1536.孔子(44)左伝哀公9年、10年、より

1536.孔子(44)左伝哀公9年、10年、より :2011/5/27(金) 午前 11:17作成分再掲。

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春秋左伝、魯哀公9年=前486年、孔子66歳、死の7年前、です。


①春、斉悼公が公孟シャクをやって呉に兵を借りることを断らせる。(春秋左伝)呉王夫差いわく「去年は兵を借りたいといい今年は不要とおっしゃる、どちらに従いましょうや、いっそまかりでて斉公のお指図を受けましょう」と。(左伝)

斉悼公は何をうじゃうじゃ言っている、大夫クラスを抑えられず、魯攻めのときは付いてきて魯の領土を掠め取る、どうしようもないやつ・・というところなのでしょう。・・まあ呉王夫差の思いでしょうし、この文章は左伝の筆者が呉王夫差の発言を痛快がっている、ように見えます。
②夏、楚が陳を伐つ。(春秋本文)陳が呉に就いたから(左伝)
③秋、宋が鄭を伐つ。(春秋本文)晋の趙鞅が鄭を救い宋を伐とうとするが卜して不吉と出たのでやめた(左伝)。

⇒なお陽虎は晋にこの時期もいたことは周易を行った(左伝)とありますから読み取れます。陽虎も宋攻めと鄭救済には反対しています。・・宋はずっと晋趙鞅の同盟軍なのですが、晋の了解ないままでしょうか前年曹を亡ぼしこの年鄭を侵します。・・南から呉の圧力があって宋はテークチャンスし晋から独立を強めようとするのでしょう。当然例の宋の司馬桓魋(かんたい)あたり大活躍していたでしょう。
④秋、呉は?(かん)に城を築き、江・淮の水を引く。(左伝)

⇒北部進出の兵站・足元固めでしょう。
冬、10月(春秋本文欠文)。冬、呉王夫差が使いをよこし、魯を動員、斉伐ちを申し入れる。(左伝)

⇒前年7月と同様に、春秋経本文は欠文ですが、こちらは、月こそ書いていませんが冬として、呉王夫差が斉侵攻のため、魯に軍事動員をかけた、ことを、左伝は明記します。

⇒・・春秋本文に欠文なのは東夷呉子くんだりに伝統魯国が服して援軍を出すなどあってはならぬこと、との思いです。もし現伝左伝のこの文章が春秋孔子伝(仮称)にまで遡れるとしたら、孔子はそんなこと=魯が呉に従軍すること、は気にもしなかったひと、ということになります。なお、春秋は呉も楚も王とも公ともつけず、呉子・楚子、と常に表現します(rac要約では王、としています、念のため。この蔑視問題は弊春秋シリーズで触れました・・)。

⇒前年は斉と共に魯を侵した呉王夫差でしたが、ここでは全く逆に、魯と同盟して斉を伐つことになります。まあようやく、孔子や孔門志士派の描いた中原和平回復のシナリオ通りになってきた、という所でしょう。

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春秋左伝、哀公10年=前485年、孔子67歳、死の6年前、です。


①2月、邾子が魯に逃げてきた。(春秋本文)②2月、魯公は呉王夫差とともに斉を伐つ。(春秋本文)邾公は斉の公女の子だったので斉に亡命した。

魯公は呉王夫差・邾公の子らと会し斉の南部を占拠した。

すると、斉では悼公を弑逆した。呉王夫差は3日間哭泣した、呉の海軍も海から斉を攻めたが勝てず、呉王夫差は引き上げていった。

(以上、左伝)

⇒かなりややこしい事情のようです。

魯から帰還した邾の子は邾公と対立。邾公は母の国の斉に亡命。

呉王夫差は魯と邾公の子、と同盟して、斉を攻めます。

その混乱のなかで、斉の悼公は(「史記の呉世家」では斉の有力大夫の鮑氏に)弑逆され、呉王夫差は3日間軍門の外で哭泣し、呉の海軍と共に斉を攻め続けますが・・

要するに、斉悼公を弑逆してまでのことですから鮑氏や田氏など有力大夫の連携が成り死に物狂いで強かったのでしょう、攻めきれず、呉王夫差は引き上げた。

おそらく、南方で楚が陳を攻める動きがあり、西方晋の動きも不穏だったのでしょう、呉王夫差は引き上げていった。
③夏、晋の趙鞅が斉を侵す。(春秋本文)この戦いで、晋は斉西部を得た。趙鞅は引き上げた。(左伝)

⇒趙鞅軍の狙いがなんだったかよく分かりませんが、結果的には斉は趙鞅に斉西部を取られたようです。

趙鞅の本来の目的は斉を救済して呉を伐つためだった、が呉はさっさと引き上げた、動員をかけた趙鞅としては何もなしに引き上げるわけに行かず斉の西部をもらった、というところでしょう。

名門斉も公は弑逆され、呉に攻められ晋にも攻め(侮)られ弱体化著しいようです。
④秋、呉の使いが魯に来てまたも軍を用意させた。(左伝)⇒呉としては、斉を攻め続けるつもりだったのでしょう、左伝は呉は魯に「また」動員をかけた、と記します。
⑤冬、楚が陳を伐つ、呉が陳を救う。(春秋本文)左伝のニュアンスは少し異なります。

「楚の子期(公子結)が陳を伐つ、呉の延州来(もともと蔡の都)の季子が陳に救いに行ったが「どちらの君も徳を磨きもせず諸侯の取り込みに躍起になっている、民に罪はなく可哀想、自分の方が軍を引いて名をあなたに進ぜましょう」と言って引き上げた。」

(以上、左伝)

⇒ここも孔子・孔門の工作を強く感じさせます。

・・呉王夫差の季子(末のオジか末弟)さんですから夫差の意を受けています。呉も楚も両国王とも徳を磨け、人民に迷惑かけるな、です。・・言うことは理想論の名分論、で孔子孔門のにおいが強い。・・孔門の真意としては、呉が南方で楚と戦ってしまっては、中原での呉王夫差による天下布武はおぼつかない。・・楚の相手方は(楚の昭公が変死した)城父の陣でも孔子一行は面識ある公子結(子期)です。孔子らは話は通じます。・・要するに、陳を楚に譲らせて呉の疲弊を和らげ、呉王夫差の中原への捲土重来、を画策した。

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以上のような状況では

各国の意図や動きを早く正確につかむことが重要です。各諸侯や有力大夫達は大変な情報諜報網を整備していたことは間違いなく、そういうなかでも、各国に有力な立場の弟子を持っていた孔門の情報収集力や判断は極めて的確なものだった
でしょう。

(つづく)

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