1563.論語を読む(7)学而篇まとめ

1563.論語を読む(7)学而篇まとめ:2011/6/11(土) 午前 11:15作成分再掲。

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学而篇の次の孔子の句は

子曰、道千乘之國、敬事而信。節用而愛人、使民以時。(学而1の5、#5)
です。
(読み下し)

千乗の国を道(治)めるには、事を敬(つつし)みて信あり、用を節して人を愛し、民を使うに時を以ってする

(通説的和訳)

(戦車千乗クラスの)諸侯の国を治めるには、事業を控え目にして公約を守り、経費を節約して租税を安くし、人民を徴用する場合忙しい農繁期を避けることだ

(以上、以下も特記ない限り宮崎さん読みを中心に・・)
⇒とくにコメはありません。

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子曰、弟子入則孝、出則弟、謹而信、汎愛衆而親仁、行有餘力、則以學文。(学而1の6、#6)
(読み下し)

弟子(ていし)、入りては則ち孝、出でては則ち弟(悌) 謹みて信あり、汎(広)く衆を愛して仁に親しみ、行って余力あれば則ち以って文を学べ。

(通説)

(修行中の)若者は、家庭では親孝行、社会に出ては奉仕に勤め、謹み深くして約束を守り、多くの人を愛し誠実(な人)と親しくし、やるべきことを行い、その上でなお余力があれば古典教養を学べ。
⇒特にコメありません。ただ、学が最後に来ている点は注目、だれかれに出来るものではない、フツーの人はまじめに生活せよ、それで十分、というおもいでしょう。この記事一番下、参照。

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⇒次は子夏の賢賢易#7は飛ばします。

子曰、君子不重則不威、學則不固、主忠信、無友不如己者、過則勿憚改。(学而1の8、#8)
(読み下し)

君子、重からざれば威あらず、学べば固からず、忠信を主とし、己にしかざれば友とするなかれ、過ちては改むるに憚ること勿れ。

(通説)

君子たるもの(=諸君)、重々しくなくては威厳がない、学んで柔軟であれ、真心を尽くし(忠)約束は守れ(信)、自分より劣ると思うなら友とするな、過失はあっさり改めよ。

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曾子の慎終#9、子禽子貢の孔子についての質疑はいいものですが#10、は飛ばします。

子曰、父在觀其志、父沒觀其行、三年無改於父之道。可謂孝矣。(学而1の11、#11)
(読み下し)

父います時はその志を観、父没すればその行いを観る。三年父の道を改むることなし。孝というべきなり。

(通説)

父が生存中はその志を観る、死ねばその行いと結果を観る。その上で三年間父の道を改めない。これが出来れば親孝行、というべきだ。
孔子は父の顔も葬式も墓もみず、ファザコンの可能性が強い。封建身分制がすでに成立していたのでしょう、こんな感慨です。しかし、これは孔子が実際には出来なかったことを悔しがっているようにも見えます。

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⇒有子の和を貴し#12、有子の信義#13、を飛ばします。

子曰、君子食無求飽、居無求安、敏於事而愼於言、就有道而正焉。可謂好學也已。(学而1の14、#14)
(読み下し)

君子は食に飽くを求むるなく、居に安きを求むるなし。事に敏にして言に慎み、有道に就いて正す。(これ)学を好むというべきのみ。

(通説)
諸君は食事なら満腹まで、暇さえあるなら安逸を貪るというのではなく、仕事に真っ先に手を出し、口は控えめにし、徳有る経験者に意見を求めて反省の材料にするがいい、これが出来たら学問好きといってやろう(宮崎さん)

紳士は食事に当たっては満腹を求めず住居については安楽を求めない。・・行動に敏捷で言語には慎重であれ。・・自分だけの判断では間違いもあるから、道徳あるものに接近してその判断を求める。そうした行為をなしうる人物は学問を好むものと判定してよかろう。(吉川さん)
⇒残念ながら、お二人ともこの程度の和訳では弱いです・・吉川さんは「事というのは具体的になにをいうか明らかではないが仮に行動と訳せば」と上記に補足されます。そのとおりで、・・・孔子は春秋や世家では(論語でもでしょう?)道はある、一事はある、と繰り返しいっています。すなわち、それは(後学がいうような抽象的な道というよりも孔子現役当時は)呉王夫差を誘導して中原和平と周朝秩序の回復です、そのためのさまざまな外交政治諜略工作です。・・ですから
rac流孔門志士読み)

君子たる同志諸君、飽食(グルメ)や安居(安逸な暮らし)を求めるのではない、事態に当たっては敏に、言を慎み、ちゃんと有るこの道に従って(世を)正しくする。これこそ学を好むことの究極だ。

⇒有るべき道に就いて世を正すのです。これをまた「学」といっているのです。学而篇#1句の「説(悦)」「楽」と軌を一にして、ここでは「好」と言っているのです。また学ぶことは「事」を「行」うこと、「有道」に従い世を「正」すこと、ともいっている。

⇒学者が勝手にしょもない自分の器で読んではいけません、・・現実の孔子に従って読まねばなりません。こういう人々を「論語読みの論語知らず」と古来言うらしい・・。

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⇒子貢の貧にして諂うの#15を飛ばします。学而篇の最終句です。

子曰、不患人之不己知、患不知人也。(学而1の16、#16)
(読み下し)

人の己を知らざるを患えず、人を知らざるを患うなり。

(通説)

人が自分を知らないことは患えない、自分がひとを知らないことを患う。

⇒ここも、#14と同じで、学而篇初句#1と呼応、その末尾「人不知而不慍」への補足です。・・もともと#14につながった一句だったのでしょう、そして初句#1と呼応していた・・。

人に知れなくともかまわない、下克上私利私欲の乱世で、天下和平と周朝秩序回復の道をすすんでいるわれわれ孔門志士派こそが君子だ、そう自負する。だから人に知られようが知られまいが気にはしない。しかし、外交政治工作を進める上で、呉王夫差はどんな男、越王勾践はどんなヤツ、姦婦南子が衛霊公に甘えて何をしようとしているのか、要は他人・人々のこと、それを自分達が学ばず知らないことのほうがずっと問題だ、これを憂える。ということです。

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以上、学而篇を孔子の句だけで読んでくると、孔子の考え方の基本がぴしっと分かるし、特に行動原理=「学而」篇の初句#1と#14#16句がきちんと呼応していることも、はっきり分かります。「学」とは後世儒家の多くが言うように単に学ぶことではなくて、「就有道而正」(有るべき道に就いて(春秋乱世の世を)正すこと)と孔子自身が宣言しています。
⇒素直に読めば数時間で気づくことと思うのですが、2000年以上も諸先輩は何を読んできたつもりなのか?=アホです。・・まあ正確に言えば、これが2000年以上にわたりそして今なお変わらぬ、東アジア帝国体制の伝統的心理的重さとその指導原理儒教のドグマ、その本質、なのです

⇒冒頭#1を受けて末尾の#14と#16とを一文とみれば、初句のrac読みと同じで、ここにも熱い現実変革者=革命家、の姿がはっきり見て取れるのです。
(つづく)

UNQT

 

1562.論語を読む(6)巧言令色

1562.論語を読む(6)巧言令色:2011/6/10(金) 午後 9:56作成分再掲。

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学而篇の#2は有子の孝弟、#4は曾子の日に三省、**です。孔門志士読みではこれらを飛ばしますので、孔子の2番目の句は

子曰、巧言令色、鮮矣仁。 (学而篇1の3、#3)
(読み下し)巧言令色は鮮(少)ないかな仁。

(通説的には)
ねこなで声でお世辞笑いする人間に最高道徳の仁は求められぬ(宮崎さん)、

巧妙な飾りすぎた言葉、巧みな顔色・・そういう人物には仁=真実の愛情の要素は少ない(吉川さん)

など。
⇒これまた有名な句ですが、racにはどうにも得心の行かない句でした。

つまり、納得のいく和訳にするためには、ねこなで声とか巧妙な飾りすぎた、という、過剰な修飾語を入れないと意味をなさない、よくわけが分からない。巧言令色の4文字にそこまで否定的なニュアンス*があるのか?!

     *朱子論語集注では、巧=好、令=善、とある。しかも、鮮=絶無、とまで言い切るから益々分からなくなる・・

それでついつい巧言令色って、一般によくないもの、なのか?朱子によるかぎりそんなネガティブなことばではなさそう。それとも口も利かずぶすっと愛想悪くしている人間、あるいは大人(たいじん)ぶって堂々としている方がいいとでもいうのか?、・・そもそも仁って何だ?・・という疑問がわくのです。・・別に巧みな言葉や良さそうな顔つきまでいけないといっているわけではないのでしょう?・・となる。


⇒だから

ここも孔門志士派が厳しい外交や政治を行うとき、そういう孔門同志への訓戒とみると、一挙に納得がいく。春秋戦国・私利私欲・下克上の人間関係での実践的経験的な戒め、なのです。政治交渉は騙しあいだから、賄賂やハニートラップに気をつけろ、相手の口や顔つきだけで判断するな、程度の常識論なのです。
つまり
rac試訳)

(外交政治で交渉する同志に言っておくが)相手が巧みな言葉や善良な顔つきのときはむしろ誠実ではないことが多い、(くれぐれも心して当たれ)

⇒このように状況場面を孔門志士派の交渉時とよめば、無理過剰な言葉を補って解釈する必要はないのです。孔子の言葉はしごく当然なものになります。
⇒だから、フツーの日常の人間関係で、優しい言葉をかけたり口のうまいヤツは気をつけろ、愛想良くするやつは警戒しろと、そんな心貧しいことを言っている訳では決してない。むしろ

巧言令色=好言善色は人ならだれだってフツーの状況下では自然にでるはずのもので、それが仁なのです。話は全く逆なのです、これが正しいメッセージです。


⇒・・ところがこのへんをぐじゃぐじゃのままで、繊細で優秀な子供たちが、これ=論語の巧言令色は少ないかな仁、を学ぶと(論語は唐代まで子供向けの初心者本、宋や江戸以降は基礎教養書ですから)つい前段のように解しかねない。そして(ごく最近まで)エリート子供?達はどうにも情感にかけ心貧しく育っていく可能性もあるのです。誤解を招きかねないメッセージなのです、だからこれは難しいメッセージ、とも時に言われる。

⇒だから、本当は「仁」についても、最高の道徳とか、真実の愛情とか、難しく考え過ぎることはない、のです。・・誠実とか人間らしいとか当たり前のことでいい。・・特殊論を一般論で解釈してしまったからしわ寄せがきているだけで、ここでは仁ですが、概して仁義礼知信など、大変バーを高く美化し難しいものにしなければならなくなった。

⇒要するに、弱肉強食的春秋戦国的外交交渉の特殊な場面であることを伏せてしまったから話が難しくなった。・・背景を消して隠したから、

・・孔子の実践的な注意が極めて意味深不気味なものに化けていく。
自分で自分を縛っていく、要すれば、後世儒家にはこういう2重3重のアホが多いようです。

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ここでスキップした#2曾子、#4有子はまさに、その程度のアホかもしれません。

曾子」は孔子自身が「魯」鈍と言い切り、「有子」(冉求=子有ではない)は姿かたちが孔子に似ていたから後継者に推挙されたと伝わる(孔子はコメントさえ残していない。・・有子=有若はずうずうしくも学而篇冒頭に自分の句を挿入したから論語冒頭に出てくるから有名な程度)、その程度の人たちなのです。・・彼らは外交政治軍事金儲実践には孔子が見ても向かなかったろうし本人も適性があるともおもっていない、もちろん経験もない、そういう人たちが魯鈍な頭で形と言葉尻ばかりをドンドン考えて不可解な解釈にしていくのです。

乱暴な言い方ですが、上論10篇には共通してこの「ヘキ」=傾向、があります。これまで金科玉条に扱われてきているからきつく言っているだけなのですが(これまでの世界遺産的読み方ももちろんあり、と認めた上でですが)、そういう眼でも読んでみてください。

(つづく)

UNQT

 

1561.論語を読む(5)學而時習之

1561.論語を読む(5)學而時習之 :2011/6/10(金) 午後 0:34作成分再掲。

ここもくどいですが(笑)・・

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大事なところなので記事1532をひつこくほぼそのまま再掲します。

 

論語の初句=学而篇の第一、誰でも知っているこの句を、孔門志士派(仮称)で読むとどうなるか・・
「子曰、學而時習之、不亦説乎。有朋自遠方來、不亦樂乎。人不知而不慍、不亦君子乎。」(論語学而の1、#1)

(通説)
孔子曰く、学んで時に復習(おさらい)する、こんなに悦(=説、よろこ)ばしいことはない。友があって遠方よりわざわざたずねて来る、こんな楽しいことがはない。人に(自分達の学徳が)知られなくてもいい、そんなことはいかりにもうらみにも思わない、それが君子、ということだ。

rac試訳)
孔子曰く、学んだことを適時適切に実行していく、こんな悦ばしいことはない。遠くから同志が久しぶりにやってくる、こんな楽しいことはない。世の人々に自分たちのことは知られなくてもかまわない、そんなことは腹も立たず残念とも思わない。これが君子、ということだ。

違いのポイントは
1)「習う」を「やってみる、行動に移す」と読みます。「習」の字は、巣立ちする子鳥がバタバタと羽ばたくことの象形らしい、です。

2)「時」は吉川さんも書かれていますが、時々ではなく、「タイムリーに、適時適切に」と読みます。

3)「朋」は、単なる友達ではなく、「同胞・同志」です。志を共にし、・・呉王夫差を信長に見立て中原に呼び込み中華の和平と周王朝回復、を意図して、斉や呉や宋(司馬牛もその一人です)や鄭や晋など遠国でさまざまに政治工作にあたっている、孔門の「同志」「隠密たち」「活動家」たちです。

4)おのおの魯や衛や宋や斉や晋や鄭などで立場を持っている・・それでも大望をいたき、彗星のごとく登場した呉王夫差(=信長です)の軍事力他を当てにしそれぞれに支援し行動し天下布武を夢みている・・だから、なかなかおおぴらには出来ない。

5)そういう同志が遠方からやってきて情報交換情勢分析新しい作戦を語り合う。こんな楽しいことはない。

6)だから、人には知られなくてもいい、中華全体の天道大義の回復実現が目標だから、人に知れないからといって慍(うらみ・いかり他)に思わない・・。

7)要は、春秋乱世私利私欲の世の中にあって、こんなにも、世に誇れ歴史に誇れる志と行動はない、だから、われわれは君子なのだ。だから誇りをもって日々活動しよう。

諸侯は跡目争いや下克上に苦しみ、魯季氏や衛孔氏など有力大夫は私利私欲の小戦争を繰り返す、晋趙鞅や孔門が期待している呉王夫差だって大欲に取り付かれているだけかも知れない。しかし、われわれ孔子とその一門は、呉王夫差を見込んで担ぎ、天下中華の和平と周朝秩序の回復に、日々注力している。多くの人々は知らずしられようもない。

が、この春秋乱世に、われわれこそ君子といわずに他に君子がいようか。いわば、強い自負があります。・・少なくとも、学びの喜びこそが代えがたいもの、自分の学徳が人に知られなくとも怒らない恨まないなどという、うじうじした書斎道学士の自己満足などはるかに超える、生き様そのものへの自信と自負、です。


以上、こう読むと、従来読みでは学・朋・不知・君子の4つの木で竹を継ぐようなぎくしゃく感がありますが、これが消え、これしかない必然性のある4つとして登場します。30文字すべて一つの文章=ステートメント、としてきれいに流れます。 これが孔子がもともと語ったときの「原義」だからです。 しかも、これが孔門志士派の長=孔子の弁として、第一句にあることはまことに相応しい、のです。

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あと三点
8)これを後漢鄭玄以下の儒学者たちは、学ぶことの喜び、復習おさらいすることの喜び、学友と論じることの楽しさ、と読み替えてしまった。そんな学徒=「その程度の学徒」が君子であるかのように、読み替えた。

とんでもない。・・否、鄭玄から、ではないのです。

もっと前。・・孔子の努力にもかかわらず呉王の没落を見、そして結果的には無理筋だったとも見えたろう子貢の越王勾践工作の無惨な失敗(哀れ魯公も出奔し越に客死させた)を目の当たりにして、孔門学窓派の人たちの系譜は、かなりはやくに意図的に、彼等孔門志士派の活動を否定したのです。・・孔門十哲の活動家達ではない系譜、曽子有子ら学徒肌の人たちが中心になって読み替え工作を始めたのです。ですからこの「看板の書き換え」は孔子の死後、おそらく孟子の前までに終わっていた、と見ます(後述)。


9)孔子の原義にあった、「学ぶ」とは「行動的鋭角的に天道正義の実現を目指すという革命精神」は失われます。加えて、習う、を「単なるおさらい・復習」にしてしまった。

学問は学んでその通り実現に向かうことではなく、・・しこしこ勉強しておさらいして官僚か学者になる・・立身出世につながればよし・・あるいは高々学びの喜びを訴える学問世界です。・・いずれにせよ学んだことに従い現実を変えるとか革命とかには関係なく、・・所詮は技術か教養か・・出世志向の儒教になっていく。・・空海三教指帰儒学を嫌う根本理由となっていく。


10)空海も含め、2千数百年、中国はじめ東アジアでは、論語は基本中の基本ですから、子供のときに、論語の冒頭で、そういう解釈を摺りこまれる。そして知らず知らずに、勉強の目的は官僚や学者になって立身出世すればいい、こと。現実は勉強したとおりの真理ではないが、これは仕方がない、実現することではなく頭の中でおさらいして忘れなければいいこと、と孔子も言っている・・と納得する。・・優秀で繊細な子供こそ早くからそうなる。
こうしてまことに「お粗末な」学問観や真理観が、論語の最初のページから子供達の心の中で醸成されはじめるのです。・・ここが西洋と東洋の真理や学問の分かれ道のスタートなのです。
大きな間違いです。
学問=努力して真理を知ること=正義を学ぶことは、それを適時適切に実行して、世を正しくすることそのものなのだ、と原孔子は主張していたのです。朋と共に正しく現実を変革すること、これを喜ばしく楽しいことと言ったのです。

こんな明確なことはない。単に学問の楽しみを言っただけではない、学問し生かし現実を革命することの楽しさ、を言っているのです。・・その後の儒学者にありがちな真理(学問)と現実は別々の二元論ではない、原孔子の主張は、明らかに、学問=真理=現実がそうあるべき、という一元一体論、なのです。


ざっと読んだ限り、日本では、長谷川如是閑さんと桑原武夫さんは、「習う」=実践・実際にやってみること、と解していることは記録にありました。お二人とも独自の読みだがとおっしゃり、桑原さんは吉川さんに言ったらそれは違うと叱られたのだとか(笑い)。(長谷川さんは朝日吉川本「論語下」の付録に、桑原さん「論語」筑摩、昭和57年、に)

ただお二人ともそこで止まっておられる。あくまで学問とその延長の実践で、革命推奨論とまでは仰らない、せっかくの良い読みなのに何故止まるのか・・孔子像はじめ長い儒教のドグマのせいなのです。

・・要は話は単純で、呉王夫差=信長論までは司馬遷以降、誰も主張されないので、全体の一気通貫の読みが出来なくなっているだけ、なのです。

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従い、ここに、

新しい時代の、論語の新しい読み方を、ご提案する次第です。
しかしながら、この読み方は(これまでこのシリーズで披露した、あるいは今後も披露するだろうrac流読み方は)、

文字通りの温故知新
現代に似て、グローバルで多様で何でもありの春秋乱世の、孔子のもともとの読み方=孔子の本来の生き方とその発言、でもあるのです。
(つづく)

UNQT

 

1560.論語成立過程と孔門志士派読み

1560.論語の成立過程と孔門志士派読み:2011/6/10(金) 午前 11:24作成分再掲。

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(1)津田左右吉さんはさすがで、論語孔子らの当時の活動や他の思想状況がわからない限り厳密な議論は意味がない、と強く主張しました(「論語孔子の思想」)、誠に同感です。いまだにそんな資料がないようだったので、ここまで約70回にわたり、想像も交え孔子の当時の活動を推定しました。その結果、後の儒教に近い孔門学窓派(仮称=曾子・有子・子思ら)とは「全く別の、孔門志士派」ともいうべき想像以上に活発な政治行動団体、を発掘復元するに至りました。


すなわち孔子と子貢ら孔門十哲と伝わるかれらが、特に、前492年~前468年に考え行ったことは、呉王夫差や越王勾践をめぐる中国春秋史上でも画期的な時代の陰の主役とも言うべき存在でした。・・従来ない説(と思うの)ですが、左伝国語史記など古い記録ともより矛盾なく読める内容で、この仮説が真実である確度は高いと思います。

 

(2)この仮説に従うと、論語も、多くの部分がよりすんなりと読めるようです。

そのためにもまず、現伝論語の成立経緯について結論めいたところを述べておくと(例外はいくつもありますが大概のところ)、
伊藤仁斎流の「上論10篇が孔子オリジナルで、下論10篇が後の続纂」ではなく、「上論=魯系で孔門学窓派のもの、下論=斉系で孔門志士派のもの」で、いずれもオリジナルの孔子や弟子や関係者の証言等を引いてはいる。なお、魯は孔子故地で学窓派が塾(複数)を続けた地、斉は子貢の老後の故地、です。

②成立は学窓派のものが先行、しかし、それだけではないという気持ちから、志士派の系統を引く子貢系(子張ら)が別途編集。

③魯系(本)と斉系(本)はもともとかなり違っていたが、長い戦国や秦焚書や漢初混乱時代を経て、儒家共通の立場として相乗りが進み、前漢武帝司馬遷の時代には、魯本・斉本・古論の三種になっていた。斉本は長かったというから事情説明的なものが少しはあったのでしょう・・

漢帝国儒教国教化もあり、董仲舒から鄭玄までの間に魯本をベースに三本を合冊、学窓派の強いものが「論語」として定本化された。これがその後長く、歴代中華帝国から朝鮮日本へ、そして今なお共産体制中国*においても、帝国管理維持型の論語、として生き続けている。

  *思想的に毛沢東は明確に帝国儒教を否定したが、ここ数十年中国指導部が孔子復活を言う。大帝国を維持管理するには結局のところ儒教が便利ということらしい。

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(3)さてさて。伝統儒教的学際的論語の読み方は、2200年にわたって続けられ様々にあるわけですが、今racが読んでみたいのは、孔門志士派の考え方に即して読むとどうなるか?、です。

孔子や子貢ら志士派の発言を、従来為されているように学窓派的に読み解釈することももちろん否定しません、それはそれで世界遺産です。しかし、正直それでは、生の孔子や子貢や十哲が、可哀想、とさえ思ってしまう、彼等はもっと激しくもっと苦しみもっと人間的であった。
さらに、
志士派の立場は、孔子らが生きた当時の生々しい現実感覚と理想に燃えた政治外交思想活動を伝えるものであり、現代の、当時に似たグローバル・多様・私利私欲・下克上・何でもあり社会では、かえって勉強になるところが多い。誤解を恐れずに言えば現代的、でもあるのです。・・学窓派の主張と改竄と独特の読み方の長い伝統の中で志士派の主張は大変読みにくくなってはいますが、不可能ではない。当時の孔子等の活動状況とその背景をみつつ読むことで、生の息遣いに触れることができるものも多いのです。
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(4)では現伝論語をどう読んでいくか。学而冒頭句の読みは披露しましたが、次の順序↓で論語を読んでいきます。志士派の主張を鋭角的に切り出すためです。
学而第一
郷党第十(志士派の対蹠として)
先進第十一~

そして孔子はすべて読みますが、申し訳ないけど学窓派の曾子・有子らの発言は原則飛ばします・・

なお参考書は以下

A.「四書集注(上)論語集注」朱子、明徳出版、1974年
B.「論語之研究」武内義雄さん、岩波書店、1939年
C.「論語、上、下」吉川幸次郎さん、朝日新聞、1959~65年
D.「論語」吉田賢抗さん、明治書院、1960年、
E.「論語の研究」宮崎市定さん、岩波書店、1974年、
F.「論語桑原武夫さん、筑摩書房、1982年、
G.「論語の世界」金谷治さん、NHK出版、1970年、

#句の通し番号はE宮崎さんに準拠します。
なお、いまや国会図書館デジタルネットワークや有志の議論や読みなどネットにも沢山の情報有り感謝です。

(つづく)

UNQT

1559.子貢年表(下)

1559.子貢年表(下) :2011/6/9(木) 午後 1:03作成分再掲。

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子貢年表(下)、です。
子貢は前520~446?年、呉滅亡と徐州会盟の前473年は子貢は働き盛りの48歳です。
⇒「史記越王世家」では、この徐州会盟で斉・宋・魯に土地を分け与え覇王といわれたの後の記事は有名な、「蜚鳥盡,良弓藏;狡兔死,走狗烹。越王為人長頸鳥喙,可與共患難,不可與共樂。子何不去?」(飛鳥が尽きれば良弓は蔵にしまわれ、狡猾な兎が死ねば走狗は煮らる。越王のひととなり、首が長く鳥くちばし、このタイプは艱難を共にできても楽を共にはできない。なぜにわが同士外交官種(しょう)よ、貴兄は辞去しないのか?)といって范蠡は越王勾践の下を去った、案の定種は死を賜った、という話をした後、この後の越王勾践には関心を示さず、勾践が死んだ(前465年)以降の話に飛びます。そして范蠡の話を長々とする、その冒頭は艱難をともにできても安楽はともにできない勾践を見限って・・で再度始まる。つまり、

范蠡范蠡を書いた司馬遷も越王勾践は、中華和平や周王朝のために、何かできる男ではないと繰り返し言っている
のです。・・これは子貢の言葉ではないか、とさえ思います。

だから、ここも孔子の言うとおり「左伝」しかない・・子貢の影、については「左伝」で既に見ました・・繰り返し以下に転記します。
前471年(子貢50歳、魯哀公24年)閏月、哀公が越に行く。越は哀公に越の公女を娶わせて土地を多く与えようとするが、季孫(季康子)ら賄賂をいれて阻止。

前470年(子貢51歳、衛出公復位7年)衛出公輒が反乱にあい、城鉏(じょうしょ、衛の一部らしい)を占拠

前469年(子貢52歳、魯哀公26年、衛悼公元年)夏5月、魯の叔孫舒(文子)が軍を率い、越の将軍達と会して、衛公を国に戻そうとする。衛国内でも賛否両論、反対派が勝って「越の人に沢山の賂を送って」、軍門をすべて開けるという奇策をとり、結局、衛出公は恐れて衛に入らなかった。衛では、悼公(出公の庶弟とも霊公の末子とも)を立てて、前出公のいる城鉏は越に割譲した。出公はこのまま越で死んだ(前469年?)同年、出公は城鉏から使者を子貢にやり、弓を贈り物にして問わせた「自分(出公)は国に帰れるだろうか?」子貢は稽首して弓を受け答えて「分かりません」と。そして子貢その使者に曰く「(古例をあげて)国に迎える家臣があるか、国外でも助けてくれる家臣がいればいいが、(出公の場合)手立てがなさそう。詩に強きは人を得るにある、天下もなびく、というから国一つくらいいうまでもないのだが」と。

前468年(子貢53歳、魯哀公27年、衛悼公2年)、春、越王勾践が大夫后庸を魯に派遣して、邾の土地を邾に返還するよう要求。2月に哀公は三桓とともに后庸と(魯の)平陽で盟す。季康子は(越など夷と不利な盟を結ばねばならないことを嫌がって)病気になった。季「子貢がいてくれればこんなことにならないのに」。孟「その通り、なぜ召さないのか」。季「もとより呼ぶつもりだった」。叔孫「後日になってもお忘れなきよう」と。夏4月季康子死んだが、哀公は常より低い礼でおくった。

前468年(子貢53歳)、哀公は三桓の侈(おご)るを患え、諸侯の力でこれを排除しようとした。三桓も哀公の妄を患え、君臣の間が多かった。公が孟武伯に尋ねて「自分は無事に死ねるだろうか」と。答えて「よく分からない」と、公は三度問うたが答えず。ついに哀公は越に頼んで三桓を排除しようと、公孫有山(=子貢、と疑います)を頼って、?から越に行った。魯の国人は公孫有山のせいとした。

⇒以上、魯の哀公にせよ、衛の出公にせよ、これまでになく意欲的活発になり、有力大夫たちと対抗し、越の力をかりて有力大夫を排そうとしています。・・これを子貢ら孔門志士派の最後の正道?正統?政治復活のための努力である、と見ました。現伝左伝でははっきりしませんが、哀公も出公も越というより子貢を当てにしていたように読めます。

⇒理想実現のために粘る諦めない子貢たちですから、越王への要求水準を下げて、

諸国の諸侯が諸侯らしくなれるように、私利私欲と下克上の大夫クラスを排除することに、協力するよう求めた・・越王もならいいよ、位のことは言ったのでしょう。そういう事情でもないと、頼りないはずの哀公や出公がここで勢いづく理由が見当たらない、のです。
⇒だが、現実、残念ながら、越王勾践は、これにも答えなかった・・司馬遷范蠡にその理由を冒頭どおり語らせます。楽をともにできない男なのです。・・左伝は大夫たちの賄賂や割譲によって、越を抱きこんだから、と書きます。

⇒越王がこうとはっきりしたから、晋も斉も宋も元の木阿弥です。みんな私利私欲の世界に戻っていった。子貢らは越王にもねじ込んだと信ずるが、越王は呉王夫差ではなかった、お茶を濁すようなことはしてくれたが、本当のところは、諸侯のためにも天下のためにも何もしてくれなかった。

⇒そして最後は愛する郷土の魯哀公も衛出公も国をでたままむなしく越の地で客死させてしまった・・流石に子貢もこたえた、と思う。

ここでようやく子貢は諦める。そして、改めて、子貢には、孔子の人物眼や歴史眼の正確さが分かったのだと思います・・だから子貢がなぜにあんなにも孔子を偉大な人といい続けるのか、も、よく分かるのです。

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⇒このままでは子貢が少しかわいそうなので(笑)、この後は、范蠡の後半生として書かれた多くが子貢のものであったという、あまり根拠のない(笑)前提で、続けます(史記、越世家と貨殖伝より)。
前467年(子貢54歳、范蠡60歳?)魯哀公が越で客死。これを見届けて、斉に移り、鴟夷子皮(しいしひ)と名を変えて、財を成す。

范蠡が越を去るのが前468年ころ、とか。子貢は越にいたかどうか不確かですが、前468年には魯哀公が越に出奔したことは左伝にあり、当時子貢は越にいたかあるいは魯公に従って越に入った、と見ます=左伝のいう公孫有山はもともと子貢のことで、自責もあって子貢は「子貢と記し魯の人々に責められた」という文章で、春秋子貢伝、は終わっていた、追って、春秋原左伝編集の孔門学窓派が公孫云々に書き換えたと想像しました。

魯哀公は前467年には客死したので、これを見送ってから、前467年には、斉に移った、とみます。

史記越世家は「范蠡は一族挙げて海路斉へ向かってまず海辺を耕作した」とあります。海路や耕すというのは、確かに子貢らしくはありません。

⇒「鴟夷子皮」と名を変えたとあります。子貢は孔子の死後一度子贛(コウ=もや・煙霧=でいかにもそれらしいでしょう)と名を変えた前科があります。「鴟夷子皮」も変わった名前で、馬の皮袋のことらしい。自由自在の意味もあるらしいが、伍子胥が夫差から死を賜り罪人として江に捨てられたのが鴟夷に包んでだった、とか。この名は、それを悼み自らを責めています。范蠡が絶世の美女西施を夫差に送りあるいは伯 嚭(はくひ)に賄賂を送って、夫差と伍子胥を反間の策に落としたことになっていますので、范蠡の変名でもおかしくはない、のです。が、このシリーズでは、むしろ孔子子貢ら孔門志士派(中原重視派)が地元重視派の伍子胥を排除した可能性をみますので、子貢の変名、しかも自らを罪しての伍子胥への詫び、なにより、呉王夫差の足を引っ張ったことになったのも名軍師伍子胥を排したからとの子貢なりの反省、もあったとして相応しい。范蠡の変名というより、ここも子貢に相応しい。
前464年ころ(子貢57歳)斉の宰相に推されるも不吉として印綬を返し財を散じ人々に分ける。

前461年ころ(子貢60歳)斉の陶(旧曹)に移住してまたまた財を成す。陶朱公と称される。次男が楚で死罪、長男に大金を持たせて贖せようとするが長男が金を惜しんで失敗。長男はお金の苦労を知っているで不適格、陶で生まれた末子なら金を惜しむことなく失敗することはなかったろう、と陶朱公。

⇒楚王まで登場します、寓意のよくわからないお話です。陶で末子ができた、といいます。60歳過ぎでできたものか(ここも子貢が有利です笑)、しかも、その末子が楚にいって交渉できる年齢だったといいますから15歳+α、でしょう。
前446年ころ(子貢75歳)三度ところを変えいずれでも財を成し名声を得て、陶で天寿を全うして死んだ。

范蠡の場合は、越・斉・陶の三回でしょう。子貢なら現役時代・斉・陶、です。

⇒なお、史記貨殖伝にある、子貢の金儲けの話は、魯と曹の間の売買で稼いだとあり、曹は前487年に宋に滅ぼされた国で、子貢現役時代のお話です(・・孔門志士派の全国ネットワークを維持するためにも子貢の稼ぎが大事だったことは既述)。そして陶はこの曹の元都でもあり、范蠡に申し訳ないが)老後陶朱公だったのはやはり子貢、にしておきたい(笑い)。

⇒同貨殖伝の范蠡のところには、19年間で3度千金を2度人に散じたとあり、越を去ってから亡くなるまで19年+α、そんなものなのでしょう。
(子貢年表おしまい)

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1558.子貢年表(中)

1558.子貢年表(中):2011/6/8(水) 午後 1:55作成分再掲。

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子貢年表(中)


前488年(子貢33歳、孔子64歳、魯哀7年、呉王8年)孔子ら衛魯に戻る。夏、魯公が呉と鄫で会合。百牢の馳走の要求、子貢の活躍。

⇒楚の昭公が城父で変死するのが前489年の7月。孔子一行は呉王夫差軍と軌を一にして北上し、その年か翌年前488年には、孔子は衛に戻る。魯に帰りたいと孔子は思ったかもしれませんが、この時点では呉王夫差がどこまで本物か中原諸国には信用もなく、また反孔子勢力は魯に根強かったのでしょう、魯ではなく、衛に入ります。

⇒衛には、子路の義兄顔某もいますし(顔氏は孔子母方の縁者だったかも)子貢も衛出身だし、まあ知り合いがより多い。・・なんといっても、孔門志士派ネットワークは全中華各国で稼動していますから、衛と魯は兄弟、居場所はどっちでもいいというところだったと見ます。

⇒子貢は、すでに超外交官として有名だったでしょう。適宜に、魯のためにも衛のためにも(それ以外にも孔門志士派構想実現のためには)動くという存在だった・・
前487年(子貢34歳、魯哀8)春、呉が魯を伐つ。魯の季氏が執着の邾を取りましたので、邾が泣きつき呉が魯を伐ち、邾を元に戻す。

⇒ちか欲に走る魯季氏には改めてガックリきたはずですが、魯呉同盟は何とか維持され

前486年(子貢35歳、魯哀9)と前485年、呉が斉攻め、魯も援軍を出す。前485年3月鮑氏が斉悼公弑殺、呉王夫差陣門で3日哭泣、海軍を動員するも勝てず。前484年春(37歳、魯哀11)斉が魯を攻める、呉王夫差が救いに来て、5月呉魯は艾陵(かいりょう)で斉に圧勝。同年(前484年、子貢37歳、孔子68歳)孔子14年ぶりの魯への帰還。

⇒艾陵の圧勝を現実に見てしかも呉王夫差はその戦果を魯公に与えたといいますから、魯公や季康子もようやく呉王夫差を認め孔子ら孔門志士派を嘉する気持ちになった。その反映が反対派大夫を排して孔子を国老の礼を以ってで魯に迎えた、ということ。
前483年(38歳、魯哀12)夏、呉魯同盟の確認(橐皐の会合)。秋、呉魯にくわえて衛・宋(但し皇瑶です)も同盟に加えようとして失敗したようです(鄖の会合)。前482年(39歳、魯哀13)夏、魯公、単(ぜん)公・晋公・呉王と黄池会盟。

⇒この間、枚挙に暇がないほど、子貢の外交面での活躍は左伝や世家にあります。魯としては、呉との厄介な交渉ごとには子貢、反呉の交渉ごとには子服景伯、を優先して使った、ようです。

司馬遷が、仲尼弟子列伝の子貢で書いた五国調略に準えていえば(記事1526,27)斉との関連②では、前484年の鮑氏悼公弑逆の直後の状況とみていい(悪役は前481年の田氏になっているが、後述)

呉との関係でも③~⑤の基本はまさに艾陵の圧勝のこと、とみていい。呉王夫差ともこのころ堂々と渉り合ったのが子貢なのです、そして司馬遷はすべて孔子の指示だった①、とまでいう。(④は後の伝承とごっちゃの部分あり、後述)

司馬遷の時代にはまだ、子貢についてのこういう記録も残っていた、そしてこう編集した司馬遷孔子子貢のシナリオと見ていたことは間違いない。

なお、添付記事末尾の流れでは、司馬遷は、黄池会盟では晋が勝ったといっている(ここは史記にも両説流れており司馬遷も迷ったままだったのか?)、・・なら孔子の次の記事獲麟↓は単純で、=呉王夫差の黄池での敗戦を見たから、この可能性も排除できない、です。
前481年(40歳、魯哀14年)春、西狩獲麟。

⇒そして顔回宰我・司馬牛・子路孔子の絶望に従うように死んでいく。そして
前479年4月、子貢を待ちかねたといい子貢らに看取られて孔子卒す。73歳。

(以上、記事1556もご参照)

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さてさて、

⇒刮目すべきは孔子があきらめた後の子貢らの頑張り、です。これからがすごい
⇒少し戻りますが・・
同年前481年、6月宋桓魋(兄弟)宋から逃亡。夏、斉簡公を陳成子(=田常)が弑逆。冬、陳は呉派に戻る。(左伝)

⇒この年は、宋がついに呉同盟に就いた、陳も呉派に復した、とよみます。孔子は前481年には夫差ジエンド獲麟、とみたのですが、子貢ら残る孔門志士派はめげずに呉の支援活動を続けた結果でもあった、と見ます。

孔子が嘆いた斉田常の簡公弑逆であり、呉には討伐に向かう余力はなかったのですが、既に見たとおり

前480年(子貢41歳、魯哀公15年)春、成(魯の邑)が魯に叛き斉につく。夏、楚の子西・子期が呉を伐つ。秋、斉の陳カン(田常=陳恒、の兄)が楚に行く。途中衛で子路は「魯との同盟」を勧める。冬、魯は斉と和平、子服景伯が子貢を介添えに、田常は魯衛に仕えると約し成を魯に返還。(左伝)

⇒前480年には、楚に向かったらしい田常の兄を衛で子路が捕まえて説き、子服景伯と子貢が動いて田常の斉は魯衛と同盟した、といいますから、この時点では、斉も呉派連合に呼び込んだ、と見えます。呉の軍事力で出来なかった同盟を、子貢らの外交力で、斉を魯衛はじめ呉派に切り替えさせた、とみます。

⇒ところが足元からこれは崩れた
前479年(子貢42歳、魯哀16)正月、衛の世子蒯聵が戚から衛に入った、衛出公(輒)が魯に逃げてきた。(左伝)

⇒衛の北部の町戚に長く割拠していた蒯聵が遂に、晋の趙鞅のバックアップで、衛公に就きます。出公は魯に逃げてきたという、誰を頼ったか明らかです。子貢ら孔門志士派呉派です。

⇒この年前479年4月(現暦では2月18日とか)孔子は死にます。
前478年(子貢43歳、魯哀17)3月越王が呉を伐つ。晋の趙鞅が衛を伐つ。斉が衛を救援する。趙鞅は斉が出てくるとは思わなかったといって撤退する。(左伝)

⇒衛公はこのとき趙鞅派の蒯聵=荘公(在位は前479~478年)ですが衛の大勢は呉斉魯派だったようです。呉は楚に足止めされていますから、斉が救いに来た。趙鞅は斉が来るとは思わなかった(斉については卜さず)といって引き上げます。結局荘公を廃し続けて2人の公を立てますが持たず、翌年前477年には、出公が復位します。それで衛はしばらく安定しますから、この時点では、魯斉呉の同盟派の勝利です。・・動きが取れなかった呉のために、田常斉が汗をかいた形です。ここも子貢ら孔門志士派の段取りだったとみます。
前476年(子貢45歳、魯哀19)春、越は楚を侵して呉を油断させた(左伝)

⇒と左伝自身が、すでに、越と楚が同盟できていること、を示唆します。白公の乱(前479年)を経て楚国内をリシャフルした実力者葉公(=沈諸梁)はこの時点で、明らかに呉との同盟を捨て越に就いたと見なければなりません。

⇒単純に考えていいようです・・楚太子建の子の勝=白公、は呉で育って呉の近くの白に白公となった、というのですから、白公は呉王夫差の仲間だったのです。・・本人が乱暴ものだったからと左伝は一貫してかいていますが、前479年、白公を排した時点で楚の主力葉公(=沈諸梁)は呉王夫差から離れ独立派ないし越との同盟に切り替え、前476年のこのときには、明らかに呉を裏切り越についていた。=これが呉を誤られて(油断させて、左伝)の意味です。
前475年(子貢46歳、魯哀20、呉王21)夏、斉と魯が廩丘で会合、鄭を救うべく晋を伐つ相談、鄭が辞退したため立ち消え。趙鞅の子の趙襄は呉との同盟をやめ越に切り替える。(左伝)

⇒子貢ら孔門志士派と田常斉は春の段階では、呉派同盟を維持するつもりでいたようです。しかし鄭が辞退して立ち消え。

⇒一方で、趙鞅の子の趙襄が、呉王夫差と父趙鞅は同盟しているが「呉王は乱暴で中原でも嫌われている、越王が呉王を伐つなら協力する」と越に伝え、そして「晋は呉との黄池会盟を解消する」旨を呉に伝えた、と左伝は明記します。

⇒楚の葉公の動きが数年先行しています。この春では、子貢ら孔門志士派はまだ呉王夫差派のようですが、夏以降には呉を見限ったと見えます。晋も呉を見限って越に就いたようです。

⇒だから、子貢ら孔門志士派の呉王から越王への方針変更は、前475年の夏と見ていい。左伝に従えば、現実の呉王夫差への失望に加え、楚の葉公との連携・晋の趙襄(趙鞅の子、足元で知伯がのし上がってくる状況)の接近、があって、孔門志士派として方針を切り替えた。

⇒子貢の、五国調略④はこの前後でしょう。超外交官の子貢がおそらく魯の外交相の資格で越に入った・・越王は道を掃除し自ら御となって子貢を迎えた、というのも嘘ではない、と見ます。
前474年(子貢47歳、魯哀21、呉王22)5月初めて越人が魯を訪問。8月、斉・邾・魯で斉の地<顧>で同盟再確認(左伝)

⇒魯と越との外交関係が始まったことを左伝も明記します。

⇒前479年の孔子の死後、子貢は6年にわたり庵を結んでいたと世家はいいます。実態は孔子の遺志を継ぎ孔門志士派の中核にあって諸国工作を続けていた。ここに孔子が見込んだ呉王夫差をついに見限って越王勾践に乗り換えた、のです。

⇒8月斉・邾・魯の同盟再確認。ここで呉から越へ旗頭の切り替えが確認、これには楚も晋も異存ないことも報告された、でしょう。

⇒記事1548の「魯人の皐(とが)ある、数年覚らず、我をして高踏せしむ、ただそれ儒書、もって二国の憂いを為す」=「魯人之皐、数年不覚、使我高踏、唯其儒書、以為二国憂」もこのときの歌でした。ずばりです。「孔子呉王夫差を立てて動いた、あれあれ今度は越王勾践を立てて動こうというのか。孔子が死んで5年もたつのに、中華和平だ周秩序復興だ、と高踏的な理想を追って、斉と魯の2カ国を右に左にと憂え迷わせる。諦め悪いな、罪作りな連中だな、孔門志士派は。」です。
前473年(子貢48歳、魯哀22、呉王23)、越王勾践がついに呉王夫差を破る、夫差自害、呉滅亡。このあと、越王は北上し徐州会盟(晋・斉・魯など)、周王からヒモロギと侯名を賜る。史記

⇒すべて子貢の五国調略どおりです。大義名分は中華のための和平であり周朝尊王です。越王がどこまで本気だったかはともかく、大義名分は大義名分、晋・斉と会盟し中華和平を宣し、周朝を貴ぶ(尊王)ことですから、演出とおりに行動した・・。こんな時代に、こんな理想を掲げてまじめにやれるのは孔門しかないでしょう、楚も越も晋も斉もそんな古代的発想は絶対できなかった、とみます。
⇒このとき子貢は、魯公のそばか、周王朝代理人のそばか、それとも越王のそばにいたものか・・いずれにせよ徐州会盟がなり越王が「淮水の地方を楚に与え、呉が侵略した宋の地を宋に返し、魯には泗水の東、方百里の地を与えた」(史記越世家)ときには、(呉王夫差を裏切った後味の悪さはあっても)私利私欲に走らず、中華和平がなったという達成感はあった、とみる。
(つづく)

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1557.子貢年表 (上)

1557.子貢年表 (上):2011/6/8(水) 午前 11:07作成分再掲。

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子貢年表


前520年、子貢、端木賜、衛に生まれる。孔子より31歳年少。

前506年(子貢15歳、孔子46歳、魯定公4年)ころ、子貢は魯の孔子塾に入門。孔子は、斉から引き上げ後で、三桓・陽虎らの横暴を避けて集中勉学弟子育成中のころ。
前495年(子貢26歳、孔子57歳、魯定公15年)春、邾公と魯公面談。両公の礼法をみて両公とも命の長くないことを、子貢察知。(左伝)

⇒これが多分子貢の左伝初登場。

⇒この前年、大司寇の孔子は斉の80人の女楽の策で、魯公および季桓子によって、魯を追われ衛に移っている。三桓攻めのさい子路は季氏家宰だったがおそらく失職、子貢は礼法指南のような形で魯に残っていた可能性大。

⇒前495年秋、定公葬儀、子貢あたりが葬儀屋を務めたのではないか。孔子はこの葬儀には参加しその後再び衛に入る。このときには、子貢も魯での職を辞し孔子に従った、とみる。
(前年の前496年、??の乱に巻き込まれ孔子は衛を出奔し匡や輔の難に遭う、このときは子貢が居なくて酷い目に遭うわけで如才ない子貢が孔子一行に就いていくことを選択する、とみる。)
前493年(子貢28歳、孔子59歳、魯哀公2年、衛霊公42年)10月衛霊公の葬儀、孔子らとともに子貢も参加。

⇒霊公と話が合わないからといって翌日出奔ではなく、礼を尽くして霊公の葬儀には参加。42年公位にあった霊公だから各国からも多くの弔問があり、とりわけ、前年前494年春、夫椒会稽で越を破った呉王夫差は各国外交団の新しい話題になった・・

孔子一行はこの年末か翌年には意を決して南方陳蔡に向かいます・・
前492年(子貢29歳、孔子60歳、魯哀公3年、呉王夫差4年)子貢、孔子と共に陳にいる。(左伝)

⇒このころには、新鋭呉王夫差の力をかりて、腐りきった中原に中華和平を実現、周朝秩序を復活する、(ひいては魯や衛の郷土のためであり魯や衛公への恩返しでもある)という大望が、孔子らの活動方針となり、そのためにひっちゃきに動いているのだとみます。頭脳明晰の若き子貢辺りが急先鋒だったのかも。孔門志士派の成立、でもあります。

⇒おそらく、一方で、魯や衛には孔子塾はそのままあった、とみる。いわゆる学窓派のひとびと、実際に官職や仕事がある人はそのまま郷土にいて、高弟を中心に六芸の私塾学校運営を続けていた・・。

⇒中華中原和平・周朝秩序復興を掲げ呉王夫差抱き込みに南方陳蔡につき従ったのが、いわゆる孔門十哲たち=孔門志士派、なのです。・・そう見ると論語孔門十哲についての孔子の独特の感慨もよく理解できまず。

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⇒以下、諸国遊説部分は、左伝も含め、現伝資料群は殆ど何もない(孔子自ら春秋経伝を見よと言ったというのに、です)=後に孔門学窓派によって意図的に消されたことを示しているとみますが・・ので、状況証拠から推定するしかありません。
前492~489年、子貢孔子ら陳蔡楚呉など徹底訪問、人物を見、呉王夫差は孔門志士派に答えうる実力者であり、そうさせるための、南方情勢固めを行う。

孔子らは表面的には、中原名門魯の宰相まで勤めた男が、有力弟子たちを連れて南方の田舎にやってきた中央の学問の先生たちなのですから、まずはどこでも出入り自由だったでしょう。

⇒で、孟子論語も示唆するとおり、陳と蔡には上下とも人材なく日和見の集団、楚は古い王国だが中原ほど下克上は酷くなく特に葉公(しょうこう)という有力パートナーを見出す。

⇒中原各国、魯・衛・曹・鄭・宋にも呉王夫差のための調略を進めます。各国共に半信半疑だったでしょうが、魯・衛・曹・鄭らは対晋対斉対策もあって親呉を徐々に強める。但し、宋は司馬桓魋(かんたい)らが前から親晋の趙鞅派ですから節を変えなかった。弟の司馬牛は孔門の一人としてスパイ役を務めます。

また、鄭の門外で孔子が迷子になり野良犬みたいといわれ、子貢が探す話もこのころの逸話とみます。

孔門十哲のうち、少年子夏(前507年? -前420年?)は晋の温国出身で対晋包囲網形成のためのメッセンジャーボーイ、子游(前506年 - 紀元前443年?)は70数名の孔門高弟のうち唯一呉出身というがこのころ少年子游は呉対応のメッセンジャーボーイであったと見るべき、ことも既述しました。


⇒残念ながら、この面での、孔子らの呉との直接交渉の形跡は、仲尼弟子列伝の子貢伝以外、殆どない。

・・呉には記録があったと見ますが呉が滅亡した国であること、呉を吸収した越にとってもそれらは必ずしも愉快な記録ではなかったことから、徹底して記録が抹消された可能性が強い。

・・なお、子游は呉の人で後に江南に儒学を伝え江南夫子ともいうらしいが、陳蔡時代は少年でメッセンジャーボイに過ぎず呉滅亡を見たあとの彼の感慨は如何なるものであったか、孔子や子貢とは違い、その本質が学窓派的だったこともあって、志士派の南方記録を意図的に消す側に回ったことも十分ありうる、でしょう。
前489年(子貢32歳、孔子63歳、魯哀公6年、呉王夫差7年)呉が陳攻め、楚昭王は陳救援に向かい城父に布陣。孔子ら陳蔡の難(厄)。子貢が楚陣に向かい楚軍が孔子らを救済。楚昭王は陣中で変死。楚は戦わず撤退。

⇒繰り返すとおりで、3年の工作もあって呉は遂に本格北上を開始した。・・楚昭王以外の令尹子西・司馬子期(いすれも昭王の兄弟)や葉公(しょうこう)は、孔子らの調略もあって、不戦派であり、昭王を暗殺するという非常手段で呉とは戦わずして引き上げた。

⇒事実上、呉と楚の秘密同盟がなり、やがて陳蔡は呉楚に乗っ取られるだろう、呉楚同盟の仕掛人たる孔子を殺せ、と陳蔡一部大夫らに襲われたのが孔子らの陳蔡の厄、です。

弁舌の子貢が楚に救いを求めに行くこと、また、虎や野牛が野にさまよう比喩の問答(顔廻・子路・子貢三人対比)、また楚の重臣達が孔子の弟子達を非常に優秀で恐れる様などが、世家にある。・・孔子一行はさまよっていても虎や野牛であり、楚の諸卿を恐れさすほどに、孔子らの活動は楚の幹部に知られていた=学窓ではなく志士武断派のイメージ、です。

(つづく)

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