1522.孔子(32):宋の桓魋の難 、の真実

1522.孔子(32):宋の桓魋の難 :2011/5/16(月) 午前 10:57作成分再掲。

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承前。

(3)宋の桓魋(かんたい)の難
については、
司馬遷孔子世家」は(曹から宋へ、要は)一回目陳に向かう途上、と明記します。いつかについては世家は前494年、最新の孔祥林さんは前492年、とされます。

そのメッセージは、「宋の司馬(軍司令官)の桓魋ごときに、孔子の運命は妨げられない」という孔子の強い自負を示すもの。「匡」や「陳蔡」での遭難などと同じで、強い使命感、を示すものとされます。

ここまではまあいいのです・・が、舞台装置など細部を気にしだすと、よく分からないことが多い、以下にrac疑問と結論(=rac新説珍説です、ご注意)をメモしておきます。

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①まず、世家のmirobiiさん和訳から、
http://blogs.yahoo.co.jp/mirobii/17800704.html
孔子は曹を去り宋におもむいた。弟子(でし)と礼を大樹(たいじゅ)の下で習(なら)った。宋の司馬の桓魋が孔子を殺すことを欲し、その樹(き)を引き抜(ぬ)いた。孔子は(宋を)去った。弟子(でし)曰く「急(いそ)ぐべきです」と。孔子曰く「天は徳をわたしに生(な)した。桓魋がわたしに何を及ぼせようか」と。」(世家)これに相当する論語の句は以下です。

「子曰、天生徳於予、桓魋其如予何。」 (論語述而の22、#170)
(試訳=孔子曰く「天は徳をわたしに生(な)した。桓魋がわたしに何を及ぼせようか」と。)

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②ですが、少なくとも3点気になるのです。

ⅰ)「桓魋は宋の司馬」です、春秋本文にも出てくる「大物」です、・・礼を大樹の下で習うのが気に入らない、など本当か?

ⅱ)「殺そうと欲した」のも、穏やかではありません、よほどのことです。

ⅲ)天は孔子に「徳」を生した、といいます。・・匡でも陳蔡間でも「徳」ではなく、「道」(は死なない永遠だ)と言っています。・・ここは違いがあるのかないのか(殆どの注釈書はこの違いを気にはしていませんが・・)
ちなみに孔祥林さんはここらを気にされた節はあって、桓魋は人民に圧政を敷き、また自分の棺を荘重に作らせていたので、孔子からやりすぎと悪口いわれ叱られたから(要旨)殺そうとした、と丁寧な説明を入れられています(孔子末裔ですから、何らかの古典か伝承をお持ちなのかもしれません、未見)。

しかし、rac的には十分に得心いかない、のです。

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③う~ん。
以下、刺激が強いので、いわゆるこれまでの儒教曾子孔子の信奉者、にはお読みにならないことをお勧めします。春秋をざっと見る限り、宋はこの時期、この地域では殆ど唯一裏切らない、晋の趙鞅の同盟者に見えます。趙鞅と連携して、鄭や曹を攻めたりしています。桓魋は趙鞅の仲間です、呉にとっては敵方、です。

一方、この桓魋(かんたい)はこの時期宋公の信頼は厚いようですが、追って前481年には宋公の信頼を失うらしく曹に逃げて謀叛を起こします(春秋本文)。

そして春秋左伝には

「桓魋は強くなりすぎ宋公が桓魋を殺そうとした、ので逆に弑逆しようとするが兄弟が桓魋を止めてやめさせた。それで桓魋は曹で謀叛したが民はついてこなかった。そこで桓魋らはさらに衛魯斉に逃げる、そして最終的には趙鞅のところに逃げた(らしい)。

なお、桓魋の弟の司馬牛(孔子の弟子でもある)も斉や呉に逃げようとするが、受け容れられず逃げ切れず魯の郊門で死んだ」(要旨)

との長い解説があります。・・


だいぶ後のことで、とくに呉王夫差が黄池の会盟のピーク前482年の直後の時期、のお話です。

よくわからない部分もありますが、趙鞅・桓魋、司馬牛と孔子、宋曹衛魯と斉呉晋、相当複雑な何かがあったことだけは間違いありません・・

論語顔淵(通し番号で#282~4)に3本、「司馬牛」が孔子に問う、があります・・仁・君子・兄弟を問います。痛々しくも司馬牛は兄弟については「憂いて」しかも「兄弟がいないけど?」と嘘まで言って質問します。しかし、孔子の答えは「きつく」「つめたい」ものです。・・まさにこの事件に関連してのことと見られます。(次記事)
どうも、「宋の桓魋の難」は前492~489年陳蔡からみの事件ではなく、おそらく、左伝のいう前481年(哀公14年、=麒麟の見つかった年です、呉の衰亡が見え始めた時期)のことで、場面は魯でのこと、司馬牛がそれまで長きに渡って、宋と桓魋;を裏切って孔子や呉のために働いていたことがばれて(孔子が宋をスパイさせていた)自殺した。桓魋はその惨めな弟のために孔子を殺そうとした、・・と読むとすべて話は流れるのです。ここは、桓魋は孔子の「不徳」を責めたのです。孔子は言い訳したかったのでしょうが弟子たちが危ないといったので逃げた、そして後で、俺は徳がある、と天を持ち出して納得しようとしているのです。

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こういうお話は、伝統儒家儒教にとっては、タブーでしょう・・ですが・・今までの論も含めてですが、論語と世家、そして春秋左伝と史記各世家、を多少注意して読めば、だれでも気付くと思います。多くの諸先輩も気付いたと思います。しかしこんな仮説は過去どの時代にあっても発表できなかっただけ、とみます。・・しかし気付いた人の大部分は、過去の「所謂儒教」からは離れていったことでしょうが。
このへんが、宋の桓魋の難の真実、と想像します。
(つづく)

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