1550.楚の葉公のその後

1550.楚の葉公のその後 :2011/6/4(土) 午前 11:22作成分再掲。

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承前。春秋左伝の獲麟以降を何度も読み返していますが、やはり子貢あたりが「孔子を知りたければ春秋を見よ」との孔子の意を汲んで春秋孔子子貢版(仮称)を書き継いだもの、がもともとあった、と見るのがいい。それを後の儒教くさい人たちが「無慙に改竄」した;形や礼法ばかりで実に疎く、例えば越を野蛮で賄賂で転ぶようなやつらと軽蔑し、子貢ら孔門志士派の意思と行動を全く否定し、志士としての側面の孔子を平気で否定する。そういう立場のひとびとがオリジナルの「春秋孔子子貢版」の意図を韜晦していって、今日の春秋左伝に近いものに書き直していった。

 

なぜ全文抹消しなかったのか不思議なほどですが、その基本的な理由は、

孔門志士派の努力にもかかわらず、中華統一や和平はありえない=孔子子貢ら孔門志士派の高い理想と強烈な行動、にもかかわらず、「結局世の中は基本、何も変わらなかったじゃないか」という一世代下の現実を踏まえての強い思い=「諸国分裂のまま戦乱はつづき周朝はあって無きが如し諸侯らは下克上に遭い名門各国は簒奪され分断されあるいは滅亡していく。元の木阿弥だったでしょう。」という彼らなりの孔門志士派への批判、そして絶望を記したかったのだ、とやはり想像します。


そして、孔門学窓派というべき彼らの立場を一番好意的にいうなら、

「なんといっても人の心の根底が変わらねばダメ、それには人としての基本教育と礼儀作法が最も大事、これを徹底するのがはじめで終わり」というところ、でしょう。

春秋経もそうしたものとして読むべき、としていわゆる春秋の筆法などという学窓的な読み方に傾斜重点志向していく。これが今に伝わる「春秋左伝」なのです。

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しかし例外的に、オリジナルの雰囲気がそのまま残っているのかもと思わせる部分もあります。例えば論語にも3本残っている、楚の葉公(しょうこう)について。
(参考)葉公の三句 記事1514 

孔子や子貢はもともとの春秋伝に、おそらく好意的な内容で、呉王夫差と同盟し南方を安定化させ夫差の中原進出を支援する、そういう人として孔子は書いたでしょう。

子貢は孔子がなくなった前479年の4~5年後には旗頭を呉王夫差から越王勾践に切り換えた(前474年「哀公21年夏5月はじめて越人が魯に来た」(左伝)既述)が、

楚の葉公らとの好い関係は続き、楚はある時点で(呉から)越との同盟に切り替え、越の中原進出の邪魔をせぬよう、また葉公自身は祖国楚にあっては筋に違うような内乱はうまく鎮圧し、下克上など政治的野心は全くなく、王や群臣をすべて納まるべきところに納めさせた賢人、として書いた。
そしてこの部分はオリジナルに近い形で、現伝左伝にも残ったと見えるのです。大部分無慙に改竄変造された春秋孔子子貢伝(仮称)なのですが、葉公関連の記事は極めて例外的にオリジナルの雰囲気を残していると読めるのです。


まず現伝左伝より

①前479年(魯の哀公16年)楚の太子建は讒言されて、城父から逃げ、宋→鄭→晋と亡命し、晋と組んで鄭を侵そうとした。それがばれて鄭に殺されたが、その子、勝は呉に亡命していた。

楚の令尹(宰相)子西は勝を迎えようとしたが、葉公(子高)は「勝はうそつきで乱暴者ときくから楚のためにならない」と反対。しかし令尹は勝を(呉との国境に白に)迎え白公、とした。白公は父の仇の鄭を伐つというが楚は基礎固めの時期と反対される。白公は呉の慎攻めに同行して勝利しその軍を楚王恵王(昭王の越女との子)に見せたいとして入城、だが、反乱を起こし令尹子西・司馬子期らは殺し恵王を脅す=白公の乱。

 

②同年の記事。葉公は蔡にいたが、他の大夫たちを説得(「子西や子期がなければ楚は国になっていないかった」など)し動員して、都に入り白公を誅殺、恵王を確保する。葉公は一時は令尹と司馬を兼務するが、楚が安定したあとには、令尹を子西の子(寧)に、司馬を子期の子(寛)に譲り、自分は葉に引っ込んだ。


③前478年(哀公17年)陳攻め。恵王は大師と葉公に相談。将軍を誰にするか、大師は将軍を下から昇格をいうが、葉公は「将の身分が低いと兵が侮って従わない」と反対、葉公は子西の子(朝)を押し、恵王が卜して朝に決定。陳を滅ぼす。

 

④同年。令尹を誰にするか恵王は葉公と相談。王が卜して王弟の子良とでるが、後に改めて卜して令尹を子西の子(国)とする。


⑤前476年(哀公19年)春、越が楚を侵して呉を油断させる。司馬寛(子西の子)は追軍するが追いつかず。

 

⑥同年秋、葉公(=沈諸梁)は東夷を伐って三夷の男女と傲(人偏なし、ごう)で盟う。


これ以降、楚の記事は左伝にはありません。

(以上、竹内さん平凡社本より、要約文責rac

補足コメです。

①前479年は孔子が死んだ年です、その直後の記事です。

太子建と太子と書き、城父から逃げたとありますから呉とぶつかった城父の陣=昭王が子西ら庶弟に位を譲ろうとして次々断わられ変死したとき、でしょう、当時楚にはちゃんと太子がいたのです。rac説では子西・子期・葉公らの昭王暗殺(孔子孔門十哲も認知して)です。太子は宋と晋に逃げた、鄭を伐とうとして鄭で死んだというから、明らかに昭王と太子建は親晋だったのです。ここでもジグゾーは見事に埋まります(笑い)。

この子=勝=白公は呉にいたというから親呉かも知れませんが、鄭を伐つ(父親の仇だから)といい、子西や子期を殺していますから、親晋なのでしょう。

太子建の話は現伝左伝としては必然性なく、こういう国際感覚とネタ晴らし?は孔子や子貢の意図ではないか、それが残ってしまっている、と思えるのです。
(参考)楚昭王の変死 


②~⑥、左伝の意図は、楚について書きたいというより、葉公を称えたいだけのようにみえます。見事なほどに、葉公中心の記事ばかりなのです。白公の乱を見事に収め、令尹・司馬を兼務し恵王(まだ子供でしょう)の傍で絶大な立場で居ながら、下克上などもせず亡き功労者子西と子期の子達に令尹司馬を継がせ、ささっと田舎に引っ込む。ここも、孔子や子貢の孔門志士派の葉公への好意が根っこにある。

そして、このスマートぶりは子貢らのみならず、反子貢の孔門学窓派(=後の帝国体制身分秩序封建派でもあります)も、問題なく歓迎するところ。・・だから子貢版春秋のまますんなり今に残った、とみえるのです。


⑤の「呉を油断させる」=「越人侵楚、以誤呉也」は興味深い記事です。この通りなら、この時点=前476年で、楚は呉との同盟を破って越との同盟に切り替えていたことになります。孔子死亡の3年後、呉の滅亡の3年前です。世の読み方については子貢らより葉公らが1~2年早かった可能性もあります。

(上記どおり、左伝が、魯に越人がはじめてきたとするのは前474年ですから)だとすると葉公あたりが仲が良かった子貢ら孔門志士派を動かして呉から越に旗頭を変えるように言い始めるのかもしれません、葉公にとっては呉越相闘って疲弊し呉に続き越も中原に関心を向けてくれれば楚にとってはもっともありがたいシナリオですから。

 

⑥楚の葉公が東夷を伐つのは、この時期なら呉も公認・越も公認というところでしょうが、傲の盟とは中身は難だったものか?

なお、三夷の男女とわざわざ女が入っているのはいくつかの東夷の集団相手でなかには女王(女酋)がいたと古来読むようです、賛成です。

 

左伝はこのあと沈黙ですが、さらに後の歴史を言えば、前447年には楚が蔡を滅し、前465年越王勾践は畳の上で死ぬものの勾践6世の孫の時代、前334年には越はついに楚に滅ぼされます。孔子と呉越の黄金時代を生き延び、戦国時代は南国の雄として生き延び、最後は項羽と劉邦の楚漢戦争まで楚は続いたわけです。論語に3度も出てくる葉公のような名臣が古く孔子の時代からいたからということでしょう。
(つづく)

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