1547.魯と越との交流と子貢の影

1547.魯と越との交流と子貢の影:2011/6/2(木) 午後 0:49作成分再掲。

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承前。

⇒それでも左伝の頭隠して尻隠さず、間違っても魯の記録ですから、魯の越との交流は書かない訳には行かなかったようで・・以下、すべて「左伝」の記事です。


①前474年(哀公21年)夏5月、越人、始(=初)めて来る。

②前473年(哀公22年)夏4月、邾子(父)が斉から越に奔り(=亡命先を変え)「呉は無道にして父を捕らえて子を立てた。」と。越は邾子(父)を邾に帰し、その子(=それまでの邾公)は越が捕えた(=預かった、引き取った)。

③前472年(哀公23年)秋8月、(魯の)叔青が越に行く、初めて越への使者である。越の諸鞅を来聘。叔青に報いてである。

④前471年(哀公24年)閏月、哀公が越に行く。太子適郢(越王勾践の子)は哀公に越の公女を娶わせて土地を多く与えようとした。(魯の)公孫有山はこれを季孫(季康子)に通報させ、季孫は恐れて大宰伯?に賂をいれたのでこの話はなくなった。

 

⑤前470年(哀公25年)6月、哀公が越から魯に帰る。季康子・孟武伯ら五梧(地名)にまで出迎えた。公の下僕の郭重が「季も孟も哀公の悪口を言っていました、何とかされたらいい」と(公に告げ口)。公は五梧で宴会、孟が郭をそしって「太ったな」と。季「自分達は敵国があって公のお供をできなかったが、公と共に長旅した郭をそしるような孟には罰杯を飲ませてください」と。哀公「郭は言を食う(=嘘を言う(鎌田さん説)、らしい)から太るのだ」と。みんな酒を飲んでも楽しくなかった。哀公と大夫たちの間も初めて悪くなった。」


⑥前468年(哀公27年)、春、越王勾践が大夫后庸を魯に派遣して、?の土地を?に返還するよう要求。2月に哀公は三桓とともに后庸と(魯の)平陽で盟す。季康子は(越など夷と不利な盟を結ばねばならないことを嫌がって)病気になった。季「子貢がいてくれればこんなことにならないのに」。孟「その通り、なぜ召さないのか」。季「もとより呼ぶつもりだった」。叔孫「後日になってもお忘れなきよう」と。夏4月季康子死んだが、哀公は常より低い礼でおくった。


⑦前468年(哀公27年)、哀公は三桓の侈(おご)るを患え、諸侯の力でこれを排除しようとした。三桓も哀公の妄を患え、君臣の間が多かった。公が孟武伯に尋ねて「自分は無事に死ねるだろうか」と。答えて「よく分からない」と、公は三度問うたが答えず。ついに哀公は越に頼んで三桓を排除しようと、公孫有山を頼って、?から越に行った。魯の国人は公孫有山のせいとした。

(以上、左伝、鎌田正さん本、春秋4、明治書院より。要約文責rac)

 

⇒少し捕捉コメしておきます。
①前474年5月とは、呉滅亡の1年半前です。魯も含めておそらく呉の包囲網がこのころにはできたと見ていいでしょう。子貢ら孔門志士派は完全に、呉王夫差から越王勾践、に乗り換えた証、と見ます。

②呉滅亡の半年前です。邾は魅力的な土地だったのか魯季氏は常に確保したがり、喉にささった小骨のようです。ここに、(呉に代わって)越の意向が反映されたということは、魯・斉・邾と越の同盟がなったのでしょう・・魯の季氏の意向ではなく、大所高所にたった、子貢あたりの仕掛け、と読みます。


③前472年とは、越王勾践の徐州会盟の翌年です。叔青といいますから、三桓や大夫たちというより哀公の親族オジさんなのでしょう。越との外交関係は初めてと左伝はわざわざ言います。

④前471年には、哀公自らが越に出向いた、といいます。越公女を多額の持参金つきで娶わせようとしたと。越の太子の意向といいますが越王勾践も承知のことでしょう、露骨な哀公囲い込みです。三桓はあせり懼れて、大宰伯嚭(呉王夫差の宰相で越王がその不忠をとがめて誅したはずですが、左伝は生きて越にいたといいます、賄賂の相手方です)に賄賂して話を消した、とします。

⑤半年ほどで哀公は越から帰ってきたようです。

 

ですが、どういうつもりで五梧の宴会のはなしを左伝は紹介するのか?・・告げ口する従者(といっても大夫クラスなのでしょう)も従者、三桓(=このときは季康子・孟武伯・叔孫文子)も三桓、哀公も哀公・・どうしようもない話です。

左伝の筆者は三桓はもちろんですが哀公のことも尊敬もせず大事にも思ってはいません。・・厳しくいうのを春秋の筆法というらしいが、これはそれ以前、語るに落ちる、逸話でしょう。・・ここにあるのは、これじゃ、もう世の中仕方ないね、というこの左伝の筆者なりの絶望、でしょうか?。

・・あるいは、です。言を食う、を、嘘を言うではなく・・哀公の悪口をいつも聞かされるから可哀想に郭はストレスで太るのだ、と哀公なりに郭のために言い返したのだとすれば、哀公はそれなりに一矢を報いた、のかもしれません。


⑥前468年で、三桓が越との邾をめぐる不利な取り決めの時、子貢の名を出しています。子貢は、この前後、魯に仕えていたのでしょうか?想像ですが、子貢は哀公(=周朝諸侯の立場だから、にすぎないでしょう)を支持、三桓(=周朝では所詮陪臣)には肩入れせず、対立しがちだった。ただし、その弁舌をフルに活かし、魯のために不利や不名誉な思いはさせなかった、という所でしょうか、そう読めば矛盾はありません。


⑦次の記事が、左伝の魯の最後の記事です。魯哀公の意向がここではっきり示されます、下克上で非礼で私利私欲の三桓を排除したいのです。公(=間違っても周体制の伝統ある諸侯です)の状況と思いは・・孔子が追従したらしい魯昭公の斉亡命、そして定公のもとで三桓征伐に乗り出した孔子の若い日々、と全く状況は同じ、なのです、すべて、元の木阿弥、戻ってしまった。

・・そして、最後哀公は越に助けてもらいたくて、公孫有山(はっきりしませんが、越に亡命・移住・駐在して魯対応窓口をやっているようにも見えます)を頼り、越にいった、として左伝は仕舞いです。
(つづく)

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