1558.子貢年表(中)

1558.子貢年表(中):2011/6/8(水) 午後 1:55作成分再掲。

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子貢年表(中)


前488年(子貢33歳、孔子64歳、魯哀7年、呉王8年)孔子ら衛魯に戻る。夏、魯公が呉と鄫で会合。百牢の馳走の要求、子貢の活躍。

⇒楚の昭公が城父で変死するのが前489年の7月。孔子一行は呉王夫差軍と軌を一にして北上し、その年か翌年前488年には、孔子は衛に戻る。魯に帰りたいと孔子は思ったかもしれませんが、この時点では呉王夫差がどこまで本物か中原諸国には信用もなく、また反孔子勢力は魯に根強かったのでしょう、魯ではなく、衛に入ります。

⇒衛には、子路の義兄顔某もいますし(顔氏は孔子母方の縁者だったかも)子貢も衛出身だし、まあ知り合いがより多い。・・なんといっても、孔門志士派ネットワークは全中華各国で稼動していますから、衛と魯は兄弟、居場所はどっちでもいいというところだったと見ます。

⇒子貢は、すでに超外交官として有名だったでしょう。適宜に、魯のためにも衛のためにも(それ以外にも孔門志士派構想実現のためには)動くという存在だった・・
前487年(子貢34歳、魯哀8)春、呉が魯を伐つ。魯の季氏が執着の邾を取りましたので、邾が泣きつき呉が魯を伐ち、邾を元に戻す。

⇒ちか欲に走る魯季氏には改めてガックリきたはずですが、魯呉同盟は何とか維持され

前486年(子貢35歳、魯哀9)と前485年、呉が斉攻め、魯も援軍を出す。前485年3月鮑氏が斉悼公弑殺、呉王夫差陣門で3日哭泣、海軍を動員するも勝てず。前484年春(37歳、魯哀11)斉が魯を攻める、呉王夫差が救いに来て、5月呉魯は艾陵(かいりょう)で斉に圧勝。同年(前484年、子貢37歳、孔子68歳)孔子14年ぶりの魯への帰還。

⇒艾陵の圧勝を現実に見てしかも呉王夫差はその戦果を魯公に与えたといいますから、魯公や季康子もようやく呉王夫差を認め孔子ら孔門志士派を嘉する気持ちになった。その反映が反対派大夫を排して孔子を国老の礼を以ってで魯に迎えた、ということ。
前483年(38歳、魯哀12)夏、呉魯同盟の確認(橐皐の会合)。秋、呉魯にくわえて衛・宋(但し皇瑶です)も同盟に加えようとして失敗したようです(鄖の会合)。前482年(39歳、魯哀13)夏、魯公、単(ぜん)公・晋公・呉王と黄池会盟。

⇒この間、枚挙に暇がないほど、子貢の外交面での活躍は左伝や世家にあります。魯としては、呉との厄介な交渉ごとには子貢、反呉の交渉ごとには子服景伯、を優先して使った、ようです。

司馬遷が、仲尼弟子列伝の子貢で書いた五国調略に準えていえば(記事1526,27)斉との関連②では、前484年の鮑氏悼公弑逆の直後の状況とみていい(悪役は前481年の田氏になっているが、後述)

呉との関係でも③~⑤の基本はまさに艾陵の圧勝のこと、とみていい。呉王夫差ともこのころ堂々と渉り合ったのが子貢なのです、そして司馬遷はすべて孔子の指示だった①、とまでいう。(④は後の伝承とごっちゃの部分あり、後述)

司馬遷の時代にはまだ、子貢についてのこういう記録も残っていた、そしてこう編集した司馬遷孔子子貢のシナリオと見ていたことは間違いない。

なお、添付記事末尾の流れでは、司馬遷は、黄池会盟では晋が勝ったといっている(ここは史記にも両説流れており司馬遷も迷ったままだったのか?)、・・なら孔子の次の記事獲麟↓は単純で、=呉王夫差の黄池での敗戦を見たから、この可能性も排除できない、です。
前481年(40歳、魯哀14年)春、西狩獲麟。

⇒そして顔回宰我・司馬牛・子路孔子の絶望に従うように死んでいく。そして
前479年4月、子貢を待ちかねたといい子貢らに看取られて孔子卒す。73歳。

(以上、記事1556もご参照)

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さてさて、

⇒刮目すべきは孔子があきらめた後の子貢らの頑張り、です。これからがすごい
⇒少し戻りますが・・
同年前481年、6月宋桓魋(兄弟)宋から逃亡。夏、斉簡公を陳成子(=田常)が弑逆。冬、陳は呉派に戻る。(左伝)

⇒この年は、宋がついに呉同盟に就いた、陳も呉派に復した、とよみます。孔子は前481年には夫差ジエンド獲麟、とみたのですが、子貢ら残る孔門志士派はめげずに呉の支援活動を続けた結果でもあった、と見ます。

孔子が嘆いた斉田常の簡公弑逆であり、呉には討伐に向かう余力はなかったのですが、既に見たとおり

前480年(子貢41歳、魯哀公15年)春、成(魯の邑)が魯に叛き斉につく。夏、楚の子西・子期が呉を伐つ。秋、斉の陳カン(田常=陳恒、の兄)が楚に行く。途中衛で子路は「魯との同盟」を勧める。冬、魯は斉と和平、子服景伯が子貢を介添えに、田常は魯衛に仕えると約し成を魯に返還。(左伝)

⇒前480年には、楚に向かったらしい田常の兄を衛で子路が捕まえて説き、子服景伯と子貢が動いて田常の斉は魯衛と同盟した、といいますから、この時点では、斉も呉派連合に呼び込んだ、と見えます。呉の軍事力で出来なかった同盟を、子貢らの外交力で、斉を魯衛はじめ呉派に切り替えさせた、とみます。

⇒ところが足元からこれは崩れた
前479年(子貢42歳、魯哀16)正月、衛の世子蒯聵が戚から衛に入った、衛出公(輒)が魯に逃げてきた。(左伝)

⇒衛の北部の町戚に長く割拠していた蒯聵が遂に、晋の趙鞅のバックアップで、衛公に就きます。出公は魯に逃げてきたという、誰を頼ったか明らかです。子貢ら孔門志士派呉派です。

⇒この年前479年4月(現暦では2月18日とか)孔子は死にます。
前478年(子貢43歳、魯哀17)3月越王が呉を伐つ。晋の趙鞅が衛を伐つ。斉が衛を救援する。趙鞅は斉が出てくるとは思わなかったといって撤退する。(左伝)

⇒衛公はこのとき趙鞅派の蒯聵=荘公(在位は前479~478年)ですが衛の大勢は呉斉魯派だったようです。呉は楚に足止めされていますから、斉が救いに来た。趙鞅は斉が来るとは思わなかった(斉については卜さず)といって引き上げます。結局荘公を廃し続けて2人の公を立てますが持たず、翌年前477年には、出公が復位します。それで衛はしばらく安定しますから、この時点では、魯斉呉の同盟派の勝利です。・・動きが取れなかった呉のために、田常斉が汗をかいた形です。ここも子貢ら孔門志士派の段取りだったとみます。
前476年(子貢45歳、魯哀19)春、越は楚を侵して呉を油断させた(左伝)

⇒と左伝自身が、すでに、越と楚が同盟できていること、を示唆します。白公の乱(前479年)を経て楚国内をリシャフルした実力者葉公(=沈諸梁)はこの時点で、明らかに呉との同盟を捨て越に就いたと見なければなりません。

⇒単純に考えていいようです・・楚太子建の子の勝=白公、は呉で育って呉の近くの白に白公となった、というのですから、白公は呉王夫差の仲間だったのです。・・本人が乱暴ものだったからと左伝は一貫してかいていますが、前479年、白公を排した時点で楚の主力葉公(=沈諸梁)は呉王夫差から離れ独立派ないし越との同盟に切り替え、前476年のこのときには、明らかに呉を裏切り越についていた。=これが呉を誤られて(油断させて、左伝)の意味です。
前475年(子貢46歳、魯哀20、呉王21)夏、斉と魯が廩丘で会合、鄭を救うべく晋を伐つ相談、鄭が辞退したため立ち消え。趙鞅の子の趙襄は呉との同盟をやめ越に切り替える。(左伝)

⇒子貢ら孔門志士派と田常斉は春の段階では、呉派同盟を維持するつもりでいたようです。しかし鄭が辞退して立ち消え。

⇒一方で、趙鞅の子の趙襄が、呉王夫差と父趙鞅は同盟しているが「呉王は乱暴で中原でも嫌われている、越王が呉王を伐つなら協力する」と越に伝え、そして「晋は呉との黄池会盟を解消する」旨を呉に伝えた、と左伝は明記します。

⇒楚の葉公の動きが数年先行しています。この春では、子貢ら孔門志士派はまだ呉王夫差派のようですが、夏以降には呉を見限ったと見えます。晋も呉を見限って越に就いたようです。

⇒だから、子貢ら孔門志士派の呉王から越王への方針変更は、前475年の夏と見ていい。左伝に従えば、現実の呉王夫差への失望に加え、楚の葉公との連携・晋の趙襄(趙鞅の子、足元で知伯がのし上がってくる状況)の接近、があって、孔門志士派として方針を切り替えた。

⇒子貢の、五国調略④はこの前後でしょう。超外交官の子貢がおそらく魯の外交相の資格で越に入った・・越王は道を掃除し自ら御となって子貢を迎えた、というのも嘘ではない、と見ます。
前474年(子貢47歳、魯哀21、呉王22)5月初めて越人が魯を訪問。8月、斉・邾・魯で斉の地<顧>で同盟再確認(左伝)

⇒魯と越との外交関係が始まったことを左伝も明記します。

⇒前479年の孔子の死後、子貢は6年にわたり庵を結んでいたと世家はいいます。実態は孔子の遺志を継ぎ孔門志士派の中核にあって諸国工作を続けていた。ここに孔子が見込んだ呉王夫差をついに見限って越王勾践に乗り換えた、のです。

⇒8月斉・邾・魯の同盟再確認。ここで呉から越へ旗頭の切り替えが確認、これには楚も晋も異存ないことも報告された、でしょう。

⇒記事1548の「魯人の皐(とが)ある、数年覚らず、我をして高踏せしむ、ただそれ儒書、もって二国の憂いを為す」=「魯人之皐、数年不覚、使我高踏、唯其儒書、以為二国憂」もこのときの歌でした。ずばりです。「孔子呉王夫差を立てて動いた、あれあれ今度は越王勾践を立てて動こうというのか。孔子が死んで5年もたつのに、中華和平だ周秩序復興だ、と高踏的な理想を追って、斉と魯の2カ国を右に左にと憂え迷わせる。諦め悪いな、罪作りな連中だな、孔門志士派は。」です。
前473年(子貢48歳、魯哀22、呉王23)、越王勾践がついに呉王夫差を破る、夫差自害、呉滅亡。このあと、越王は北上し徐州会盟(晋・斉・魯など)、周王からヒモロギと侯名を賜る。史記

⇒すべて子貢の五国調略どおりです。大義名分は中華のための和平であり周朝尊王です。越王がどこまで本気だったかはともかく、大義名分は大義名分、晋・斉と会盟し中華和平を宣し、周朝を貴ぶ(尊王)ことですから、演出とおりに行動した・・。こんな時代に、こんな理想を掲げてまじめにやれるのは孔門しかないでしょう、楚も越も晋も斉もそんな古代的発想は絶対できなかった、とみます。
⇒このとき子貢は、魯公のそばか、周王朝代理人のそばか、それとも越王のそばにいたものか・・いずれにせよ徐州会盟がなり越王が「淮水の地方を楚に与え、呉が侵略した宋の地を宋に返し、魯には泗水の東、方百里の地を与えた」(史記越世家)ときには、(呉王夫差を裏切った後味の悪さはあっても)私利私欲に走らず、中華和平がなったという達成感はあった、とみる。
(つづく)

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