1521.孔子31:呉との交流+呉王夫差こそ麒麟?

1521.孔子31:呉との交流+呉王夫差こそ麒麟 :2011/5/15(日) 午後 0:06作成分再掲。

QT

承前。次は、

(2)孔子が陳蔡滞在中、呉とも交流があった痕跡はないか?
です。

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司馬遷「世家」は、孔子40代、在魯時代に季桓子の井戸から出た「魑魅魍魎」の話のすぐ後に、

呉(越ですが)の会稽山の城を毀ってでた巨骨、
について呉使が孔子に尋ねたという記事がありました(記事1491)。

呉王夫差が会稽山に越王勾践を破るのは前494年、ですから、これ以降のこと。竜骨(恐竜の骨)のことは中国では古くから知られていた、わざわざ記事にまでなって残ったのは車一杯の長さだったというから長い巨大な現物を孔子は見たのではないか、とすると、魯ではなく呉を訪ねて現地で見た可能性もある。

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②「孔門十哲」は魯衛の古い弟子たちだが、

例外的に子游が呉の出身であり(しかも後に江南夫子といわれるから間違いない)孔子より40数歳若いという年齢からしても、呉との間のメッセンジャーボーイだった、
という推定、もしました。(記事1515)

以上、気づいた限り、記録的客観的になにがしか示唆してくれるのは、残念ながら、こんなところです。

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③やはりそうなると、

時代の雰囲気からして、孔子たちのような政治団体が、彗星のように輝いていた呉王夫差に注目しなかったはずはない、
という既述推定(記事1510~)が基本となります。
1)呉王夫差「ブーム」の時期は前494年会稽山で越を破り、~前482年黄池会盟で晋の趙鞅と覇を競うピークまでの12年間。(・・この後落ち目ですが越王勾践に敗れ呉滅亡まではさらに10年=前473年)

2)孔子が諸国歴訪していたといわれる時期にどんぴしゃです。特に陳蔡にいた前492~489年は呉王夫差が南方を固め中原進出のきっかけをつかむ大事な時期です。(この前492~前489年、孔子が陳蔡にいたことは、司馬遷も孔祥林さんも認めます)

・・孔子のような政治集団が、たぎる坩堝のなかに3~4年もいて(・・越は破ったが歴史的大国楚と新興国呉との競り合いの場が陳蔡でした=坩堝)なにも関係なかったと考える方がおかしい・・沢山の例証は論語の句からさえすでに紹介しました。
3)さらに大胆にいえば、孔子たちが呉王に知恵つけた・・
とさえ思うのです。

この辺通常の常識?は、「伍子胥」は楚を追われた一族ですから楚への恨み、また亡国越王勾践(このとき呉王夫差の部下ですが)への警戒を説き、呉王夫差の中原進出には反対、だが宰相「伯?(はくひ)」が越や楚から賄賂をもらって中原進出を進めて呉王はその気になった、といいますが、・・事実は怪しい。

むしろ、

呉王夫差の野心器量からすると・・ここも夫差は項羽に似て田舎のやんちゃ坊主みたいに過去常識は教えますので常識とは違うのですが・・天下を狙い天道を語る点では、孔子の理想を語るに足る器だった、孔子に反応した人物だった・・?!。・・陳蔡の諸侯も大夫も人物ではないというなら、そして楚も大国ながら保守的だというなら・・何のために孔子一門は陳蔡に3~4年もいたのか!
夫差の側からしても、呉にも人材は沢山いたでしょう。伯?(はくひ)・伍子胥孫武(この時点ではもう死んだか出奔したか、いない可能性もありますが)以下錚々たるものです。

・・ですが、陳蔡にいる孔子一行は、陳蔡にいるゆえに独特の活躍が出来たはずです。(・・孔子一行は隠密部隊、ともいう理由です)

・・しかも孔子はフツーの論者がかたる戦争外交論ではなかった、フツーの諸侯や大夫の理解を超える天道天下論だった。

・・ぴたり、それは俺のこと、自分呉王は周太伯の末裔で天道を回復するのも俺(と孔子が教えたと見ますが)、と呉王夫差が直感した可能性はある。(後述)

だから、3~4年も陳蔡にいて、孔子たちこそが、呉の陳蔡戦略と呉楚秘密同盟の推進者だった可能性は、ある。・・むしろ楚や呉の南方田舎者たちではそんな発想は浮かばず、孔子たちが中原進出主張の主役であった、可能性のほうが高い。
4)また逆に、呉王夫差は、孔子には理想像に見えた・・時期もあるのではないか。
孔子の、あの強い自信、めげない根性はどこからくるのか。・・人は必ずいる、道はある、必ず回復される、との自信は案外、呉王夫差が、・・眼の前の彗星のような呉王夫差の現実、が支えていた・・
さらにもうひとつ大胆に言えば、

麒麟が出てきて死んだ」という前481年のセリフも、後世は孔子自らのことをさしているようにいうが、そんな図々しいことはありえず、孔子にとっては、これは「夫差の滅亡の予感」であった・・
・・麒麟のお話は、孔子の死(前479年)を予兆したもの、孔子こそは本当の王=「素王」(=シロート目には「ハダカの王様」という揶揄の言葉がもともとではないか、とみえますが、笑い)などと、そんな図々しいことを孔子本人が言うはずがなく、ここは、孔子死後の三流魯鈍の孫弟子たちの作り話、なのです・・こういうことを2400年にわたりまじめな顔して語る儒学者とはアホとしか思えません(笑い)。

まあまじめに、

・・孔子にとっては麒麟の発見と死は、呉王夫差のことではなかったのか。
(・・呉王夫差は身にイレズミの東夷でしたが、孔子は独特のセンスで何かをみたのでしょう。また呉王は周太白の末裔と物知り孔子は知っています。・・だから、孔子の東夷好きはここからも説明できます。なお、わが倭はこの子孫でもあリます、念のため。笑い)

彗星のように現れた夫差だったが、そのピークの黄池の会盟(前482年)とは、同時に、越王勾践に足元をすくわれ高転びに転び始めた時でもある。孔子の情報網とセンスからすれば、前481年には呉王夫差の10年後の滅亡が見えたのかもしれない、あるいは夫差は人物としても孔子が期待したほどではなかったことがすでにはっきりしたのでしょう・・。

孔子の絶望の声、であることは、もちろん、間違いない、のです。


以上、客観情勢・状況証拠は見事にそろっています。人はいる、天道は回復できる、というめげない孔子の自信は、夫差をみて思っている・自信を得ていた、時期、が人間孔子にはあったのです。・・と思います(笑い)。
(つづく)

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