1524.孔子(34):陳の楛矢

1524.孔子(34):陳の楛矢 :2011/5/17(火) 午前 10:41作成分再掲。

QT

承前。

(4)3年もいた陳での、論語および世家を通じて、陳王宮の唯一の記事です。司馬遷はどういう意味を認めて以下の「陳の楛矢」の逸話を採用したのか?
さすがの孔祥林さん本でも、孔子は陳では用いられなかったが孔子の物知りぶりは重宝された(要旨)、と書かれ、この記事を紹介します。・・今ひとつ説得力がありません。

まず、該当部分の和文をmirobiiさん、より、w/多謝。
http://blogs.yahoo.co.jp/mirobii/17800704.html
隼(鳥名 はやぶさ)が有り、陳の廷に集まりて死んだ。楛(=粗)矢がこれ(隼)を貫(つらぬ)き、石砮(石のやじり)で矢の長さは一尺と一咫(あた 親指と中指とを広げた長さ 約18センチ)有り。

陳湣公は使者をつかわし仲尼(孔子)に問わせた。

仲尼(孔子)曰く「隼(はやぶさ)は遠方から来たのでしょう。これは肅慎(しゅくしん)の矢です。むかし、周武王が商(殷)に勝ったとき、九夷、百蛮に道を通し、おのおのにその地方の財物を来貢せしめ、みつぎものを忘れること無からしめた。

ここにおいて肅慎は長さ一尺と一咫の石のやじりの楛矢を貢(みつ)いだ。先王はその令徳を昭(あきら)かにすることを欲し、肅慎の矢を以って大?に分け、虞の胡公に娶(めあ)わせてこれらを陳に封じた。

珍しい玉を以って同姓に分けるは、親を重んじる。遠方のみつぎものを以って異姓に分けるは服従を忘れること無からしめる。故(ゆえ)に陳に肅慎の矢を分けたのです」と。

試(こころ)みにこれ(肅慎の矢)を古い蔵(くら)に求めると、果たしてこれ(肅慎の矢)を得た。


⇒難しいところですが、racは以下のように読みます。

要すれば、
陳の王家は、もともと周の武王が、舜(=虞)の末裔に自分の娘を嫁がせ封じた国である。だから周王朝への服従を忘れてはならない。で、粛慎の楛矢=周武王の象徴、隼=陳宮廷のひとびと、とみて、周太伯(文王の伯父=武王の大伯父)の末裔たる呉王夫差に、陳の宮廷は亡ぼされることを、予兆したもの。呉王夫差の会稽山の戦い以降の勢いを見、陳(蔡)には上も下も人がいないとみている孔子ですから、予兆というよりは現実の比喩かもしれません。「隼は陳の廷に集まりて死んだ」*楛矢に串刺しで複数で死んでいた=陳の宮廷の人々は既に死に体、陳はまもなく呉によって滅ばされる、と見ていた。事実、圧倒的な力でこの後十数年は陳蔡は呉王夫差の属国です。

  *矢の長さは40cmほどで長くはありませんが、隼が集まって死んでいたというから複数、と読みます。遠くから来たというのは虞(舜)の後裔ですから遠くから陳に封じられてきた(ここでの虞は下の虞とは別の含みで周姫姓とは別姓)ということです。春秋によれば実際に陳が滅亡するのは、楚によって前478年ですが、孔子が生きている間(孔子の死は前479年)は呉が陳を支配していたように見えたでしょう。

・・呉王夫差は東夷日本人的な?変な?やさしさのある人で、結局越王勾践も殺さず(で後には殺される)陳蔡王家を圧倒しても根絶やしにした人ではない、ようです、この辺(=仁?)が、生前の孔子が夫差に王者の風格を見出したひとつ、なのかもしれません。

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以上、陳蔡関連で気になった点4点につき、つぶしました(記事1519)。正直、思った以上に収穫がありました。やはり急がずに・・一見細かいように見えてもやはり人智の詰まった豊かな古典群、微言大義、です・・一個一個みることは大事です(笑い)

(1)陳蔡の3年滞在とは?⇒全体の諸国遊説のイメージが固まりました。
(2)呉との交流の痕跡?⇒呉の在陳蔡隠密部隊、の確信が深まり、呉王夫差麒麟の仮説を得ました。
(3)宋の桓魋の難?⇒司馬牛が宋での草(隠密)だった確信を得ました。
(4)陳の粛慎の矢?⇒周王朝(=太伯の末裔たる呉王夫差)への服従を忘れるな、でしょう。

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なお、孔子が呉王家(=夫差?)を特別なものとみていたと司馬遷が考えていたことは、「史記・呉太伯世家」の末尾、太史公(=司馬遷)言う、の文章からも窺われます。
「太史公は言う。孔子の言葉に「太伯(=呉の先祖)は至徳というべし。三度天下をもって譲る(も)民得て称するなし」*とある。わたし(=司馬遷)は春秋の古文を読んで、中国の虞(=舜以降の正統である周王朝)と荊蛮の句呉(=呉国)が兄弟の国であることを知った。延陵の季子(=孔子の時代の少し前の呉の聖人)の仁は心に義を慕って窮まるところがなく、また兆しを見て事の清濁是非を知る。ああなんと博覧なことか。まことに博識の君子である。」この意味では司馬遷孔子(と呉の延陵の季子)の影響下にあり、そして、
司馬遷史記では、30ある世家の筆頭に、この呉太伯世家を持ってきます。以って銘ずべし。

論語泰伯の1、#186、またつい長くなりますが連想で↓

「子曰。泰伯其可謂至徳也已矣。三以天下讓。民無得而稱焉。」(論語泰伯の1、#186)
(試訳=孔子は言った、泰伯(=太伯)は至徳というべし。天下を得る機会があってもこれを固辞し、そのことを民は知らなかった。(これこそ至徳、なのだ))
孔子は、人に知られることはあまり気にしなかった人であることはあちこちに見えますが、

天下天道についても太伯こそ至徳=わざわざ民に知られなくていい、太伯の名前もそういうことがあったことも民は知らない、それでいい、それこそが徳の至り。ということはまあ隠密活動であっても、こと天下天道にかかわることはむしろ至徳、とみていたであろうことは、今回の文脈では、重視していい。

太伯(と虞仲の長男次男)は末弟(=周文王の父)に天下を譲るに当たって、あえて、東夷の黥面文身(げいめんぶんしん=顔にも身体にも入れ墨)断髪(短い髪)に身を窶(やつ)して辞した、ともいいます。・・このころの孔子一行は、呉王夫差を周武王にみたて、我等こそは身分卑しい隠密稼業も辞さない太伯(と虞仲)の徒党となぞらえていた・・のかもしれません。

もうくどいですが(笑い)、桓魋の難では、「道」ではなく「徳」であった、天の与えた徳、という言い方は、泰伯の至徳、の、徳、であった、・・これと表裏をなしている、とみえます。
推して知るべし。ジグゾーパズルは見事に埋まっていく・・

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次、本論の孔子世家に戻り、魯の百牢の馳走、子貢の活躍、
です。
(つづく)

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