1529.孔子(39)孔子世家の〆部分

1529.孔子(39)孔子世家の〆部分 :2011/5/22(日) 午前 10:29作成分再掲。

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司馬遷史記の「孔子世家」にしたがい孔子の一生を見てきましたが、世家はそろそろ終わります。世家は、孔子死までの衛魯での最後の10年間、はこれまた殆どふれないのです。前記事のあとは、

国老の礼を持って招請したにも拘らず、「魯はついに孔子を用いなかった、孔子もまた仕官を求めなかった。」とし、儒教的に最も孔子らしいと当時もその後もされる著名な決め台詞群を立て続けに並べます。

そして郷里にあっては恂々と穏やかでものも言えない者のようであったが魯の宗廟や朝廷では求められれば弁々と論じた、とし、いかにも学究と弟子育成にのみ、時間を費やしたように、司馬遷も書いています。

ですが、この部分は司馬遷当時の(そしてその後の多くの、帝国型曽子型人民管理色の強い)儒家や学者を安心させるための文章、であって、ある意味司馬遷の本当の気持ちは籠もっていないように見えるのです。

 

文章には緩急があります。・・儒教紋切り型の孔子像は急に走って流れよく書かれているのですが、ふと淀んで配慮してしかし激しいものを秘めて書いている部分が次々に挟まっている・・のです。


例えば、1)弟子3000人、高弟72人とあるあとで、「顔濁鄒のように相当程度まで成業したものも衆(=多、おお)かった」と司馬遷は書きます。・・引っかかるのです。顔濁鄒は子路の姉の夫で在衛中に寄寓したところではありそれなりの高官だったのでしょうが弟子の中では印象的な存在ではありません。顔濁鄒という恐らくおとなしい官僚型の人物をここであえて書く。(顔濁鄒は世家と孟子にはでてきますが、同じ司馬遷史記の「仲尼(孔子)弟子列伝」に名前はでてこない(ですよね?)、司馬遷的には本当を言えば弟子でさえないのです、矛盾があるのです。)


2)麒麟の発見の前後も大変含みのある文章です。・・何を言いたいのかわからない。孔子はともかく司馬遷が、です。まず顔回が出てくる、そして孔子が出てくくる、おって伯夷叔斉らが出てくる・・嘆きであり怨みの有無、が議論になったひとたちなのです。孔子本人はこんな順で麒麟を語った節はありません。司馬遷の連想なのです。

 

・・通常読まれる以上に、司馬遷のよどみは深いのです。
3)「人に知られる必要はないのだが、世が終わって名が称されないのは学の実が挙がらなかったことになる。わが道が後世行われねば」孔子の存在には意味がない。だから「春秋を作った。後世孔子を理解するものは春秋によってであり罪するものは春秋によって」と、司馬遷孔子自身に言わせます。これも良くわからない、のです。・・すくなくとも論語ではない。論語も見、沢山の儒家がすでにありがたがっていたはずの論語司馬遷は、こういう大事なところでは言及しないのです。

論語については司馬遷孔子の世界ではない、少なくともすべてではない、とみていた、ように感ずるのです。


4)孔子の死後弟子たちは3年喪し、さらに子貢は庵を結んで死後6年そばにいた、とも司馬遷は書きます。・・これは何か。子貢は、外交のプロ、大金持ちになり(司馬遷史記貨殖伝にも子貢を取り上げます)魯と衛の宰相にまでなったと子貢を書くわけで暇な人ではありません。・・司馬遷は何を言いたかったのか?


5)孔子世家最後の太史公曰く、も、ひときわいい、のです。「世の人すべてが孔子を軸に中正をきめる、至誠というべき」という〆の言葉はそれでいいのですが、

その直前孔子の生家を司馬遷は訪れ孔氏の書も読み「その人物を想見し、・・徘徊してとどまり立ち去ることが出来なかった」という、そのとき、司馬遷のうちに去来したものは何だったのか・・やはり文章以上の何かを思うのです。

 

6)備忘・・易のこと

いずれもむずかしいところなのですが、次記事以降、上記ひとつひとつ可能な範囲で書いてみます。

(つづく)

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