1559.子貢年表(下)

1559.子貢年表(下) :2011/6/9(木) 午後 1:03作成分再掲。

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子貢年表(下)、です。
子貢は前520~446?年、呉滅亡と徐州会盟の前473年は子貢は働き盛りの48歳です。
⇒「史記越王世家」では、この徐州会盟で斉・宋・魯に土地を分け与え覇王といわれたの後の記事は有名な、「蜚鳥盡,良弓藏;狡兔死,走狗烹。越王為人長頸鳥喙,可與共患難,不可與共樂。子何不去?」(飛鳥が尽きれば良弓は蔵にしまわれ、狡猾な兎が死ねば走狗は煮らる。越王のひととなり、首が長く鳥くちばし、このタイプは艱難を共にできても楽を共にはできない。なぜにわが同士外交官種(しょう)よ、貴兄は辞去しないのか?)といって范蠡は越王勾践の下を去った、案の定種は死を賜った、という話をした後、この後の越王勾践には関心を示さず、勾践が死んだ(前465年)以降の話に飛びます。そして范蠡の話を長々とする、その冒頭は艱難をともにできても安楽はともにできない勾践を見限って・・で再度始まる。つまり、

范蠡范蠡を書いた司馬遷も越王勾践は、中華和平や周王朝のために、何かできる男ではないと繰り返し言っている
のです。・・これは子貢の言葉ではないか、とさえ思います。

だから、ここも孔子の言うとおり「左伝」しかない・・子貢の影、については「左伝」で既に見ました・・繰り返し以下に転記します。
前471年(子貢50歳、魯哀公24年)閏月、哀公が越に行く。越は哀公に越の公女を娶わせて土地を多く与えようとするが、季孫(季康子)ら賄賂をいれて阻止。

前470年(子貢51歳、衛出公復位7年)衛出公輒が反乱にあい、城鉏(じょうしょ、衛の一部らしい)を占拠

前469年(子貢52歳、魯哀公26年、衛悼公元年)夏5月、魯の叔孫舒(文子)が軍を率い、越の将軍達と会して、衛公を国に戻そうとする。衛国内でも賛否両論、反対派が勝って「越の人に沢山の賂を送って」、軍門をすべて開けるという奇策をとり、結局、衛出公は恐れて衛に入らなかった。衛では、悼公(出公の庶弟とも霊公の末子とも)を立てて、前出公のいる城鉏は越に割譲した。出公はこのまま越で死んだ(前469年?)同年、出公は城鉏から使者を子貢にやり、弓を贈り物にして問わせた「自分(出公)は国に帰れるだろうか?」子貢は稽首して弓を受け答えて「分かりません」と。そして子貢その使者に曰く「(古例をあげて)国に迎える家臣があるか、国外でも助けてくれる家臣がいればいいが、(出公の場合)手立てがなさそう。詩に強きは人を得るにある、天下もなびく、というから国一つくらいいうまでもないのだが」と。

前468年(子貢53歳、魯哀公27年、衛悼公2年)、春、越王勾践が大夫后庸を魯に派遣して、邾の土地を邾に返還するよう要求。2月に哀公は三桓とともに后庸と(魯の)平陽で盟す。季康子は(越など夷と不利な盟を結ばねばならないことを嫌がって)病気になった。季「子貢がいてくれればこんなことにならないのに」。孟「その通り、なぜ召さないのか」。季「もとより呼ぶつもりだった」。叔孫「後日になってもお忘れなきよう」と。夏4月季康子死んだが、哀公は常より低い礼でおくった。

前468年(子貢53歳)、哀公は三桓の侈(おご)るを患え、諸侯の力でこれを排除しようとした。三桓も哀公の妄を患え、君臣の間が多かった。公が孟武伯に尋ねて「自分は無事に死ねるだろうか」と。答えて「よく分からない」と、公は三度問うたが答えず。ついに哀公は越に頼んで三桓を排除しようと、公孫有山(=子貢、と疑います)を頼って、?から越に行った。魯の国人は公孫有山のせいとした。

⇒以上、魯の哀公にせよ、衛の出公にせよ、これまでになく意欲的活発になり、有力大夫たちと対抗し、越の力をかりて有力大夫を排そうとしています。・・これを子貢ら孔門志士派の最後の正道?正統?政治復活のための努力である、と見ました。現伝左伝でははっきりしませんが、哀公も出公も越というより子貢を当てにしていたように読めます。

⇒理想実現のために粘る諦めない子貢たちですから、越王への要求水準を下げて、

諸国の諸侯が諸侯らしくなれるように、私利私欲と下克上の大夫クラスを排除することに、協力するよう求めた・・越王もならいいよ、位のことは言ったのでしょう。そういう事情でもないと、頼りないはずの哀公や出公がここで勢いづく理由が見当たらない、のです。
⇒だが、現実、残念ながら、越王勾践は、これにも答えなかった・・司馬遷范蠡にその理由を冒頭どおり語らせます。楽をともにできない男なのです。・・左伝は大夫たちの賄賂や割譲によって、越を抱きこんだから、と書きます。

⇒越王がこうとはっきりしたから、晋も斉も宋も元の木阿弥です。みんな私利私欲の世界に戻っていった。子貢らは越王にもねじ込んだと信ずるが、越王は呉王夫差ではなかった、お茶を濁すようなことはしてくれたが、本当のところは、諸侯のためにも天下のためにも何もしてくれなかった。

⇒そして最後は愛する郷土の魯哀公も衛出公も国をでたままむなしく越の地で客死させてしまった・・流石に子貢もこたえた、と思う。

ここでようやく子貢は諦める。そして、改めて、子貢には、孔子の人物眼や歴史眼の正確さが分かったのだと思います・・だから子貢がなぜにあんなにも孔子を偉大な人といい続けるのか、も、よく分かるのです。

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⇒このままでは子貢が少しかわいそうなので(笑)、この後は、范蠡の後半生として書かれた多くが子貢のものであったという、あまり根拠のない(笑)前提で、続けます(史記、越世家と貨殖伝より)。
前467年(子貢54歳、范蠡60歳?)魯哀公が越で客死。これを見届けて、斉に移り、鴟夷子皮(しいしひ)と名を変えて、財を成す。

范蠡が越を去るのが前468年ころ、とか。子貢は越にいたかどうか不確かですが、前468年には魯哀公が越に出奔したことは左伝にあり、当時子貢は越にいたかあるいは魯公に従って越に入った、と見ます=左伝のいう公孫有山はもともと子貢のことで、自責もあって子貢は「子貢と記し魯の人々に責められた」という文章で、春秋子貢伝、は終わっていた、追って、春秋原左伝編集の孔門学窓派が公孫云々に書き換えたと想像しました。

魯哀公は前467年には客死したので、これを見送ってから、前467年には、斉に移った、とみます。

史記越世家は「范蠡は一族挙げて海路斉へ向かってまず海辺を耕作した」とあります。海路や耕すというのは、確かに子貢らしくはありません。

⇒「鴟夷子皮」と名を変えたとあります。子貢は孔子の死後一度子贛(コウ=もや・煙霧=でいかにもそれらしいでしょう)と名を変えた前科があります。「鴟夷子皮」も変わった名前で、馬の皮袋のことらしい。自由自在の意味もあるらしいが、伍子胥が夫差から死を賜り罪人として江に捨てられたのが鴟夷に包んでだった、とか。この名は、それを悼み自らを責めています。范蠡が絶世の美女西施を夫差に送りあるいは伯 嚭(はくひ)に賄賂を送って、夫差と伍子胥を反間の策に落としたことになっていますので、范蠡の変名でもおかしくはない、のです。が、このシリーズでは、むしろ孔子子貢ら孔門志士派(中原重視派)が地元重視派の伍子胥を排除した可能性をみますので、子貢の変名、しかも自らを罪しての伍子胥への詫び、なにより、呉王夫差の足を引っ張ったことになったのも名軍師伍子胥を排したからとの子貢なりの反省、もあったとして相応しい。范蠡の変名というより、ここも子貢に相応しい。
前464年ころ(子貢57歳)斉の宰相に推されるも不吉として印綬を返し財を散じ人々に分ける。

前461年ころ(子貢60歳)斉の陶(旧曹)に移住してまたまた財を成す。陶朱公と称される。次男が楚で死罪、長男に大金を持たせて贖せようとするが長男が金を惜しんで失敗。長男はお金の苦労を知っているで不適格、陶で生まれた末子なら金を惜しむことなく失敗することはなかったろう、と陶朱公。

⇒楚王まで登場します、寓意のよくわからないお話です。陶で末子ができた、といいます。60歳過ぎでできたものか(ここも子貢が有利です笑)、しかも、その末子が楚にいって交渉できる年齢だったといいますから15歳+α、でしょう。
前446年ころ(子貢75歳)三度ところを変えいずれでも財を成し名声を得て、陶で天寿を全うして死んだ。

范蠡の場合は、越・斉・陶の三回でしょう。子貢なら現役時代・斉・陶、です。

⇒なお、史記貨殖伝にある、子貢の金儲けの話は、魯と曹の間の売買で稼いだとあり、曹は前487年に宋に滅ぼされた国で、子貢現役時代のお話です(・・孔門志士派の全国ネットワークを維持するためにも子貢の稼ぎが大事だったことは既述)。そして陶はこの曹の元都でもあり、范蠡に申し訳ないが)老後陶朱公だったのはやはり子貢、にしておきたい(笑い)。

⇒同貨殖伝の范蠡のところには、19年間で3度千金を2度人に散じたとあり、越を去ってから亡くなるまで19年+α、そんなものなのでしょう。
(子貢年表おしまい)

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