1538.孔子(46)左伝哀公12年、より

1538.孔子(46)左伝哀公12年、より :2011/5/28(土) 午前 8:11中国作成分再掲。

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春秋左伝、魯哀公12年=前483年、孔子69歳、死の4年前、です。


①春、正月、田の税をはじめた(春秋本文)この年にはありませんが前年左伝には、孔子は季康子から相談されたが、周の税法(十分の一税)を守ればいいことで、増税するつもりの季康子とは話もしなかった、とあります。

⇒税制の相談にもあずかったが、民に負担を強いる増税には反対したのが孔子だったのでしょう。


②夏、5月孟子(昭公夫人)が卒す(春秋本文)。孟子は前の魯公昭公の夫人、呉出身で同姓だから夫人とも書かず、反哭もせず、諸侯にも連絡しなかった。夫人の弔いに孔子が出かけ、それから季康子を回ったが喪服もつけていなかったので孔子も喪服を脱いだ。(以上、左伝)

⇒これも案外貴重な情報かもしれません。

昭公は哀公の2代前で叔父さんです、その奥さんが呉の出身(同じ姫姓)というなら呉王夫差とどういう関係か?結構近い血筋だったのでしょう。呉との関係ではキーマンで、魯宮殿では力を持ち、親呉派、孔子孔門ら、の後ろ盾だったのかもしれません。

同姓だから夫人とも書かず諸侯に連絡もせずといいつつ、春秋本文には堂々と書く・・矛盾しているようだが、実体はどうだったのか。

そもそも2代前の夫人の死亡記事などめったになく、逆に影響力があった、その死に重大な意味があった。この夫人の死と共に、呉王夫差の乱暴さ下品さ?が目立ったり、少なくとも呉王夫差は中原でも風雲児でその親戚の孟夫人の葬儀を大々的にやるにはあまりにも微妙な政治軍事状況だったり、かもしれません。

上記事、少なくとも季康子は明らかに反孟夫人で反呉でしょう・・孔子の方はこの夫人と緊密だったのではないか

儒家が後に強調するような呉は東夷イレズミ短髪野蛮人とか同姓婚を忌むとの感覚は、この時期は逆に、思うほど強くなかったようにもみえます。

以上、すべて想像ですが、面白い記事です。


③夏、魯公が呉と橐皋(たくこう)で会合(春秋本文)。呉王夫差は伯嚭に関係強化を指示したが魯公は望まず、子貢を派遣、子貢「いったん同盟したからには頻繁に改めるものではない」との趣旨で切り抜けた、(左伝)。

呉は衛にも同盟を求める。子羽は「呉は乱暴だから同盟に反対」、子木「噛み付かれるとまずいから同盟すべき」と。(左伝)

⇒呉の横暴さを左伝は強調し始めます、この年、前483年、です。

⇒子羽も子木も孔門?なら、子羽=澹台滅明・武城のひと、子木=商瞿。とすれば、孔門でも呉王夫差評価が分かれ始めたのかもしれません。


④秋、衛公(出公)は呉と鄖(うん)で会合(左伝)、魯公と衛公は宋皇瑗と会盟(春秋本文および左伝)、衛は呉との同盟を断る。(左伝)呉は衛公の宿を囲む。衛は子貢に弁明を依頼。子貢は錦一束を手土産に、伯嚭に「諸侯を集めながら衛の君を閉じ込めたとあっては諸侯をびくつかせてしまう、それでは覇者になれない」、嚭は恥じ入って衛公を解放した。

衛公は呉の田舎言葉にすっかり慣れていた。子之(これも孔門?)はまだ若かったが「衛公はとらわれながら呉の言葉を面白がっておられる、呉辺りで死ぬのだろう」と。

(以上、左伝)

⇒どう読むか?

⇒宋の皇瑗とは宋の将軍、晋の趙鞅側。宋の将軍でも呉に寝返るつもりだったのか?

子貢のセリフを信じれば、呉が魯公衛公宋皇瑗を鄖に招集したらしい、諸侯会盟の準備のようにもみえますが、

・・現伝記事全体は、呉の乱暴さを強調し、衛も魯も呉との同盟を断った、と主張します。

いずれにしても諸侯以外は孔門とみられる人々登場の記事が多く、・・孔子が晩年は魯で学究弟子育成に専念したとは信じがたい。呉との関係も微妙、魯だけでなく衛や宋も巻き込んだ外交軍事関係の中心、にいたことは間違いありません。

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⑤冬、12月、螽(しゅう、いなご)(春秋本文)季康子が孔子に聞いた、孔子「火星が隠れると地に蠢くものが消えるはず、火星が西の空にまだあり、12月というのは歴官の手落ち云々」(左伝)

⇒当時の暦の狂いらしいが何らかの寓意もあるのか、分かりません。

 

⑥この秋から翌年春まで、宋と鄭はずっと戦闘中です。(春秋本文および左伝)

⇒単なる地域紛争か(左伝はそのように書きます)、晋と呉の代理戦争かは、分かりません。
(つづく)

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