1523.孔子(33):司馬牛の嘆き

1523.孔子(33):司馬牛の嘆き:2011/5/16(月) 午後 2:28作成分再掲。

QT

承前。

(3)桓魋の弟で、孔子の弟子であった、司馬牛の孔子らとの会話、3本
をやはりここにメモッテ置きます。

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「司馬牛問仁。子曰、仁者其言也訒。曰、其言也訒、斯謂之仁已乎。子曰、爲之難。言之得無訒乎。」(論語顔淵の3、#282)
(試訳)

司馬牛が仁を問うた。

孔子いわく「仁とは、口から言葉を出し渋る(=訒)こと」

司馬牛「言葉を出し渋ること、そんなことが仁なのですか。」

孔子「ことをなすことは難しい、言ってしまえば忍ぶこと(=訒=仁)ではなくなるのだ。」

(注釈)
「訒」とは、朱子は「難」「忍」と。鄭注では「言うに忍びざるなり」、孔安国注には「難し」。これら新旧注をあわせると「耐え忍んで言い難い」と、吉田賢抗さん(明治書院論語」)。

孔子を殺そうとした桓魋の弟(否定する説もあるらしい)で、また司馬牛は「口が軽くて軽率なところがあった」と司馬遷の「孔子弟子列伝」にもあり、その後の「司馬牛像」とこの3句の読み方に決定的な影響、を与えたようです(以下参照=ここは論語の句からの司馬牛像逆推定がすでに司馬遷の時代には存在し、流石の司馬遷もダマサレタ!、と見ます(笑い))

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「司馬牛問君子。子曰、君子不憂不懼。曰、不憂不懼、斯謂之君子已乎。子曰、内省不疚。夫何憂何懼。」(論語顔淵の4、#283)
(試訳)

司馬牛が君子を問うた。

孔子「君子は憂いも懼れもしない。」

司馬牛「憂いも懼れもしない、それだけですか?」

孔子「内に省みて疚(やま)しいことがない、なら、何を憂え何を心配するというのか」

(注釈)
古来、通説的には、悪役桓魋が宋で反乱を起したので、「小心者」の司馬牛はそれをいつも憂え懼れていた、のだ、と読むらしい。

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「司馬牛憂曰、人皆有兄弟、我獨亡。子夏曰、商聞之矣。死生有命、富貴在天、君子敬而無失、與人恭而有禮、四海之内、皆兄弟也。君子何患乎無兄弟也。」(論語顔淵の5、#284)
(試訳)

司馬牛は憂えていった、「人には皆、兄弟があるのに、自分はひとりで(兄弟が)いない。」

子夏「自分(=商)はこう聞いています。死生には(天)命があり、富貴は天にある、君子は敬して失うことなく、人と恭しく禮があれば、四海の内は皆兄弟、です。君子は兄弟のないことを患うことはない、と」

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どう読まれるか?・・見た限り、過去の解釈にはないようですが、racの言語感覚からいくと・・
1)「憂曰、人皆有兄弟、我獨亡」は司馬牛が「憂えていうに、人にはみんな兄弟がある、(自分にも兄弟があるのに事情が事情だから)自分は孤独に死んでいく(のだろう)」、

2)前記事通り、前481年のこととすれば、兄桓魋(かんたい)とは亡命生活を繰り返し離れ離れ(左伝には、最後は桓魋は晋趙鞅に亡命、司馬牛は魯の前に呉を頼ったとあり、一緒にはやはり動けなかったことを明記しています、念のため)司馬牛は最後に頼ってきた魯では

3)上2句とおり、仁とは何だったのか君子とは何だったのかと孔子に確認した・・一生を振り返っての孔門徒として最も大事なこと、仁と君子について直接孔子に再確認したかった、必死の思いです。

「まさにこれまでも喋べらず(スパイであることなど)よくやってくれて立派だった、これからも喋る必要もなかろう、忍べ耐えろ、それが仁。省みて疚しいことがなければ何も憂え懼れることはない、強くあれ。それが君子。」

孔子は応えた。孔子は道への強い確信があるから、呉王夫差が高転びに転び始めても、宋で司馬牛にやらせたことも間違っているとは思っていないので、強く言える。

しかし、司馬牛は、兄ともども国を追われ疲れきっている、おそらく宋と兄を裏切っていたことがこの時点ではばれて、兄弟からも責められ、見捨てられたような状況にあった・・。司馬牛には、孔子ほどの強い確信は保ち得なかった。・・二度繰り返される「斯謂之仁(君子)已乎」それだけですか?はもう少し言葉がほしい、をよくあらわしている。孤独、最後、頼りにしていた孔子への不信さえ見える。


4)孔子は、ぶつぶついう司馬牛に辟易して、座を外した。

・・子夏は晋の温出身ともいい孔門十哲でまさに晋の趙鞅対応のメッセンジャーボーイだったから、窓口役で、司馬牛の事情はよく知っていたし孔子に代わって対応するのは子夏しかありえない。・・この辺も見事なほどにジグゾーパズルは埋まるのです。(記事1515)

それでも、子夏(もうこのときは大人です)敢えて、話の筋を取り違えたふりをして、人類皆兄弟みたいなことば=これも古来孔子の言葉を伝えたというらしい=で答えた。子夏にはここも悪気はない、死ぬ死ぬという人間をうまく励ましたつもりだった、

と全体を読みます。この「全体の屈託あるやり取り」はこのように読んで、ジグゾーは埋まる(笑い、諸先輩は何を読んでいるのか、と正直思いますよ。これしかないでしょう!)

5)それでも、司馬牛は孔子や子夏が思ったほど強くはなかった、疲れてもいた、絶望もしていた、魯の郊門で自殺した。

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弟の死を聞いた桓魋はどこにいたものか分かりませんが、桓魋が色をなして、弟子たちに大樹のもとで礼を教えていたところへ(多分、魯の孔子の塾、でしょう=前481年なら孔子の死の2年前です)乱入してきた。いまや宋の司馬ではない一亡命者にすぎませんが、手勢はある程度あったでしょう。

「大樹を抜いた」「殺そうとした」という並々ならぬ、桓魋の強い怒りは、・・長く弟を「だまして」(と桓魋は思ったし卑怯にも「不徳」にも、とも思ったでしょう)宋や晋や桓魋自身を探らせた。猛烈な怒りは孔子(と一門)に向けられた。

・・こう読んで始めて、孔子世家の文章が分かります。
そして3番目の疑問=道ではなく徳とあることについては、桓魋の難は他の難とちがって(=「道」ではなく)、やはり、「徳」しかありえない・・のです。
ここで、桓魋が孔子に対して問題にしたのは、孔子らのいう高尚な「道」などではなく、弟司馬牛に宋や自分をスパイさせて、という孔子のひととしての「徳」、品性品格の問題だったのです。

だから、ここは道が永遠にある・・という言い方ではなく、天は自分に「徳」を与えている、桓'755;なんかに分かるもんか(・・前記事、世家も論語もきちんと記録している)という他の遭難の場合の「道」とは違う表現で孔子は答えているのです。

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最後にもう一点だけ。

驚くべきは、こうした個々の文章が、古いまま、まさに「述而不作」残っていたことです。中国古典の素晴らしい伝統と思います。おそらく、ただばらばらの竹簡だったのでしょう。ですが司馬牛の思いがこもっていたものか3句はセットで残り、・・その順番も多分これが正しい。

論語はそのまま下10巻の顔淵に入れた。

・・更に300年後司馬遷らは、現伝論語ではないが前書きもあったバージョンをみた(桓魋の猛烈な怒りを感じて伝えるべきとみた)、ただこの逸話をどこに挿入するか、は迷った・・いろいろ議論もし考えたもしたでしょうが、まあ陳への往路の宋であったことにして、「曹をたって宋に入った」というつなぎの言葉だけ入れて、孔子世家の現位置に挿入した*・・
     *司馬遷史記の「宋の世家」でも、桓魋の難を宋景公25年(=前492年)のこととしています。しかし、ここも別途情報があったわけではなく、論語や上記推定を踏まえて宋世家にも「景公25年、孔子が宋にきた、司馬桓魋が恨んで殺そうとしたが孔子は身を窶して逃げた」(同年記事はこれだけで)前後の流れからし埋め草記事、的に記載しただけ、とみます。念のため。

(つづく)

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