1539.孔子(47)左伝哀公13年、より

1539.孔子(47)左伝哀公13年、より :2011/5/28(土) 午前 11:14作成分再掲。QT

春秋左伝、魯の哀公13年=前482年、孔子70歳、死の3年前、です。


①春、鄭軍が挽回して宋軍を取り込む(春秋本文)宋の桓魋(かんたい)が味方を救いに鄭に入るが、鄭軍が桓魋懸賞金をかけたので桓魋は逃げた、鄭軍は反撃して失地を回復した(左伝)

 

②夏、魯公が晋公と呉王夫差と黄池で会盟(春秋本文)

③楚の公子申の軍が陳を伐つ(春秋本文)

④越が呉に侵攻(春秋本文)

⇒ここは大変興味深いところです・・注意深く読みましょう(笑い)。

⇒現伝左伝は、呉にはあまり触れず越を語り、孔子子貢ではなく子服景伯に主役が変わります。

左伝は黄池の会盟については「夏、魯公は単(ぜん)平公・晋定公・呉王夫差と黄池で会盟した」の一行だけです。

⇒黄池会盟については史記は呉世家や晋世家でもさまざまに触れ、司馬遷の時代には各国系の情報が結構あったと見ます。魯も大きな当事者のひとつだったのですが、現伝左伝は寡黙で偏りがありすぎるのです。

 

「6月、越王勾践が二方面から(主力が中原に出ているすきを突き)呉を攻め、太子・王孫らを討ちとる、呉王夫差はこれを黄池で聞くが外聞をはばかって情報をもたらした7人の使者の首を手づからはねた。呉と晋のどちらが会盟の主人役をつとめるかもめるも、晋が長を務めた。また、魯は子服景伯の弁舌で呉に従いつくことを回避できた。」(左伝、要旨)。

⇒ここは後世変造も疑ってよく、司馬遷史記は呉世家では「晋が長」、晋世家は「呉が長」を務めたとし史記にも矛盾があります。国語呉語(=夫差の一代記)では明記ありませんが、呉の勢いと趙鞅と晋定公との関係からみて呉が長、とみたい(どちらでもいいですが。記事1544参照)。呉王が7名の首をはねただの、肉を食う貴人にしては顔色が優れないなどという文章も、左伝は追加しています(国語では6人が自噴して晋を脅すとあるが)。すでにこの時点で呉王はピークアウトしていたのだ、とほのめかすのが、左伝です。

「呉王は宋を伐ち、男は殺して女を捕らえたいと思ったが、伯?が「勝てるが長くは居られない」といったので呉に引き上げ、越と和した」(左伝)。

⇒ここも宋に対して男は殺し女は拉致すると言わせ呉王の残虐性を強調しています。

⇒大変難しく、結果論的にはここが呉王夫差のピークであったことは事実とみますが、・・魯の左伝の、親呉から呉と距離を置き始める呼吸が、歴史的事実としてなら見事過ぎる・・そして数年さかのぼって呉を低く見る伏線記述が左伝に上手に埋め込まれすぎている・・印象があるのです。・・孔子時代のものではありえず、いくつかの深刻な理由から、後世の変造捏造が加わっている、とみる理由でもあります。(後述)

--------------------------------------------------------------------------------


さてさて加えて大事な点ですが・・まさに、この次の記事が、ずばり西狩獲麟そのものなのです。
左伝編集変造過程に親呉反呉(=孔門志士派と孔門学窓派にほぼ相当する)の立場の違いはあっても、

ここに麒麟が出てくることは、やはり絶対に、もともと麒麟に象徴されたのは、孔子のことなどでなくて呉王夫差を指していた、とみます。左伝も読んで、この点も確信に変わりました。
(つづく)

UNQT