がかかることはついになかった。それが史実です。だから、論語は極めてそっけなく、こういいます。

「衛靈公問陳於孔子孔子對曰。俎豆之事則嘗聞之矣。軍旅之事未之學也。明日遂行。在陳絶糧。從者病莫能興。子路慍見曰、君子亦有窮乎。子曰、君子固窮。小人窮斯濫矣。」(論語衛霊公の1、#380)
(試訳)
衛の霊公が孔子に軍事(=陳=陣)を聞いた。孔子答えて礼(=俎豆=祭器=礼)のことは多少知っているが軍事のことは勉強したこともなくわかりません。

そして翌日衛を去(=行)った。

陳にいたときに食糧がなくなった。従者は病気になり立(=興)っていることさえできなかった。子路は怒(=慍)って面と向かっていった「君子がここまで窮するものか?」。孔子「君子なんてもともと窮しているもの、フツーのひとは窮すれば乱(=濫)れてしまう(が君子は乱れない、それだけの違いさ)。

少なくとも2つの別々の話だが、古来?一文として読み慣わしているらしい。・・だから、ワンセットで頭に入り誤解?の元となる。・・なぜか?①衛公と軍事を語る語らないで不仲になり、②その翌日にもサッサと衛を出た、③その後陳ではひどいめにあって食うにも困った、④みんな霊公が悪い、事実別のところで孔子は霊公は無道とも言っているしな・・と無理やり結びつけて、

殆ど、ヤケになっている・・論語編集者(少なくとも下10巻を加えた人たちの)の強い後悔か非難か、を感じてしまうのです。

rac検討結果では、以上、どれも違う、のです。

孔子が軍事を語らなかったなど事実ではなかろうが、あれこれぐちゃぐちゃ言う孔子に、霊公はそれでも粟六万斗の禄を与え続けた、②礼儀としても霊公の葬式が終わるまではいたろう、翌日去るなどありえず相性の悪さをいいたいための表現、③陳で食うにも困る羽目になるのは事実だがこの後さらに3~4年も後のこと・・

・・これを一句で覚え(させ)ることで、悪いこと尽くし、嫌なこと連想、のセットで頭のなかに入る、短絡的に、事実と全く違うことがすり込まれ定着してしまう。・・古くは論語は子供時代に読み覚えてしまうわけですから、知らないうちにここをワンセットで思い込み洗脳されるのです。
⇒それほど、
孔子にとっても子貢以下の付き従った高弟達にとっても、いいことのない大失敗の旅だった、という風に、この一句(のしかけ)からだけ、でもみえるのです。このあたりを次の問題意識の軸、として以下展開していきます。

⇒なお、まあどうでもいいことですが、この辺もどの時代からそうなっている(最初の陣とあるべきを陳としたのか、ワンセットで読むようになったあとでしょう)のか、掛け詞、をみます。「軍=陣=陳=従者も病い食糧にも窮する」=反軍事思想の儒家文官的掛詞=嫌悪非難、と見ます(笑い)
(つづく)
UNQT