1552.獲麟後の晋の動き
1552.獲麟後の晋の動き:2011/6/5(日) 午後 0:39作成分再掲。
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承前。こうなってくると、敵性国の晋や宋の状況を現伝左伝で確認しておきたくなります。
宋については、司馬桓魋と司馬牛兄弟の話と将軍皇?の2本お話が軸になっています。司馬牛については取り上げましたし、皇?の話は略します。・・子貢がかいた「春秋子貢伝」はみごとなほど論語の登場人物ともダブります、論語と左伝の関係も面白そうですがこれは宿題とします。
晋についての、獲麟(前481年春)以降の記事を現伝左伝から
①前481年(哀公14年)秋、晋の趙鞅が衛を伐つ。
②前480年(哀公15年)秋、晋の趙鞅が衛を伐つ。
同冬、晋公が鄭を伐つ。
③前478年(哀公17年)晋が衛を伐つ。斉が救済に来る。晋の趙鞅「衛を伐つことは卜したが斉については卜していない」と引き揚げる。
④前475年(哀公20年)(呉が越にたびたび攻められるも晋は援軍を断わって)父趙鞅は黄池の会盟で呉王夫差と同盟したが、子の趙襄は趙鞅の喪中で役には立てない、と呉に申し入れる。
⑤前472年(哀公22年)夏6月、晋の荀瑶(じゅんよう=知伯)が斉を伐つ。
⑥前471年(哀公24年)夏、晋公が斉を伐つとして魯に援軍要請、魯は従って斉を責めるも詭弁で深入りを回避。
⑦前468年(哀公27年)晋の荀瑶が鄭を伐つ。斉が救援、荀瑶「鄭を伐つことは卜したが斉については卜していない」と引き揚げる。
⑧前464年(魯の哀公の子の悼公4年)晋の荀瑶が鄭を伐つ。その際、趙襄に先に入城を進めるが断わると、荀瑶(=知伯)は「趙鞅はこんなブオトコの趙襄を何故跡継ぎにしたのか」と。こうしたこともあり知伯は貪欲でも、やがて(前454年)、韓・魏氏も趙氏とともに知伯を滅ぼしたのである。
自明ですがコメしておくと
①②③前482年黄池の会盟で呉とも手打ちしたはずですが、晋の趙鞅のもとには??がいますから、衛を攻め続けついに??を衛公につけます(前479~478年)。子の出公は斉に逃れますが前476年には復位します、既述。
④左伝は前475年には趙鞅は亡くなっていたように言います、いずれにせよ、正式に呉との同盟は解消されたわけです。
⑤前472年には、晋の実力者は趙鞅から知伯に代わっていたように左伝は書きます。一時晋では知伯は趙鞅以上の権勢を得ますが、結局454年には趙・韓・魏氏に破れ、大国晋はこの3氏に分割されます。
そして、
この⑧の文章が、春秋左伝の最後の文章です。
(つづく)
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