1554.子貢のその後、范蠡伝承とのダブリ

1554.子貢のその後 :2011/6/6(月) 午後 0:05作成分再掲。

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承前。子貢がその後どうなったものか、大きな関心のひとつ、です。

しかし、これについても、見事なほどに不透明。
獲麟か孔子の死あたりから、子貢は子贛(しこう)と書いてありますが、この贛はもや・煙霧の意味らしい。後世孔門学窓派の仕業というより子貢本人の改名、とみますが、文字通り、ますます不透明で韜晦的です。

司馬遷史記が「仲尼(孔子)弟子列伝」「貨殖伝」に書くから、古来、子貢は、「魯や衛の宰相にもなった」、「魯曹の間で売買し大もうけした」、「孔子が中華各国世界で有名になったのは子貢のおかげ」などいうが、いつどんな風にの具体的姿は、はっきりしない・・のです。

孔子の死(前479年)のあと、哀公27年(前468年)までの子貢については、rac的には前記事まで縷々想像しました。


要は・・何度でも繰り返しますが、

1)身は孔子の墓冢のそばに庵を結んで6年居た、

2)しかし実は孔門志士派のネットワークを引き継ぎ、中華和平と周朝秩序の回復を求めて、呉王夫差の支援を前475年ころまでは続け、その後越王勾践に乗り換えて、天道の地上での実現を計り続けた。

3)越王勾践は、徐州会盟まではともかく(逆に子貢ら孔門志士派は利用された)、その後は呉王の二の舞は拒否、自国第一大切主義で、呉王夫差のような天下布武し統一中華の夢を追うことはしなかった・・

4)子貢ら孔門志士派は、やむなく要求度合いを一段ひくめる。つまり、魯や衛の、有力大夫クラスを排除し諸侯が国を治めるという古典的周朝侯国の復活を目指す。魯公や衛公に提案すると共に、越王の助勢を求めた。少なくと魯哀公と衛出公はこの話に乗った。諸大夫との摩擦は激化、ついに国を出奔するまでになるが、越王および越国はいわばおざなりな対応。衛については出公の占拠地(城?)の割譲、魯哀公は越に身を寄せるがおそらく三桓の賄賂工作でことはならないままで終始する。

5)越王勾践に3)はもちろん4)もやる気がない、ことを子貢ら孔門志士派もはっきり認識、・・こうした中華革命的政治活動をついにやめてしまう。これが魯哀公越亡命(前468年)の後むなしく越で客死させてしまった(実際にはなにがあったものやら・・)、前467年のこと、

と思います。

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racの次の関心は、この後の、子貢、なのです。
子貢は孔子より31歳若いといいますから、前520年生まれ、魯哀公を空しく越で客死させたこのとき54歳、です。

・・子貢は、孔子が54歳の時には何をしていたか、思い返したことでしょう、後の儒家がいうように知天命や耳順などという穏やかなものではなかったことは子貢ははっきり知っています。孔子54歳は魯で三桓攻めを行うも季氏に裏切られ魯の宰相格をやめ衛の霊公に仕え始めるころ、でしかありません。この後、衛霊公につかえて悶々とするも、遂に呉王夫差を見込み孔門十哲を引きつれ南方陳蔡に乗り込むのは前493年ころ、孔子59~60歳のときです。子貢もまだまだ、一暴れも二暴れも、と思ったに違いない・・


ここでまた、連想のrac奇説珍説なのですが、

結論的には、越の范蠡の後半生の話と伝わる多くは、そのまま子貢のものだったのではないか、と思うのです

これも証拠はありません。同じ年にビルゲーツがウォレンバフェトが、あるいは松下幸之助トヨタ某がそろって二人現れるか、というようなものです・・現代にも等しい春秋の混乱戦乱時ならあるとも言えそうだしそこまではありそうもないとも言える。

 

范蠡について・・
范蠡については、史記の越王勾践世家が詳しい、司馬遷は同世家の最後部分は、范蠡の記述にかなりの文字数を投じています。・・正直言うと、孔子弟子列伝で子貢については五国調略の話だけを書く、そして越王勾践世家の〆には越王のことではなく范蠡にバランスを失して書く。この二人に、変なところで変なことを尋常でない力の入れ方で書く、司馬遷の筆が、妙に印象的なのです。

つまり、史記では、越王に絶望した賢謀臣=范蠡
「狡兎死して走狗烹られ、蜚(=飛)鳥尽きて良弓蔵(かく)る」(狡賢い兎が死ねば猟犬は煮て食われてしまい、飛ぶ鳥がいなくなれば良い弓は仕舞われてしまう)と越王勾践を見限って去っていく。これがどんぴしゃ、子貢が越を去る、前468年ごろ、なのです。

そして范蠡は、この後、

「斉で鴟夷子皮(しいしひ)と名前を変えて商売を行い、巨万の富を得た。范蠡の名を聞いた斉は范蠡を宰相にしたいと迎えに来るが、范蠡は名が上がり過ぎるのは不幸の元だと財産を全て他人に分け与えて去った。 斉を去った范蠡は、かつての曹の国都で、今は宋領となっている定陶(山東省陶県)に移り、陶朱公と名乗った。ここでも商売で大成功して、巨万の富を得た。老いてからは子供に店を譲って悠々自適の暮らしを送ったと言う」(ウィキ范蠡より)

まさに、子貢の伝説と、相当ダブルのです。巨万の富、斉で暮らした、宰相にといわれる、・・。

言うまでもなく、子貢(rac説の)も范蠡(通説)も、人生の前半は、戦乱に明け暮れ、国際政治軍事の陰謀術策の仕掛け人、智謀で忠義のひとでもあります。最後の最後に越王勾践を見限ることも、rac描く子貢と同じ、こうまで仕えてなお疑うか、という気持ちは一緒です。
「越王の容貌は長頸烏喙(首が長くて口がくちばしのようにとがっている)です。こういう人相の人は苦難を共にできても、歓楽はともにできないのです。どうして貴方は越から逃げ出さないのですか」と、同輩の大夫種(しょう)に言ったという(なお種はぐずぐずしていて、越王勾践に殺されます)、忠義を言っても死ぬまで仕える忠義ではないところもよく似ている、のです。


決定的なのは、いくつかあって、
1)年齢です。范蠡は前526~前454年、という説もあるようですが、越王勾践の父允常に名参謀として仕えていたように書きますから、むしろ、孔子の世代にちかい。前468年ころからもう一度頑張るには、ややお年。・・この点は、子貢の方が有利という気がする。

2)子貢は若い時から孔子に叱られるほどの金儲け上手です。金儲けが好きだったのははっきりしている。・・范蠡にそういう節はない、のです。

3)顔の広さ、です。子貢は超外交官として、各地各国に誼があります・・若い時から相当動き回っている。これに比べると、范蠡はどうにも南方越の田舎もの。謀臣ではあったらしいが各国動き回ったとか外交官的伝承は少ない(外交は大夫種担当)。足元を固めろと何度も繰り返す姿はどう見ても地元保守派、です。そうなると、ここも、范蠡らしいというよりは子貢が相応しい、のです。

4)司馬遷は、范蠡を列伝では起していない。呉の伍子胥孫武も列伝があります、しかし驚くべきことに范蠡はない。何度もはやる越王を自制させ、越王を覇者にし(伍子胥孫武も途中で死ぬか抜けるかしていますから覇者を出した参謀ではないです)、そして大金持ちになったなら、これこそ列伝ものです。しかし、司馬遷は列伝を起さなかった。子貢を「孔子弟子列伝」と「貨殖伝」に書いたと同様に、范蠡を「越王勾践世家」と「貨殖伝」に書いた。・・司馬遷もなにか気付いていたのかもしれません(笑い)。


結論を言うと、
子貢に大金持ちでハッピーエンド?の事実が間違いなくあった。范蠡は上記名台詞を残して越を去ったが(案外本当は子貢のセリフかもしれません)、暮らしに困るようなことはけちの越王もせず、先進国斉で豊かで穏やかな晩年を暮らしたのは事実。しかし、子貢について、ハッピエンドではまずいとおもった、孔門学窓派が、子貢のお金持ちや大出世のお話をすべて范蠡の方に化体して伝えた。子貢は従ってよく見えないままになった。要すれば、孔門学窓派の子貢へのやっかみ。孔子に最も愛され貢献も絶大、そして金儲けも何でもできた、そして最後に、騙したように魯公を越で客死させてしまったという唯一の汚点を持つ、輝ける子貢への嫉妬なのです。(孔門学窓派はいうまでもなく文書工作は得意です、子貢や范蠡は情報操作や諜報謀略はやってもこせこせした文書工作など関心もなく好きでもないでしょう)

(つづく)
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