1531.孔子(41)世家〆の淀みへの答え②

1531.孔子(41)世家〆の淀みへの答え② :2011/5/23(月) 午後 0:16作成分再掲。

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承前。

3)「君子は世を没して名が称えられないことをうれえる。吾が道が行われず、吾は何を自らを以って後世に於いて見るだろうか?」と。そして、孔子は春秋を編み、曰く「後世、わたしを知る者は春秋を以ってす、私を罪する者もまた春秋を以ってす」と。
この前に「孔子は自ら伯夷叔斉とも違う、柳下恵少連とも違う、虞仲夷逸とも違う」とも言います。伯叔の志高身清でもなく、柳少の志低め身を汚したでもなく、世を捨てた虞夷でもない。要すれば志し高く身を汚した=志し高くどっぷりと現実の世と戦った、と自ら明白に言っているのです。

が、前漢司馬遷ですら、これを明確には書き残せない。すでに帝国型官僚管理型人民管理型の儒教、大人しい学者肌の孔子像が定着していたからです。麒麟と見做した呉王は入れ墨の東夷の覇王、と評価は定着していたからです。

孔子は春秋に何某か、書いた、と司馬遷はみています。しかし、司馬遷の時代でさえ、春秋はすでにずたずた(断爛朝報)、誰が書いたか分からない論語(三種類程度)はあった(それでも現伝の春秋や論語よりマシだったとはみます)が、すでによくわからないものになっていた、と想像します。・・孔子の死後、かなり早いうちから孫弟子世代が孔子の「言行を取捨し偏ったもの書き換えた」からです。論語を作り、孔子伝の春秋に手を入れた・・。

それでも司馬遷は残っていた資料から「原」孔子と「原始」孔門を相当程度復元し「史記」に書いた。「孔子世家」は表門で配慮を重ねて書いた、しかしそれ以外のところをは注意深く読めば、司馬遷が描いた本当の孔子と仲間達の姿が分かるようには書いた。しかし大ぴらには書けなかった。

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4)孔子の死後・・子貢は庵を結んで死後6年そばにいた、と司馬遷は書きます。これは何か。どういう含意か?
司馬遷は「述而不作」と信じていますので、子貢が孔子の墓づかに庵を結んで6年いた(前479~473年)のは何らかの記録があったものと考えます。

 

3つくらい考えられます。
①たくさんの弟子の中でも、もっとも孔子を慕っていたのはやはり子貢であった、と主張したかった。まもなく死なんとする孔子に、曰く「賜(子貢)よ、汝(なんじ)はどうしてそんなに来るのが遅かったのか?」との記事を挿入する司馬遷です。この子弟のつながりはきわめて強かった。


②が、この世家〆部分でも、司馬遷は、子貢のやや不思議なセリフを挿入します。(少し前、怪力乱神を語らずの直後に、顔回の仰げば貴しみたいなセリフの直前の、子貢のセリフに)子貢曰く「先生の礼楽や法度は聞くことができた。先生の天道と性命の言葉は聞くことができていない。」と。つまり、子貢自身も納得できない宿題があった。で6年かけて孔子の考え方や展望、を再検討していた。本当に納得するのに6年かかった、と読むのです。

呉王夫差はもうだめだ、キリンは死んだ、天は我を見捨てた、という孔子の遺言(前479年)が、子貢には納得できなかった。まだまだ、呉王夫差はいける、と子貢は読んでいたのではないか。むしろ、このあとも、影に日向に、呉王夫差を守り立てようとした。かつて各地に巡らした諜報網は子貢が継承しており、子貢の5国調略はこの司令部とし子貢が張力業務を引き継いでいた。しかし、やはり孔子が見抜いたとおり、事態はうまく回ららず呉王の没落ははっきりしてきた。6年というのは丁度、前473年、越王勾践に呉王夫差は遂に破れ、夫差は自ら死を選び、呉が滅亡する年です。・・これを見極めるまで、孔子のシナリオが破れるのを目の前にするまで、子貢は、孔子の墓塚の横にいた。


③もう一つ想像をたくましくすれば・・子貢らも諦めずしたたかで、呉王夫差がダメでこけそうなら、越王勾践に乗り換えて中原に覇を唱えさせればいいと思って、・・子貢らはそういう自らのシナリオで動いたのかもしれない。が残る記録によれば、越王勾践は猜疑心が強く、中原にも興味なく(中原に進出することを恐れ、子貢が勧められた)諸侯会盟も南方徐州(前473年)でやるような男だった。こうして孔子が読んだとおり呉王夫差は余人を持っては代え難いことにはっきり気付いた。麒麟呉王夫差でしかありえないと納得した。6年経って孔子の先見性・人物評価の鋭さに気付いた。孔子の「天道と性命」に納得した。これに、6年かかった、とも見えるのです。

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あと、「易」のこと。ここも、易も取り込み間口を広げ神秘性を高めた前漢儒学への配慮とも直感しますが、易経の勉強をしてからの宿題とします。

(つづく)

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