1555.孔子年表 (上)

1555.孔子年表 (上):2011/6/6(月) 午後 1:42作成分再掲。

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孔子年表、をまとめます、前半部分は通説とは変わりません。しかし縷々書いてきたとおり、

14年に及ぶ諸国遊説は、殆ど間違い・・活発な中華中原和平と周朝秩序回復のための、積極的国際政治活動をおこなっていたのが、前493年以降、最晩年まで。この前提で、みると、よく分かる部分が沢山あります。

②年表的に、通説がもう少し考えていいと思うのは、魯や衛の大きな葬儀には、孔子らは必ず参加したと見るべき、こと。孔子らの活動の三分の一か四分の一は冠婚葬祭屋です。そんな彼等が少しでも世話になった先でちょっと嫌なことをいわれたからと言って子供ではあるまいに翌日出奔するなどということはなく、たとえば亡くなれば数ヶ月等定められた喪も務めて(少なくとも魯や衛の)公や有力大夫の正式葬儀にはできるだけ出た、と見るべきです。そう前提すると、孔子らの行動表にも結構「たが」が嵌ってきます。

③むしろ書きたいのは子貢の年表ですが、これはごっちゃにせずに、別記事にします。

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基本は、史記孔子世家ほか)と現伝春秋左伝、によります。⇒racコメ。


前551年(1歳)、孔子生まれる、魯国鄒邑、母は顔氏女、父は不明。

⇒シングルマザーで父の墓も長く知らず葬式の真似事をしたというから、ファザコンで礼法コンプレクスの可能性大。
前535年(17歳)ころ、士を招いた季氏の宴会に出席しようとするも季氏家宰陽虎に追い返される。

⇒勉強好きで優秀、身体も大柄で見るからに父親が誰であるのか分かった可能性あり。但し貧しく名門でもなかったでしょう。
前530~520年(20代)、孟氏父の遺言?で、息子達=懿子と南宮敬叔の兄弟の知遇をえる。魯国政府に就職、倉庫係りや家畜係りをして実績を上げる。その結果、魯公のスポンサーシップで南宮敬叔と共に周に遊学。

⇒周で老子に学んだとは信じない。周だけかはどうかは不明。孔子20歳代、若い公子や大夫の子供達を引率して諸国勉強の機会はあった、とみる。すでに私塾を持っていた。
前522年(30歳、魯昭公20年)、斉景公が晏嬰とともに魯を訪問、孔子も斉公に見え(儒家的とはいえないフツーの会話で)斉公の気に入られる。

⇒弊記事1490
前517年(35歳、魯昭公25年)、鶏闘でもめ季氏ら三桓(季・孟・叔孫氏)に圧され、魯昭公は斉に亡命。付従うように孔子も斉に入る。

孔子は斉の大夫某に仕える。魯昭公は亡命中という事態ながら魯公に直接仕えることもできない低い身分らしい。

⇒斉で楽を学ぶ。(韶=舜の音楽をきいて三月肉の味を知らず、また襄氏から楽を学ぶのも当時人物が集まっていたはずの斉でのことと考えます、記事1506はこの限りで未修正ですが訂正します)

⇒斉景公に認められ季氏並とは行かないが厚遇しようとの誘いもあるが、晏嬰はじめ斉家臣たちの反対で実現せず(要するに儒家は実際的でなく役に立たない、と。なお景公が評価したのも儒の面ではないと読みます)。また斉公は老いたと言い訳もしますが、斉景公は長期安定政権(在位548~490年)でこの後も27年公位にあり必ずしもあたりません。
前515年(37歳、魯昭27年)斉で危険を察知し、魯昭公を斉に残したまま、孔子は魯に引き上げる。

⇒このときの斉滞在は2年程度です。
前510年(42歳、魯昭32年)斉に亡命中の魯昭公が斉で死に、弟の定公が魯で立つ。

⇒権臣季平子の傀儡であった、とみられます。
前505年(47歳、魯定公5年)季平子が死んで季桓子があとを継ぎます、魯国第一の権臣ですが、三桓の他の二家、孟氏や叔孫氏も強力です。季桓子には、陽虎・仲梁懐・公山不狃の家臣があり、これまた仲たがい中、陽虎と懐が悪く不狃が中にはいっていたが、前505年秋、ついに陽虎は懐と懐を可愛がる桓子を排して、魯の政治を牛耳る。
このころ陽虎は孔子に出仕を勧めるが断って・・詩書礼楽に励む、弟子ますます増える。

前502年(50歳、魯定公8年)、陽虎と不狃が反乱し、三桓の嫡子を排そうとする。

前501年(51歳、魯定公9年)、陽虎は斉に亡命し、不狃は費にあって孔子を誘うが、行かなかった。

⇒陽虎や不狃に誘われて、孔子の気持ちは動いた節がありますが、筋を通そうという子路が止めます。・・これが魯定公の注意を引いたものと見ます。
前500年(52歳、魯定公10年)、魯定公と斉景公が夾谷(斉の地)会見。孔子は魯公のお供(相)として斉の脅迫を斥ける。外交上の貢献。

前498年(54歳、魯定公12年)夏、三桓の勢力を削ぐべく、三桓居城を破壊。季氏費城・叔孫氏郈城は破壊するも孟氏咸城は残る。魯国政治体制上の貢献。定公は子路を季氏の家宰にし、叔孫氏郈城を破壊。季氏費城は下克上で公山不狃らが占拠しているので戦争になる。孔子らの活躍で勝利し、公山不狃らは斉に逃亡。孔子らは費城を破壊。が、孟氏成城は、その城主公斂処父が孟氏を動かし、「成は斉への備え、孟氏の支え」と主張し反対、定公自ら成を囲みますが、失敗。(~前497年(55歳、魯定公13年))

孔子(季桓子につぐ魯国第二の権臣である=大司寇)の指導でこの間、魯国治世安定国力増大・・。魯国民生治世上の貢献。

⇒弊記事1493。
前496年(56歳、魯定公14年)孔子は従来の司法大臣に宰相代行も兼務し「喜色あり」。門人曰く「聞く。君子、禍至りて懼れず、福至りて喜ばず、と」。孔子曰く「この言有り、「それ貴を以て人に下るを樂しむ」といわざるか」と。(以上、孔子世家)

⇒以上、弊記事1494。
前496年(56歳、魯定公14年、衛霊公39年)斉の女楽80人が送られ、定公と季桓子に裏切られ孔子が魯を追い出される

⇒この辺は、1~2年ずれの可能性があります。つまり、孔子が「喜色」あって魯国を統治する時代がもう少しあったのかもしれません。・・左伝系と世家系では少し違う。

⇒以上、弊記事1495~1499。

前496年(56歳、魯定公14年、衛霊公39年)魯の宰相代行を辞めて直後に衛にはいり、霊公や姦婦南子の覚えはよかったが、蒯聵の乱で誤解されて、衛を出奔。

前495年(57歳、魯定15、衛霊40年)晋の仏肸に招かれていたこともあって晋を目指すがこれまた子路が止め、匡で陽虎と間違われ囚われ、また、公叔氏の蒲に拠る衛への反乱に巻き込まれる。

⇒所謂匡の難・蒲の難です。衛霊公の最末年で跡目争いと共に衛周辺が不安定になった時期のこととみます。前496年春に公叔氏が衛に叛くことは左伝に明記あります。

⇒が、蒯聵の問題や魯出奔の経緯等衛の霊公の誤解も解けて、前495年末には魯定公の葬儀あり出席の上、

前495年末か前494年(58歳、魯哀公元年、衛霊公41年)には衛に戻る。霊公は郊外に厚く迎える。

前493年(59歳、魯哀公2年、衛霊公42年)孔子は衛に居る、霊公とはケミストリ合わないが、そのまま居て、前493年、夏、霊公死ぬ。その葬儀を見送った後、

前493年末か前492年(60歳、魯哀公3年、衛出公元年)孔子らは、陳蔡南方に向かう。彗星のごとく現れた呉王夫差に注目し始める(前494年、呉王夫差は越を夫椒会稽に破る)

⇒弊記事、1500~1503

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ここから後の約20年こそが、孔子や子貢ら孔門志士派には自信に溢れ最も輝ける20年だった、とみます。春秋孔子伝は前481年獲麟まで、そしてめげることなくこれを引き継いだ春秋子貢伝には前468年の魯哀公の衛への出奔まで、国際情勢を踏まえて彼等の考え方・行動・結果など多くのことが書き込んであった・・。しかし、後の孔門学窓派は無慙にもこの殆どをデリートした。だから、その400年後の司馬遷にさえ、そしていま2500年後のわれわれは司馬遷以上に、殆ど何も見えない。以下、いくつもの微細な残渣から復元したrac想像です。
(つづく)

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