1525.孔子(35)百牢の馳走=呉魯同盟

1525.孔子(35)百牢の馳走=呉魯同盟 :2011/5/19(木) 午後 0:15作成分再掲。

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⇒わが国では古来「百牢(百膳)の馳走」と称される記事は、司馬遷史記孔子世家」には一言しかなく、最も纏まって記事があるのは「春秋左伝」の方でした。・・思い違いで・・世家だけで済ませるつもりだったのであまり戦線を広げたくないですがこの際仕様がありません(笑い)、春秋もリファーしつつ話を進めます。


なぜ、重視するかというと、これが記録上初めての呉と魯の接触であり、子貢の活躍で、いわば呉魯同盟が成立するからです。・・縷々説明どおり、すべて孔子らのシナリオ(通り)だったと見ます。・・この後、魯は一時呉に攻められることもありますが、基本は、孔子存命中(前479年)、まあ呉の滅亡(前473年)、に至るまで、魯は、飛ぶ鳥落す勢いの呉王夫差と組んで、不安定な中原において確固たる地位、を保ち続けます。

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まず、
mirobiiさんの「孔子世家」和訳から、若干前後も加えてhttp://blogs.yahoo.co.jp/mirobii/17894634.html
http://blogs.yahoo.co.jp/mirobii/17910967.html
ここにおいて、孔子は楚より衛に帰った。孔子は六十三歳であった。そして魯哀公六年である。(=前489年)

その明くる年、呉は魯と繒(しょう=魯の邑)で会し、(呉は)百品のご馳走(ちそう)を求めた。(呉の)太宰相の?は季康子を呼び寄せた。李康子は子貢をつかわし往(い)かせた。然る後(のち)、意を得た。

孔子曰く「魯と衛の政治は兄弟なり」と。この時、衛君の輒(衛出公)の父(ちち=??)が(衛の君主として)立つことを得られず、国外にいたので、諸侯はたびたび(衛を)攻(せ)めた。

しこうして、孔子の弟子(でし)は衛に於いて多く仕(つか)え、衛君は孔子を得て政治をさせることを欲した、云々
続けて、
春秋左伝哀公7年=前488年の該当記事から少し長いですが、平凡社竹内照夫さん訳本から該当部分(要約文責rac)
春秋経本文】

夏、(魯の哀)公が呉と鄫(しょう=繒)で会した。

秋、公が邾(ちゅ)を伐ち、8月?に入り、?子益を連れて帰った。

【春秋左伝】
夏、(魯の哀)公が呉と鄫(しょう=繒)で会した。

呉の使いがきて百膳の馳走を求めた。

(魯の大夫)子服景伯は答えて「先王の時代にも百膳ということはなかった」

(呉使者)「宋では出してくれました、魯が宋に及ばなくては不都合でしょう。それに魯は晋の大夫をもてなすのに十膳以上出されるのだから、呉王には百膳でもいいのでは?」

(子服景伯)「晋の范鞅は欲深で礼儀を知らず、国が大きいからといって脅されたので、11膳とした。周の朝廷では礼儀を定め、最上でも12膳。周の礼を捨てても百膳といわれるなら従いますが・・」

呉の使いは聞き入れない。

子服景伯は言った「呉は亡びるだろう。天を敬わず礼の大本に叛く。しかし承諾せねば憂さ晴らしされるだろう」。そこで百膳出すことにした。

呉の大宰(=宰相)伯嚭(はくひ)が季康子を招いたので康子は子貢に応対させた。

大宰が言った「国の君が自ら旅に出ているのに大臣が家の門から出もしないのは何の礼か?」

子貢「それは礼にかかわらない。大国を恐れ敬ってのこと。大国が礼に構わず諸侯にあれこれ命令するなら小国は礼を慎まないと災いは一層深まる。わが主人はそちらの御用を勤めているなか、年寄りが国を離れて出かけられようか?太伯は周の礼法の下にあったが、末弟が王位を継ぐと、入れ墨をいれ裸を飾りとされましたが、これは礼ではなく、別の理由があったからです」。

(こうして一段落したのに、?から魯に帰った季康子は呉に事を起こす力はないと判断し、大夫たちの反対を押し切って、?を攻めた。?の大夫たちは呉に知らすべきだといったのに、?子は動かず連行される。「魯の音が聞こえるほど魯は近いのに、呉まで2000里、3ヶ月かかる云々」いって?の某が呉にいって「魯は晋が弱い、呉が遠いと見て、呉との盟を破り弱いものいじめしている」と呉に訴え、これが原因で翌年魯は呉に攻められる(という事態を招く)・・と左伝は書きます・・)
地図 http://shibakyumei.web.fc2.com/map/mapDM.html
⇒世家には「徴百牢」とあり「百牢」の意味はよくわからない、らしい。通常は丁重なる饗応=百膳・百品のご馳走と読むようですが、百の生贄(動物)という説もあるらしい。いずれにせよ、同盟というよりも服従の証なのでしょう。・・一回こっきりでなく毎年の税金・上納金、のことかもしれません、だから真剣なのかもしれません。

⇒春秋左伝では子服景伯は百牢を受けた、と明記します。世家では子貢の活躍で免除されたニュアンスが残ります。・・真実はどちらか分かりません。

⇒百牢についてはともかく、呉のあからさまな臣従要求の交渉に、魯の実質支配者の季康子、そして有力政治家(=子服景伯=論語にも二度出ます)を差し置いて?指名されて・・ここに孔子の愛弟子子貢(外交屋です)が登場することの重要性、です。おそらく子貢も(孔子も、でしょう)伯嚭にも(呉王夫差にも、でしょう)、陳蔡時代に面識があった、のです。また季康子のところには既に冉求が家宰(=家老、行政屋です)としていたはずです。要するに孔子は魯にも全面協力している・・のです。

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司馬遷史記「魯周公世家」にはもっと簡潔な文章がありました。(小竹文夫武夫さん訳、筑摩本、要約文責rac)
哀公の7年(=前488年)呉王夫差の兵が強く、斉を伐ち繒までいき、魯に対して百牢の饗応を要求した。

魯の季康子は子貢をやって呉王と太宰伯嚭を説かせ、礼制の上からこれを拒絶した。

呉王(夫差)は「わしは身に入れ墨をしている夷狄だから、中国の礼でとがめられても仕方あるまい」といって、それきり要求しなかった。
⇒この文章が、司馬遷なりの総括、だったと読みます。・・百牢の結論は?・・子貢が呉王夫差に談判して、入れ墨の身だから(念のため夫差も恥じていません、あるいは本当はすでに入れ墨などしていなかったでしょう)といって引っ込めた。・・ここは司馬遷が子貢を敬して作ったかもしれません。孔子一門のお陰で魯は呉からの屈辱は回避できた、司馬遷はそう考えたかもしれません。

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この時期孔子は衛にいて(遊説の途中で)魯には入れなかったように通常言いますが、事実は・・この時点で孔子はすでに衛にも魯にもかなりの影響力を持っていた・・子貢や子路や冉求など優秀な弟子の力と孔子の指導性・力ももちろんですが、・・やはり、後に呉の力が見え隠れしていたことが大きい、と読みます。

⇒もう一つ大事なところですが、(これまでアイキャッチングに呉の隠密部隊と表現していますが、実体を正確に言えば)

孔子一行は、呉王にとっては「勝手連かボランティア集団」、「上下命令関係はなかった」とみます。・・孔子がいるからといって魯を必ずしも特別扱いはしない、・・天下天道に沿うかどうか、だけが問題。呉王も孔子もそれを当然と思う、そういう緊張関係です、理想ある人間同士の気合、です。

「天下天道に委ねる」というのは、孔子のひとつの考え方です、論語にいくつも例があります。ですが、それでも一方、「郷党性」をいう論語の句もいくつかあります。・・相容れないことが多い、それでもわが郷党云々、いい句があります。この二面があったのです、それが呉王らと孔子らの間での、呼吸だった、
とみます。

⇒少し抽象的でやや難しいかもしれません・・おいおい他の例も出せると思います。志の高い人間同士のお話です。曽子的?帝国人民管理的?儒教世界とは違う孔子の側面です・・原始孔子はこれが強いのですが、後の孫弟子世代以降はこれをそぎ落としていきます。それが現伝論語、です。

(つづく)

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