1548.魯と越との交流と子貢の影 (下)

1548.魯と越との交流と子貢の影 (下) :2011/6/3(金) 午前 11:34作成分再掲。

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承前。

もう一点、表題「魯越の交流と子貢の影」関連で気になることをメモっておきます。

前記事の①「哀公21年(前474年)夏5月、越人初めて魯に来る」のすぐあとの左伝の記事です。

「秋8月、魯公は斉公と邾子と顧(斉の地)に盟う」
「斉人、稽首を責める。因りてこれを歌いて曰く「魯人の皐(とが)ある、数年覚らず、我をして高踏せしむ、ただそれ儒書、もって二国の憂いを為す」と。」


通説的には、「稽首を責める」と左伝説明のとおり、4年前(哀公17年)の斉公と魯公の会合時に斉公が頭を擦り付ける挨拶をしたのに、魯公は(頭をつけての礼は周天子に対するのみの礼であるとして、諸侯間の)通常の礼で返した、この斉への非礼のことをさす、とされます。

したがって、「魯人の犯せる罪よ、数年もの間、それを覚らずして我等を憤激させる。魯の人はただ儒家の書をよりどころにして、われわれ2カ国(斉と邾)に難儀を掛けさせる」と(鎌田さん明治書院本)。


・・記事は続いて、この顧の盟の際、魯公は予定より早くつき、斉のひとが斉公に早馬を飛ばしますまた準備が整っていないのでご不便をかけますという詫びに対し、哀公はいやいや自分が早く着いただけで斉の家来達に迷惑を掛けたくない、と辞退した、という一抹を付け加えます。


どうでしょうか?
⇒⑧「これを歌いて曰く」は、人々の間での噂歌(竹内さん平凡社本の説も)であり、ですからこの意味は左伝が主張する4年前の稽首についてではなく、もっと事情通にはひろく知られたことで、

「魯人の皐(とが)ある、数年覚らず、我をして高踏せしむ、ただそれ儒書、もって二国の憂いを為す」=「魯人之皐、数年不覚、使我高踏、唯其儒書、以為二国憂」
とは
孔子が死んで何年もたつというのに、まだ高い理想(周朝下での中華天下和平)を追い求めて、邾をどうせよ、斉はどうせよ、呉はダメで越に乗り換えようなど、誘いにやってきて、魯国と斉国を憂え惑わせる。その中心は亡き魯人孔子の影響下に今なおある子貢ら孔門志士派。あきらめ悪いなああ、罪作りな連中だなあ。」という所でしょう。

理由はいくつもありますが、まあ、「邾子」ですから斉に亡命中でこのあと越に亡命先を変える父公のことです、だから「二国」は邾と斉ではなく、魯と斉でしょう。「魯人」は孔子ないし孔門です。「高踏」を憤激(鎌田さん本)や足踏み(竹内さん本)と読むよりは今の日本語でも同様の、高い理想を掲げて人を寄せ付けず孤立するニュアンス、でいいのでは、と思うのです。

⇒⑨4年前に周朝尊重の礼法を実践したり、あるいは、珍しく顧では奥ゆかしい謙譲をみせたり、この辺は魯公のお付には子貢がいたからだ、とするとより合点がいきます。まさにこのころ、子貢は(外交のための)宰相格で魯国にいたのでしょう。

(越国に赴いて越王勾践から厚くもてなされたのは、この頃の魯の宰相格としての子貢だったとすると、五国調略の越王との対面もすんなり嵌ります(記事1527)。史記は子貢は孔子の死後6年間、墓のそばで庵を結んでいたともいいますから魯には間違いなくいた、そうしてあたかも孔子が乗り移ったかのように上記斉との会合や越王勾践調略など決定的な場面では魯(衛)の宰相格で積極的に動いたこともあった、と想像します。

(つづく)

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