1506.孔子⑰周へ行った?

1506.孔子⑰周へ行った? :2011/5/6(金) 午前 11:07作成分再掲。

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 誤解を恐れずに言えば、書・詩・易・春秋などは読んで座学で独学でもいける。禮になると実技が伴う、が、春秋のこのときいろんな形で残っていて見様見真似でも学習できたかもしれない。しかし、楽になると、とくに楽器の演奏、また孔子感激の「韶」を演奏するとなると、先生による実技指導が絶対必要、ではないか・・?「楽」はそれ以外のことと違って、ちゃんとした先生につかねばダメ、・・どうも、それは、魯での独学でもなく、衛でもなく、周の故地、ではないか?

若い頃に周へいって老子に礼をたずねたというのは後の道教系の本家意識から来る捏造主張、

前記事通り魯に帰ってから魯の楽大師に音楽論をぶっているから「魯」の楽のレベルは高くなく孔子は楽を魯で習得したとはいえそうにない、

また「衛」は鄭と並んで淫・乱・慢な音楽が古くから盛んと礼記史記楽書もいうからありそうに無い、

・・となると、やはり「周」ご本家あたりが第一の候補地。

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「匡」と「蒲」での遭難については触れました。魯定公14年=衛霊公39年=前496年=孔子56歳ころ、とみました。孔子一行は衛の蒯聵南子事件に巻き込まれ霊公に疑われて出奔、やむなく晋の、趙簡子か趙簡子を裏切った仏肸か、をたずねていた、と、されます。racもそう書いてきました。
しかしどうにもおかしいところがある、正直昨日今日↓地図をみながら気づいた、のです。

土地勘なくまして中国の当時の地理情勢などはよくわからないですが、
http://shibakyumei.web.fc2.com/map/mapDM.html
前496年ころ、春秋左伝や史記によると、

1)仏肸は「中牟」(ちゅうぼう)で趙簡子に叛いたというから、晋の「中牟」にいたはず

2)趙簡子(趙鞅)は、晋の「邯鄲」か「晋陽」か、にいた可能性が強い

3)衛の首都は当時は「帝丘」

4)往にせよ復にせよ、孔子らが遭難したのは、「匡」と「蒲」

この位置関係を一言で言えば、

5)「中牟」は「帝丘」の北西、「邯鄲」は北、「晋陽」ははるか北西、にもかかわらず

6)「匡」「蒲」は「帝丘」の南西、そして何度も言うように、交通の要衝で、そのまま西へ向かえば(当時は晋というより)鄭や周、である。


「匡」の遭難の話は論語・世家の仏肸で有名、「蒲」の遭難話は世家で有名、地理的にもお話的にも「晋」関連で、晋は西北に広がる大国だからその途中でのこと、でおかしくない、と思い込んでいたが・・

(当時の実際の道や戦乱状況などわからないからなんともいえないが)少なくとも方向は全く違うのです・・殆ど逆方向、のです。

当時の晋の主役達は、繰り返すが、衛の都帝丘(孔子らの出発点)からみて仏肸は北西、趙簡子は北、おまけでいうなら、中行寅や范吉射も、西の「朝歌」を根城にしていて、当時の主戦場はいずれも、帝丘の北部地域に広がる。

(なお、朝歌はもともと殷墟でかつては衛の首都、衛は晋に押されて首都を東へ東へと移動し、この当時の衛の都は帝丘。また、おまけで、この後、衛の??が趙簡子や陽虎の支援で「戚」にはいるが、「戚」も帝丘の北方である。)

だから、匡も蒲も帝丘の南西、衛の帝丘から晋往復の途中というより、鄭や周への途上、というのが正解・・らしいのです。

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こうなってくると、
もうひとつ、符合してくるのが、「孔子世家」にある、「鄭」での迷子孔子の「喪家の狗」のお話孔子のたくさんの印象的な逸話の仲でも、秀逸で、だが、時期も鄭という場所も、どうしても「浮いてしまう」お話だったのですが、ぴたりと嵌ってくるのです。

・・ここもmorobiiさんを「孔子世家」よりコピペさせてもらいます。↓多謝。
http://blogs.yahoo.co.jp/mirobii/17800704.html
孔子適鄭與弟子相失孔子獨立郭東門

孔子は鄭におもむき、弟子と互いに見失い、孔子は独(ひと)り、城郭の東門に立った。


鄭人或謂子貢曰東門有人其'001;似堯其項類皋陶其肩類子?然自要以下不及禹三寸??若喪家之狗

鄭人の或る者が子貢に謂った曰く「東門に人がおります。その額(ひたい)は帝堯に似ており、その項(うなじ)は皋陶に似ており、その肩(かた)は子産(鄭の宰相)に似ており、しかるに腰(こし)より下は禹(夏王朝の始祖)に三寸(さんずん)及ばず。??(疲れ弱ったさま)と喪家の犬(主人を失った犬)のごとし」と。


子貢以實告孔子孔子欣然笑曰形?末也而謂似喪家之狗然哉然哉

子貢はありのままに孔子に告げた。孔子はにこにこと喜び笑いて曰く「容姿(ようし)についてはともかくも、しかし喪家の犬に似ると謂うは、その通りかな。その通りかな。」と。
司馬遷「世家」・・ではこの話を、宋の桓'755;(かんたい)の難の後、一度目の陳行き、途中の話とする。曹や宗は陳への途中で了解できるのですが、「鄭」というと西に傾きすぎていて、釈然としない。・・多分、ここも司馬遷らが「竹簡の並べ替えを間違えた」ところのひとつ、というより、どこに挿入すべきか迷う竹簡だった・・。

孔祥林さん「真説」・・は、西方晋に向かう途中で「匡」の遭難の後、に置き、しかも、迷ったのは子貢とのニュアンスを強調されます。

論語」・・は、この間では、「磬」の話を衛での話として取り上げ、そして孔子の最後の言葉は意味不明、だけ・・で一切語らない。

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ですから、一連のお話としてrac的には、こうみます。(全くの奇説珍説ですからご注意ご注意!!)
孔子らは、前496年、蒯聵の乱の後、匡と鄭を経由して、憧れの周を目指した・・

②このとき「子貢」は魯のアドバイザーをやっていて衛にいなかったし、孔子の衛出奔も後から聞いた・・それで追っかけたか、あちこちを探した。

③そのときの、鄭の情報通から聴いた話が、上記「喪家の狗」のお話し。・・子貢は鄭にいるわけではなく魯にいて人づてに聞いている、とも読める。(匡や蒲では子路は出てくるが子貢はでてこない、耳慣れない御者や勇者は登場する、だから子貢はこのときは魯に就職していて(左伝)孔子に同行してない可能性が大・・)

④気の利く子貢にしてみれば、自分がついていれば孔子ひとりにさせて、「迷い犬か捨て犬」みたいな思い・格好をさせることはなかったのに、という気持ちでしょう。

・・・
⑤そして、この旅、では結果的には、

淫・乱・慢という鄭(声)衛(声)ではなく、・・周の故地で、戦乱時にも比較的穏やかで、周の古風な音楽を街全体が守っていたような地方の街で、・・孔子は「磬」を練習しもっこかつぎに下手糞といわれ、楽師襄子というひとに「鼓琴」を習い10日以上かかってようやく文王の曲を身に着けた・・
と読みます。
⑥だから、おまけで、

逆に言えば、フツー信じられている所の・・

中牟の仏肸からの招き、はあったが(これは反趙簡子で斉魯衛の国策にもかなっているから孔子は乗ってもいいと思って動いたが、子路ら弟子の反対で取りやめた)、

趙簡子からの招請もあったが賢臣を殺したから止めたのだという黄河の話は、(たしかに陰陽風の用語で歌舞伎みたいで)後の儒家(といっても司馬遷以前の)によるかっこつけのでっち上げ・・

つまり、西方晋にむかったというのは嘘で・・匡や鄭を経て、周の故地、で楽の勉強に行った(くわえて六芸六経の資料探しなどはしたでしょう)、そして一定の収穫はあったのだ、とみます。

・・

・・なら、・・では、つぎ。

後の儒家論語は、なぜこれを隠そうとしたのか?・・・答え、孔子は生まれながらの聖人で楽も初めから身につけていた・・もっこかつぎに馬鹿にされ、練習に励む姿は聖人に相応しくない、とでも思った・・その程度なのでしょう。・・所詮儒家など「大昔から」その程度の人たちなのでしょう。


(後記:周の故地ではなくて、斉での韶に三月肉の味を知らず、というから、斉でのこと、孔子30代。時間的余裕、もありそうです。こちらの方が真実により近いかな?。この磬・鼓琴の話もすべて、斉時代、という、全く別の仮説はありえます。東夷に古いいいものが残っていた、という方が日本人的にはイケます・・備忘まで。以上ややこしい話でした。)

(つづく)

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