1512.孔子23:陳蔡の状況

1512.孔子23:陳蔡の状況 :2011/5/10(火) 午前 10:55作成分再掲。

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承前。前記事通り、
呉王夫差の圧迫で、すでに「陳」や「蔡」は分裂状況です・・
孔子(一行)が陳蔡に入り前492年5月には孔子は「陳」にいた、前489年には衛に戻ったと春秋左伝はいいますから、この間、前493年から489年まで3~5年間、孔子一行は「陳蔡あたり」にいた、と見ていい。

⇒まず
春秋経本文から「陳」「蔡」動向を追います。春秋経本文は左伝や史記より古く、古いままに伝承されている、と信じるからです。)

なお、「衛」からは匡まで出て、南に下ると「宋」→「陳」→「蔡」、いずれも淮河(一支流)沿い、です。さらに南東へ長江まで至れば「呉」「越」、陳蔡から南西が「楚」、楚は当時すでに大国ですが、呉越は長江下流域(今の上海)以南に広がる(南蛮東夷の)新興領域です。
①前494年8月には呉は「陳」に入り止まり、陳公曰く「楚につくものは右に、呉につくものは左に」と。(但し、陳公のセリフは経本文ではなく左伝です、為念)

②前493年11月には、呉の圧力で「蔡」公は(都を)呉寄りの<州来>に移した。公子駟を殺す。

前492年、(残念ながら、陳蔡の記事はありません。)
(くどいですが、この年(=孔子60歳=魯哀公3年=衛出公1年)5月過ぎに孔子は「陳」にいた、と左伝はいう、だから、史記もこれを踏襲しています。述而不作、です。)

③前491年2月、蔡公(申)が賊に殺された。蔡の公孫辰が呉に逃げた。

④同年夏、蔡の大夫公孫姓・公孫霍(かく)を殺した。

⑤同年12月、蔡公の葬式。

前490年、(陳・蔡の記事なし)

⑥前489年、春、呉が陳を伐つ。

⑦同年、楚昭王が死ぬ(卒、の一字)。

⑧前488年、夏、魯公が呉と鄫(または「繒」)(ショウ)で会う。

⑨同年秋、魯公が邾を伐ち、隠公を連行し凱旋。

⑩前487年、春、呉が魯を伐つ。

⑪同夏、隠公を邾に帰す。


⇒少し先までピックアップしてしまいましたが、以上春秋経本文です。
①は⑥の前哨戦。陳は①で楚派と呉派に分かれた、と見ていい。

②~⑤が、まず呉にとっては手前にある「蔡」攻略、です・・呉と蔡の間で、さらに大きなことがあったろうと想像できる492年と490年は記事が欠落しています。ですがその前後だけでも様子はみえます、あくどいばかりの蔡の切り崩し・追放暗殺・抱き込み工作、です。

で呉は陳に念押しし、⑦を見届けて、一挙に⑧魯、と同盟します。・・これは「魯」にとっても大変なことだったはずです。(後述)

(・・同時並行で呉は海沿いに北上し、「斉」を攻略していますが、これは別途・・)

⇒ここに孔子一門はいたのです・・彼等のような政治集団が、どちらにつくにせよ、つかないにせよ、・・陳蔡にいた。蔡に入って3年という表現の部分もありますから、これがより古い伝承で大部分蔡にいた可能性もあります。

・・論語が陳・蔡・葉(楚の一部)として言及示唆するような牧歌的?世界(論語的世界・道教的世界・考古学古文書的世界)のみ、にいたとはとても考えられない・・でしょ(笑い)。むしろ「陳蔡の遭難」という食うに困り病に倒れる事態に至ったのは当然でしょう、暴力的軍事的ではなかったと信じますが、孔子一行はかなりの政治行動団体、なのですから。

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⇒急ぐことはありません、順に確認します。次は春秋「左伝」は、この経本文にどうコメしているか・・です。

②では「呉の何某が蔡へゆき贈り物を納める風をして少しずつ軍をいれ全部入れ終わった。人々にも知れ渡ったので、蔡公が大夫たちと相談の上、公子駟を殺して、楚に申し訳をした。蔡公は墓地で哭の礼を行い先祖の墓を移し、冬、蔡は全部州来に移った」。(左伝、竹内照夫さん訳、要約等文責rac、以下同じ)

③では「春、蔡の昭公は呉へ行こうとした。大夫たちはまた国替えになりはせぬかと心配して公孫翩を推し立て追いかけて射殺した。同時に翩も殺された。そして公孫辰を追い出し、公孫某・某を殺した。」

(蔡はこの段階では呉派を駆逐したようで)「夏、楚は葉公諸梁らと共に北上して、呉の北方進攻をとめようとする。晋との摩擦拡大を恐れ晋に申し入れ、晋は了解し、楚は蛮族の領土を確保した。」


前490年の左伝は、南方の記述なく、斉の景公の死と公子たちが衛や魯に逃げ込んだこと、晋の趙鞅が衛を伐ったこと、を記録します・・。斉の内紛で衛や魯も一挙に晋の攻勢を直接受けるようになります。


⑥呉が陳を伐ち、楚昭王は「亡き父が陳と同盟していた、救わねばならない」として国境の城父(じょうほ)に陣を敷き、7月卜す、不吉と、楚の昭公は城父で死ぬ。ややこしい話があるのですが、孔子が楚の昭王を「道を心得ている、国を守り得たのももっとも、云々」(ここは要すれば呉と戦わなかったことを)と褒めています。

⑦楚の昭王の死には、黄河の神のたたり(長江でも淮河でもなく、関係ないはずの黄河の神と)による病気で祓わなかったと書きますが、その死も後継者もややこしい怪しい話・文章になっています(笑い)。要は城父までは来たものの呉とは戦わずに撤退したか負けたようです。そして孔子の変な褒め言葉、で仕舞いです。

(⑥⑦大事なので、長くてややこしいのですが、次の記事で取り上げる、ことにします。(笑い))

 

⑧そして、春秋も左伝も、次はいきなり、⑧の記事と伝で、⑦の翌年の夏です。場所の「鄫(または「繒」)(ショウ)」は驚くなかれ、魯の領内、です。陳を飛ばし、宋や衛も飛ばし、魯での記事です。

(・・ここはマッカーサーと会う天皇を思い出しますが)魯公が呉の使いと会し、呉は「百牢」の馳走を要求します。百牢は、度を越えた饗応とかいけにえの提供とか、いずれにせよ臣属を求めたものとみえます。呉の宰相伯嚭(はくひ)が魯の(実質支配者)季康子を召喚しますが季康子は(孔子の弟子)子貢に応対させ、まあやりこめて、事なきを得ます。(後述)


⇒以上、特段の情報取捨加工をしているわけではありません・・これだけ、なのです。

どう読むか?・・rac的には、説明するまでもない。素直にさえ読めば、これまでの仮説に合致する=自明、とみえるのですが(笑い)・・
(つづく)

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