1556.孔子年表(下)

 

1556.孔子年表(下) :2011/6/7(火) 午前 10:18作成分再掲。

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承前。この後、抑えておきべき大事なところは
①魯や衛ら中原伝統小国は、この時期、東に斉、西北に晋、南には楚、という大国に挟まれ右に左に揺れた時期です。

②しかも、このとき魯(前495年)も衛(前493年)も代替わりがあって、跡目争いが加わり状況は流動し大夫クラスの勢力争いもひどくなります。晋の趙鞅は??を使って衛に介入し、斉景公は魯に介入しようとします。斉の歴史の中でも繁栄期の一つですが、その斉景公も前490年に死に公子たちは魯らに避難、鮑氏や田氏が下克上して国を押さえ、魯を侵攻しようとします。

③これが、この時期の孔子らをめぐる状況です。こんなときに政治や礼法を語る彼等がのんきに私塾で座学や礼法実習に明け暮れていただけとはそもそも考えがたいでしょう!2400年後の日本の松下村塾に似てさまざまな議論や計画がなされた、のです。

もう一点。彼等は、冠婚葬祭屋でもありました。おそらく諸侯諸大夫の死があったとき彼等の出番、しかも周朝下各国から人々が集まり、葬儀屋(時に通訳も)としては誰が誰で何が何か知っている必要もある、国際情報交換情勢分析の場でもあったに違いない・・何日も何ヶ月も喪や葬式にかけたというなら話題はどうしてもそっちへ行ったものでしょう。そういう意味では孔門は本来的に情報のプロでもあるのです。

呉王夫差が、遠い南方の夫淑会稽で越王勾践を破って、彗星のごとく中国社会に登場した。それまでの常識では南方は夷狄の世界、中華中原とは関係なし、です。しかし、晋も斉も楚も王・諸卿・大夫が下克上に勢力争いをするという腐った伝統社会に対し、孔子らには、呉は王絶対専制の新しいタイプの国に見えた。

また古典を学ぶ孔子たちにとっては、舜も禹も南方東夷の人と知っていますから、南蛮東夷というより舜禹の再来と見た可能性さえある。・・その後の儒教歴史観で物を見てはいけない。司馬遷すら呉が周朝と兄弟の国とは孔子から学んだといい、呉を30世家の筆頭に置いた、のです。

孔子らが陳蔡に下ったとき、すでに、呉王夫差を中原に呼び込み、中華世界の和平統一と周朝秩序復活に利用したい、という明確な方針、はできていた気、がします。

そういう思いで陳蔡に3年いた。・・孟子論語も示唆するとおり陳蔡には人はいなかった。何らかの機会に呉王夫差にあった、黥面文身断髪だったのかもしれないが孔子らは夫差にいい物を見た=要するに中原都会人からすると田舎の純朴さ・力強さなども含めて。もちろん伯?(はくひ)・伍子胥孫武にもあったろう、軍事的な可能性もみたろう。そして、さらに楚にも出入りした、古い王国ではあったが葉公という有力者を見出した・・。

⑥ここから後の基本シナリオは、孔子子貢の五国調略路線(記事1527)どおりです。司馬遷も前489年以降約10年にわたる5国のシナリオは孔子子貢らによって書かれたと信じていたとみていい。
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孔子を評価しあるいは罪したければ春秋をみよ」が司馬遷の書く孔子の遺言です・・現伝春秋左伝を中心に見ます。


前494年(孔子58歳、魯哀公元年、呉王夫差2年)、呉王夫差が越王勾践を夫椒(ふしょう)会稽で破る。越大夫種(しょう)が勾践の助命嘆願、呉の伍子胥は殺せというが、夫差聞かず、越王を許す。呉越和平が3月と。

⇒「この記事が春秋経本文にないのは、呉も越もこれを(中原に)告げてこなかったため」と左伝。
前494年(58歳、哀公元年、衛霊公41年)から前493年10月の衛霊公葬儀まで、は孔子は衛にいる。

論語も世家も、衛の霊公に戦のことは知らない、といって翌日にも陳に向かい、途中、宋で桓魋の難に遭うように書きますが、これはいずれも間違い、とみます。6万斗の粟を捨扶持に給してくれた霊公です、ケミストリが合わないからといって翌日出奔するような孔子たちではない。

⇒衛霊公は在位42年の長きに渡りますから各国から弔問客が来たでしょう、呉王夫差のことも話題になった・・・
前492年(60歳、魯哀公3年、呉王夫差4年)魯の桓僖宮が焼けたことを、孔子は陳で聞いた。

⇒桓僖宮など数代も前を祭るのは三桓の先祖だからで過剰な礼との孔子の発言(左伝とその解釈)。この辺は、孔門学窓派の発想でしょう。

⇒この後、魯の春秋経本文にしては尋常でない量の陳蔡楚呉の記事です。うけて、春秋孔子伝には相当なコメがあったと見ますが、後の孔門学窓派の手で多くは変造削除されたと見ます。
前489年(63歳、魯哀6)呉が陳を伐つ。楚昭王が国境城父(じょうほ)に陳を救済すべく布陣。孔子ら陳蔡の厄(難)。7月城父で楚昭王は暗殺。楚呉同盟。呉軍は北上中原を目指す。孔子も衛に帰る。

⇒弊記事1515~1517
前488年(64歳、魯哀7)夏、魯公が呉と?で会合。

⇒百牢の馳走の要求、子貢の活躍。

⇒何度も言いますが、南方城父で楚昭王がなくなって、1年足らずで、中原の小国魯が呉と同盟しています。・・ずっと孔子らが動いていた・工作した結果、とみます。

⇒そもそも呉の田舎の王様が、中原を目指すなど当時もその後も「滑稽」なことで、このこと自体が孔子ら孔門のこれまで数年に渡る呉王夫差へのご進講・教育の結果と思います。伍子胥など地固め派は苦虫をつぶすような思いだったでしょう。呉王夫差はやはり孔子らの大望・理想を理解する「何か」を持っていたのです・・。

⇒この年、親晋の宋は衛や鄭を攻めています、呉の魯による中原進出が晋の趙鞅を刺激したのです。
前487年(65歳、魯哀8)春、呉が魯を伐つ。魯の季氏が執着の?を取りましたので、?がなきつき呉が魯を伐ち、元に戻します。

⇒これも戦争としては魯が完敗したようですが、子貢の活躍で、最小限の譲歩で済んだようです。公山不狃の愛郷心や武城のことなど、興味深い話題がいくつもあります。ですが孔子らにしてみれば、中原和平の大望を図る中で、目先の利を求めた魯季氏の愚行、には頭にきたことでしょう。

⇒弊記事1526、1535。
前486年(66歳、魯哀9)と前485年、呉が斉攻め、魯も援軍を出す。前485年3月鮑氏が斉悼公弑殺、呉王夫差陣門で3日哭泣、海軍を動員するも勝てず。
同年晋の趙鞅も斉を攻める。南方で陳楚の戦い、呉王夫差南下して陳を救う。
前484年春(68歳、魯哀11)斉が魯を攻める、呉王夫差が救いに来て、5月呉魯は艾陵(かいりょう)で斉に圧勝。艾陵の戦いでは、呉の側面支援だったようですが、季氏家宰の冉求(ぜんきゅう)や樊遅(はんち)ら孔子の弟子達が魯の将軍として大活躍。

⇒孔門志士派は戦争もやったのです。現伝左伝さえ記録しています。孔子「義に勇むもの」発言。

⇒弊記事1536,1537
同年(前484年、68歳)孔子14年ぶりの魯への帰還。衛の孔文子と「祭りのことはやっても軍のことは知らない」「鳥は木を選ぶが木は鳥を選べない」と高踏なセリフで衛を去る。魯の季康子ら反対大夫を外して国老の礼で孔子を迎える。

⇒艾陵の圧勝の後に、魯は孔子を厚く迎えた、と現伝左伝・・事実でしょう。魯公や季氏が孔子らのシナリオを初めて信じたのです。その証です。ただし、この時期の孔子は衛にいても魯にいても同じ、子貢はじめ弟子達はすでに衛魯(のみならずですが)の要職にあって、それぞれに孔門志士派の夢実現に100%稼動していた、とみます。
前483年(69歳、魯哀12)夏、呉魯同盟の確認(橐皐の会合)。秋、呉魯にくわえて衛・宋(但し皇瑶です)も同盟に加えようとして失敗したようです(鄖の会合)。

⇒斉に勝った艾陵の戦いの余勢をかって、中原大同盟、を意図したようです。翌年の黄池会盟の下準備のつもりだったようですが、うまくいかなかったようです。少なくとも、宋が一本化しなかった、後には晋の趙鞅がいたこと、は間違いないでしょう。

⇒弊記事1538
前482年(70歳、魯哀13)夏、魯公、単(ぜん)公・晋公・呉王と黄池会盟。6月越王が呉を伐つ。晋が衛を侵す。陳の政変?。蟲(しゅう)が二度でた。(左伝)

⇒「呉王夫差が高転びに転び始める」とは何度も書いたが、左伝は当に、そのニュアンスたっぷりです。前年鄖(うん)の会合辺りから様子がおかしい・・事態がほころび始めていることを示唆します。

⇒黄池会盟も、周の代理人たる単公が立会人で、晋の大軍と呉の大軍が対峙しただけ。魯公はこれまで孔門の言うとおりに動いてうまく行っていたからついて来ただけ、流石に様子がおかしいと感じて今度は子貢ではなく子服景伯を表に立てて早々に逃げ帰ってきた(現伝左伝)。

⇒さすがの孔門にも慢心が出始めてどこか詰めが甘くなっていたのかもしれません・・

⇒弊記事1539
前481年(71歳、魯哀14年)春、西狩獲麟。

⇒おそらく、春秋孔子伝はここで止まっていた、そういう強い伝承があった、だから前漢時、公羊伝も穀梁伝もここで打ち切った。

孔子が見た「麟」とは実際何だったのか?大鹿か何かか?中華統一和平の聖朝にはでるという麒麟が、時と場所を間違えて登場した、との思いは孔子主観的に真実であり麒麟に見えたのでしょう。

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孔子年表ですから、孔子の死までは追います。
同年前481年、6月宋桓魋(兄弟)宋から逃亡。夏、斉簡公を陳成子(=田常)が弑逆。冬、陳は呉派に戻る。

孔子呉王夫差の将来を予想し、楚も越もその他のだれも呉王夫差の代わりは務まらぬと読みきって、獲麟の後は行動も記録もやめた。この後は、子貢あるいは孔門志士派というネットワーク自体が持つエネルギーで、孔門志士派はめげずに大望を追いかけ続けます。

⇒子貢自身は、孔子呉王夫差を見切ったようには見切れなかった・・志士派でも相当議論もしたでしょう、結果、呉王夫差支援を前475年ころまで続けた、とみます。

⇒この年は、宋がついに呉同盟に就いた、陳も呉派に復した、とよみます。
なお前483年(あるいは前481年)顔回(前514~)32歳ないし34歳で夭折。孔子は「天、われを滅ぼせり」と。前481年、斉での田常の乱で、簡公に仕えていた宰我は殺される。前480年、衛での政変で、衛の孔家邑宰を務めていた子路は戦闘死。

⇒おそらく、宋の司馬牛がどこに亡命することもなく孔子の下に来て仁・君子・兄弟を語り魯郊門で自殺し、怒った兄の桓魋が魯の孔子塾に押しかけてきて難に遭うのも、このころです。

⇒最も深く孔子を理解し愛した人々は、孔子の絶望の中で、孔子に先立って死んでいったようにさえ見えます。孔子と弟子たち=但し孔門志士派です、の強いつながりです。
前479年4月、子貢を待ちかねたといい子貢らに看取られて孔子卒す。73歳。

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1555.孔子年表 (上)

1555.孔子年表 (上):2011/6/6(月) 午後 1:42作成分再掲。

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孔子年表、をまとめます、前半部分は通説とは変わりません。しかし縷々書いてきたとおり、

14年に及ぶ諸国遊説は、殆ど間違い・・活発な中華中原和平と周朝秩序回復のための、積極的国際政治活動をおこなっていたのが、前493年以降、最晩年まで。この前提で、みると、よく分かる部分が沢山あります。

②年表的に、通説がもう少し考えていいと思うのは、魯や衛の大きな葬儀には、孔子らは必ず参加したと見るべき、こと。孔子らの活動の三分の一か四分の一は冠婚葬祭屋です。そんな彼等が少しでも世話になった先でちょっと嫌なことをいわれたからと言って子供ではあるまいに翌日出奔するなどということはなく、たとえば亡くなれば数ヶ月等定められた喪も務めて(少なくとも魯や衛の)公や有力大夫の正式葬儀にはできるだけ出た、と見るべきです。そう前提すると、孔子らの行動表にも結構「たが」が嵌ってきます。

③むしろ書きたいのは子貢の年表ですが、これはごっちゃにせずに、別記事にします。

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基本は、史記孔子世家ほか)と現伝春秋左伝、によります。⇒racコメ。


前551年(1歳)、孔子生まれる、魯国鄒邑、母は顔氏女、父は不明。

⇒シングルマザーで父の墓も長く知らず葬式の真似事をしたというから、ファザコンで礼法コンプレクスの可能性大。
前535年(17歳)ころ、士を招いた季氏の宴会に出席しようとするも季氏家宰陽虎に追い返される。

⇒勉強好きで優秀、身体も大柄で見るからに父親が誰であるのか分かった可能性あり。但し貧しく名門でもなかったでしょう。
前530~520年(20代)、孟氏父の遺言?で、息子達=懿子と南宮敬叔の兄弟の知遇をえる。魯国政府に就職、倉庫係りや家畜係りをして実績を上げる。その結果、魯公のスポンサーシップで南宮敬叔と共に周に遊学。

⇒周で老子に学んだとは信じない。周だけかはどうかは不明。孔子20歳代、若い公子や大夫の子供達を引率して諸国勉強の機会はあった、とみる。すでに私塾を持っていた。
前522年(30歳、魯昭公20年)、斉景公が晏嬰とともに魯を訪問、孔子も斉公に見え(儒家的とはいえないフツーの会話で)斉公の気に入られる。

⇒弊記事1490
前517年(35歳、魯昭公25年)、鶏闘でもめ季氏ら三桓(季・孟・叔孫氏)に圧され、魯昭公は斉に亡命。付従うように孔子も斉に入る。

孔子は斉の大夫某に仕える。魯昭公は亡命中という事態ながら魯公に直接仕えることもできない低い身分らしい。

⇒斉で楽を学ぶ。(韶=舜の音楽をきいて三月肉の味を知らず、また襄氏から楽を学ぶのも当時人物が集まっていたはずの斉でのことと考えます、記事1506はこの限りで未修正ですが訂正します)

⇒斉景公に認められ季氏並とは行かないが厚遇しようとの誘いもあるが、晏嬰はじめ斉家臣たちの反対で実現せず(要するに儒家は実際的でなく役に立たない、と。なお景公が評価したのも儒の面ではないと読みます)。また斉公は老いたと言い訳もしますが、斉景公は長期安定政権(在位548~490年)でこの後も27年公位にあり必ずしもあたりません。
前515年(37歳、魯昭27年)斉で危険を察知し、魯昭公を斉に残したまま、孔子は魯に引き上げる。

⇒このときの斉滞在は2年程度です。
前510年(42歳、魯昭32年)斉に亡命中の魯昭公が斉で死に、弟の定公が魯で立つ。

⇒権臣季平子の傀儡であった、とみられます。
前505年(47歳、魯定公5年)季平子が死んで季桓子があとを継ぎます、魯国第一の権臣ですが、三桓の他の二家、孟氏や叔孫氏も強力です。季桓子には、陽虎・仲梁懐・公山不狃の家臣があり、これまた仲たがい中、陽虎と懐が悪く不狃が中にはいっていたが、前505年秋、ついに陽虎は懐と懐を可愛がる桓子を排して、魯の政治を牛耳る。
このころ陽虎は孔子に出仕を勧めるが断って・・詩書礼楽に励む、弟子ますます増える。

前502年(50歳、魯定公8年)、陽虎と不狃が反乱し、三桓の嫡子を排そうとする。

前501年(51歳、魯定公9年)、陽虎は斉に亡命し、不狃は費にあって孔子を誘うが、行かなかった。

⇒陽虎や不狃に誘われて、孔子の気持ちは動いた節がありますが、筋を通そうという子路が止めます。・・これが魯定公の注意を引いたものと見ます。
前500年(52歳、魯定公10年)、魯定公と斉景公が夾谷(斉の地)会見。孔子は魯公のお供(相)として斉の脅迫を斥ける。外交上の貢献。

前498年(54歳、魯定公12年)夏、三桓の勢力を削ぐべく、三桓居城を破壊。季氏費城・叔孫氏郈城は破壊するも孟氏咸城は残る。魯国政治体制上の貢献。定公は子路を季氏の家宰にし、叔孫氏郈城を破壊。季氏費城は下克上で公山不狃らが占拠しているので戦争になる。孔子らの活躍で勝利し、公山不狃らは斉に逃亡。孔子らは費城を破壊。が、孟氏成城は、その城主公斂処父が孟氏を動かし、「成は斉への備え、孟氏の支え」と主張し反対、定公自ら成を囲みますが、失敗。(~前497年(55歳、魯定公13年))

孔子(季桓子につぐ魯国第二の権臣である=大司寇)の指導でこの間、魯国治世安定国力増大・・。魯国民生治世上の貢献。

⇒弊記事1493。
前496年(56歳、魯定公14年)孔子は従来の司法大臣に宰相代行も兼務し「喜色あり」。門人曰く「聞く。君子、禍至りて懼れず、福至りて喜ばず、と」。孔子曰く「この言有り、「それ貴を以て人に下るを樂しむ」といわざるか」と。(以上、孔子世家)

⇒以上、弊記事1494。
前496年(56歳、魯定公14年、衛霊公39年)斉の女楽80人が送られ、定公と季桓子に裏切られ孔子が魯を追い出される

⇒この辺は、1~2年ずれの可能性があります。つまり、孔子が「喜色」あって魯国を統治する時代がもう少しあったのかもしれません。・・左伝系と世家系では少し違う。

⇒以上、弊記事1495~1499。

前496年(56歳、魯定公14年、衛霊公39年)魯の宰相代行を辞めて直後に衛にはいり、霊公や姦婦南子の覚えはよかったが、蒯聵の乱で誤解されて、衛を出奔。

前495年(57歳、魯定15、衛霊40年)晋の仏肸に招かれていたこともあって晋を目指すがこれまた子路が止め、匡で陽虎と間違われ囚われ、また、公叔氏の蒲に拠る衛への反乱に巻き込まれる。

⇒所謂匡の難・蒲の難です。衛霊公の最末年で跡目争いと共に衛周辺が不安定になった時期のこととみます。前496年春に公叔氏が衛に叛くことは左伝に明記あります。

⇒が、蒯聵の問題や魯出奔の経緯等衛の霊公の誤解も解けて、前495年末には魯定公の葬儀あり出席の上、

前495年末か前494年(58歳、魯哀公元年、衛霊公41年)には衛に戻る。霊公は郊外に厚く迎える。

前493年(59歳、魯哀公2年、衛霊公42年)孔子は衛に居る、霊公とはケミストリ合わないが、そのまま居て、前493年、夏、霊公死ぬ。その葬儀を見送った後、

前493年末か前492年(60歳、魯哀公3年、衛出公元年)孔子らは、陳蔡南方に向かう。彗星のごとく現れた呉王夫差に注目し始める(前494年、呉王夫差は越を夫椒会稽に破る)

⇒弊記事、1500~1503

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ここから後の約20年こそが、孔子や子貢ら孔門志士派には自信に溢れ最も輝ける20年だった、とみます。春秋孔子伝は前481年獲麟まで、そしてめげることなくこれを引き継いだ春秋子貢伝には前468年の魯哀公の衛への出奔まで、国際情勢を踏まえて彼等の考え方・行動・結果など多くのことが書き込んであった・・。しかし、後の孔門学窓派は無慙にもこの殆どをデリートした。だから、その400年後の司馬遷にさえ、そしていま2500年後のわれわれは司馬遷以上に、殆ど何も見えない。以下、いくつもの微細な残渣から復元したrac想像です。
(つづく)

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1554.子貢のその後、范蠡伝承とのダブリ

1554.子貢のその後 :2011/6/6(月) 午後 0:05作成分再掲。

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承前。子貢がその後どうなったものか、大きな関心のひとつ、です。

しかし、これについても、見事なほどに不透明。
獲麟か孔子の死あたりから、子貢は子贛(しこう)と書いてありますが、この贛はもや・煙霧の意味らしい。後世孔門学窓派の仕業というより子貢本人の改名、とみますが、文字通り、ますます不透明で韜晦的です。

司馬遷史記が「仲尼(孔子)弟子列伝」「貨殖伝」に書くから、古来、子貢は、「魯や衛の宰相にもなった」、「魯曹の間で売買し大もうけした」、「孔子が中華各国世界で有名になったのは子貢のおかげ」などいうが、いつどんな風にの具体的姿は、はっきりしない・・のです。

孔子の死(前479年)のあと、哀公27年(前468年)までの子貢については、rac的には前記事まで縷々想像しました。


要は・・何度でも繰り返しますが、

1)身は孔子の墓冢のそばに庵を結んで6年居た、

2)しかし実は孔門志士派のネットワークを引き継ぎ、中華和平と周朝秩序の回復を求めて、呉王夫差の支援を前475年ころまでは続け、その後越王勾践に乗り換えて、天道の地上での実現を計り続けた。

3)越王勾践は、徐州会盟まではともかく(逆に子貢ら孔門志士派は利用された)、その後は呉王の二の舞は拒否、自国第一大切主義で、呉王夫差のような天下布武し統一中華の夢を追うことはしなかった・・

4)子貢ら孔門志士派は、やむなく要求度合いを一段ひくめる。つまり、魯や衛の、有力大夫クラスを排除し諸侯が国を治めるという古典的周朝侯国の復活を目指す。魯公や衛公に提案すると共に、越王の助勢を求めた。少なくと魯哀公と衛出公はこの話に乗った。諸大夫との摩擦は激化、ついに国を出奔するまでになるが、越王および越国はいわばおざなりな対応。衛については出公の占拠地(城?)の割譲、魯哀公は越に身を寄せるがおそらく三桓の賄賂工作でことはならないままで終始する。

5)越王勾践に3)はもちろん4)もやる気がない、ことを子貢ら孔門志士派もはっきり認識、・・こうした中華革命的政治活動をついにやめてしまう。これが魯哀公越亡命(前468年)の後むなしく越で客死させてしまった(実際にはなにがあったものやら・・)、前467年のこと、

と思います。

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racの次の関心は、この後の、子貢、なのです。
子貢は孔子より31歳若いといいますから、前520年生まれ、魯哀公を空しく越で客死させたこのとき54歳、です。

・・子貢は、孔子が54歳の時には何をしていたか、思い返したことでしょう、後の儒家がいうように知天命や耳順などという穏やかなものではなかったことは子貢ははっきり知っています。孔子54歳は魯で三桓攻めを行うも季氏に裏切られ魯の宰相格をやめ衛の霊公に仕え始めるころ、でしかありません。この後、衛霊公につかえて悶々とするも、遂に呉王夫差を見込み孔門十哲を引きつれ南方陳蔡に乗り込むのは前493年ころ、孔子59~60歳のときです。子貢もまだまだ、一暴れも二暴れも、と思ったに違いない・・


ここでまた、連想のrac奇説珍説なのですが、

結論的には、越の范蠡の後半生の話と伝わる多くは、そのまま子貢のものだったのではないか、と思うのです

これも証拠はありません。同じ年にビルゲーツがウォレンバフェトが、あるいは松下幸之助トヨタ某がそろって二人現れるか、というようなものです・・現代にも等しい春秋の混乱戦乱時ならあるとも言えそうだしそこまではありそうもないとも言える。

 

范蠡について・・
范蠡については、史記の越王勾践世家が詳しい、司馬遷は同世家の最後部分は、范蠡の記述にかなりの文字数を投じています。・・正直言うと、孔子弟子列伝で子貢については五国調略の話だけを書く、そして越王勾践世家の〆には越王のことではなく范蠡にバランスを失して書く。この二人に、変なところで変なことを尋常でない力の入れ方で書く、司馬遷の筆が、妙に印象的なのです。

つまり、史記では、越王に絶望した賢謀臣=范蠡
「狡兎死して走狗烹られ、蜚(=飛)鳥尽きて良弓蔵(かく)る」(狡賢い兎が死ねば猟犬は煮て食われてしまい、飛ぶ鳥がいなくなれば良い弓は仕舞われてしまう)と越王勾践を見限って去っていく。これがどんぴしゃ、子貢が越を去る、前468年ごろ、なのです。

そして范蠡は、この後、

「斉で鴟夷子皮(しいしひ)と名前を変えて商売を行い、巨万の富を得た。范蠡の名を聞いた斉は范蠡を宰相にしたいと迎えに来るが、范蠡は名が上がり過ぎるのは不幸の元だと財産を全て他人に分け与えて去った。 斉を去った范蠡は、かつての曹の国都で、今は宋領となっている定陶(山東省陶県)に移り、陶朱公と名乗った。ここでも商売で大成功して、巨万の富を得た。老いてからは子供に店を譲って悠々自適の暮らしを送ったと言う」(ウィキ范蠡より)

まさに、子貢の伝説と、相当ダブルのです。巨万の富、斉で暮らした、宰相にといわれる、・・。

言うまでもなく、子貢(rac説の)も范蠡(通説)も、人生の前半は、戦乱に明け暮れ、国際政治軍事の陰謀術策の仕掛け人、智謀で忠義のひとでもあります。最後の最後に越王勾践を見限ることも、rac描く子貢と同じ、こうまで仕えてなお疑うか、という気持ちは一緒です。
「越王の容貌は長頸烏喙(首が長くて口がくちばしのようにとがっている)です。こういう人相の人は苦難を共にできても、歓楽はともにできないのです。どうして貴方は越から逃げ出さないのですか」と、同輩の大夫種(しょう)に言ったという(なお種はぐずぐずしていて、越王勾践に殺されます)、忠義を言っても死ぬまで仕える忠義ではないところもよく似ている、のです。


決定的なのは、いくつかあって、
1)年齢です。范蠡は前526~前454年、という説もあるようですが、越王勾践の父允常に名参謀として仕えていたように書きますから、むしろ、孔子の世代にちかい。前468年ころからもう一度頑張るには、ややお年。・・この点は、子貢の方が有利という気がする。

2)子貢は若い時から孔子に叱られるほどの金儲け上手です。金儲けが好きだったのははっきりしている。・・范蠡にそういう節はない、のです。

3)顔の広さ、です。子貢は超外交官として、各地各国に誼があります・・若い時から相当動き回っている。これに比べると、范蠡はどうにも南方越の田舎もの。謀臣ではあったらしいが各国動き回ったとか外交官的伝承は少ない(外交は大夫種担当)。足元を固めろと何度も繰り返す姿はどう見ても地元保守派、です。そうなると、ここも、范蠡らしいというよりは子貢が相応しい、のです。

4)司馬遷は、范蠡を列伝では起していない。呉の伍子胥孫武も列伝があります、しかし驚くべきことに范蠡はない。何度もはやる越王を自制させ、越王を覇者にし(伍子胥孫武も途中で死ぬか抜けるかしていますから覇者を出した参謀ではないです)、そして大金持ちになったなら、これこそ列伝ものです。しかし、司馬遷は列伝を起さなかった。子貢を「孔子弟子列伝」と「貨殖伝」に書いたと同様に、范蠡を「越王勾践世家」と「貨殖伝」に書いた。・・司馬遷もなにか気付いていたのかもしれません(笑い)。


結論を言うと、
子貢に大金持ちでハッピーエンド?の事実が間違いなくあった。范蠡は上記名台詞を残して越を去ったが(案外本当は子貢のセリフかもしれません)、暮らしに困るようなことはけちの越王もせず、先進国斉で豊かで穏やかな晩年を暮らしたのは事実。しかし、子貢について、ハッピエンドではまずいとおもった、孔門学窓派が、子貢のお金持ちや大出世のお話をすべて范蠡の方に化体して伝えた。子貢は従ってよく見えないままになった。要すれば、孔門学窓派の子貢へのやっかみ。孔子に最も愛され貢献も絶大、そして金儲けも何でもできた、そして最後に、騙したように魯公を越で客死させてしまったという唯一の汚点を持つ、輝ける子貢への嫉妬なのです。(孔門学窓派はいうまでもなく文書工作は得意です、子貢や范蠡は情報操作や諜報謀略はやってもこせこせした文書工作など関心もなく好きでもないでしょう)

(つづく)
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1553.春秋孔子子貢伝まとめ

1553.春秋孔子子貢伝:2011/6/5(日) 午後 0:48作成分再掲。

このへんもくどいですが、当時の勉強と思考の流れを記録まで。読み飛ばしください。

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孔子が春秋(経?伝?)をまとめ書いたという伝説を信じるなら・・rac的には、

孔子は獲麟(前481年春)まで「春秋孔子伝(仮称)」を書いた。その後を子貢が書き継いだ(=「春秋子貢伝(仮称)」。追って、孔門学窓派が春秋孔子子貢伝を上書き換骨奪胎した(=「春秋原左伝」)=これが現伝「春秋左伝」の原型です。

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現伝春秋左伝より末尾魯の哀公時代の楚・斉・晋の記事を見ましたが(前記事3本)、やはり、

孔子や子貢ら孔門志士派が中華の状況を一変する可能性がある勢力として頼りにしたのは、繰り返すとおり、東夷の呉王夫差孔子的には獲麟=前481年春まで、子貢的には前475年まで)その後は越王勾践(子貢的には前475年~前468年の哀公越出奔まで、でしょう)でした。

1)決して、大国ではあっても古い体質の楚や斉や晋ではなかったのです。

楚に対しては葉公がいて南方を安定化してくれる勢力として信頼していた節はありますが、有力諸卿が専横を振るう下克上の斉や晋を当てにはしなかった。

2)魯や衛公も諸大夫に苦しまされるという意味では同じ、小国で実力はないのだから、孔子や子貢は郷党意識(愛国心でしょう)はあっても、何も期待もしていない。

3)中華統一和平と周朝秩序体制回復は、呉王夫差ならできるかも、と見抜いたのは孔子でした。黥面文身断髪の東夷だったわけですが、孔子らの影響でしょう、やがて斉門で3日哭泣したり、礼を中国と争わぬといったり、冠に拘り始めて孔子を喜ばせたり、の呉王夫差でした。・・孔子の関心は単にこんな礼法的なことではない。・・会稽で越王勾践を許してしまった呉王に何かを見たのかもしれない・・孔子は見込んだ。記録には殆どありませんがこれは間違いないでしょう。・・孔子と子貢ら孔門志士派はそこに実践すべき道を見出した。

4)呉王夫差が会稽に越王勾践を破った前494年、衛礼公の葬儀を終えて前493年には孔子らは陳蔡に入り呉王夫差を中原に誘導すべく陳蔡楚で工作、前489年には楚を城父に釘付け呉楚秘密同盟、そしてこの後呉は中原に進出、中原安定の核となる。孔子は前489年に衛に、前484年に魯に帰還。そして前482年には呉王夫差は晋や魯ほかと黄池の会盟。呉王夫差のピーク。そして足元で越の内乱・・

5)孔子は黄池の会盟の後には、呉王夫差に、違う何か見たようです。・・もうダメだと直感して、記録もやめた(春秋孔子伝の獲麟=前481年春)。


子貢の思い
子貢は、孔子のその判断にはすぐには同意できなかった。斉の前481田常の乱のあとむしろこれを支持することで斉を安定。孔子の死(前479年)後も孔子の墓に庵をむすび孔門志士派の仕事を継続。楚も前479年白公の乱のあと葉公体制で安定し、呉王夫差体制を支援しつづけた。

しかし、呉王夫差の動きをずっと見、孔子の早い判断にもどこかで納得したのでしょう、呉王夫差を見限って前475年には越王勾践に乗り換えた(越人の始めての魯訪問は前474年春、と左伝、など)。


子貢らの援助もあって、めでたく越王勾践は前473年には呉王夫差を滅し、北上し、徐州会盟する。やはり子貢らのアレンジだったのでしょう。


しかし越王勾践には自国を危うくしてまで中原中華のために動く気持ちなどなかった・・呉王夫差の二の舞などごめん、というところ。

子貢の性格からすると相当ねじ込んだと思う。・・楚は越を裏切らない、斉もついてくる、魯や衛の中原の中小国も任せてもらっていい、懸案は晋くらい、と、晋との最終決着を希望し強く進言したと思う。しかし、越王勾践は乗らなかった。・・これがはっきりしたのは徐州会盟の直後、ではないか。・・徐州会盟で趙鞅と越王勾践の対面はあったものか、どういう話だったものか・・

子貢はそれでも諦めきれず、矛先を変えた。天下布武よりも・・魯や衛の小国の、私利私欲に固まった有力大夫群の粛清と本来あるべき周王朝諸侯の姿を魯の哀公や衛の出公に求めた。・・二人とも乗った・・子貢のシナリオだったとみる。

しかし、歴史の現実は、哀公も出公も見事に国を追い出され、越国に亡命することになる、それぞれ前468年と前470年、です。

問題は越王勾践だった。越王勾践は、この二人=魯の哀公や衛の出公、を盛り立てて、魯や衛に侵攻し大夫たちを追い出すという、子貢が期待したようには動いてくれなかった。・・どうでしょう、衛の出公が前470出奔、ですから、このとき越王勾践は魯もそうなれば動こうくらいを言ったのではないか。子貢ら孔門志士派は本当に力があって、前468年には哀公も国を捨てて越に出てきた。

何があったものか・・越は二人を厚くもてなすくらいはしたろう・・しかし大夫らがおそらく膨大な賄賂を越に送ったと左伝があちこちに書くのは嘘ではない・・このときだった。

子貢は敗れた。完全に敗れた。

孔子の言った意味、呉王夫差なら(純粋だから)出来るかもしれない、の意味が初めて分かった。夫差と勾践は違っていたのだ。・・子貢も春秋子貢伝を記録することをやめた、これが前468年哀公27年でしょう。
ですから、「子貢伝」の一番最後の記事は「哀公は越を引き入れて自国を伐ち、三桓を排除しようとした。哀公27年秋8月、公は公孫有山氏を頼って、?経由で越に行かれた。人々は公孫有山を責めた」というところまでです。
そして実は、公孫有山というより、これこそが子貢だったのです。

 

後の孔門学窓派は、春秋子貢伝を上書き改竄する際、子貢が自らを責めた末文、を公孫有山というわけの分からない人に差し替え;世の中そんなものという思いで、そのあと、前記事⑧の記事を加え、大国晋の場合には3分割して国自体が失われたのだ、それに比べれば、公の出奔と亡国くらいはどうってことはない、と子貢を慰め悼み、・・そうして自分達の孔門学窓派の「原左伝」を作り始めたのです。
(つづく)

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1552.獲麟後の晋の動き

1552.獲麟後の晋の動き:2011/6/5(日) 午後 0:39作成分再掲。

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承前。こうなってくると、敵性国の晋や宋の状況を現伝左伝で確認しておきたくなります。

宋については、司馬桓魋と司馬牛兄弟の話と将軍皇?の2本お話が軸になっています。司馬牛については取り上げましたし、皇?の話は略します。・・子貢がかいた「春秋子貢伝」はみごとなほど論語の登場人物ともダブります論語と左伝の関係も面白そうですがこれは宿題とします。

 

晋についての、獲麟(前481年春)以降の記事を現伝左伝から

①前481年(哀公14年)秋、晋の趙鞅が衛を伐つ。

②前480年(哀公15年)秋、晋の趙鞅が衛を伐つ。

同冬、晋公が鄭を伐つ。

③前478年(哀公17年)晋が衛を伐つ。斉が救済に来る。晋の趙鞅「衛を伐つことは卜したが斉については卜していない」と引き揚げる。

④前475年(哀公20年)(呉が越にたびたび攻められるも晋は援軍を断わって)父趙鞅は黄池の会盟で呉王夫差と同盟したが、子の趙襄は趙鞅の喪中で役には立てない、と呉に申し入れる。

⑤前472年(哀公22年)夏6月、晋の荀瑶(じゅんよう=知伯)が斉を伐つ。

⑥前471年(哀公24年)夏、晋公が斉を伐つとして魯に援軍要請、魯は従って斉を責めるも詭弁で深入りを回避。

⑦前468年(哀公27年)晋の荀瑶が鄭を伐つ。斉が救援、荀瑶「鄭を伐つことは卜したが斉については卜していない」と引き揚げる。


⑧前464年(魯の哀公の子の悼公4年)晋の荀瑶が鄭を伐つ。その際、趙襄に先に入城を進めるが断わると、荀瑶(=知伯)は「趙鞅はこんなブオトコの趙襄を何故跡継ぎにしたのか」と。こうしたこともあり知伯は貪欲でも、やがて(前454年)、韓・魏氏も趙氏とともに知伯を滅ぼしたのである。

(以上、竹内さん平凡社本より、要約文責rac)


自明ですがコメしておくと

①②③前482年黄池の会盟で呉とも手打ちしたはずですが、晋の趙鞅のもとには??がいますから、衛を攻め続けついに??を衛公につけます(前479~478年)。子の出公は斉に逃れますが前476年には復位します、既述。

④左伝は前475年には趙鞅は亡くなっていたように言います、いずれにせよ、正式に呉との同盟は解消されたわけです。

⑤前472年には、晋の実力者は趙鞅から知伯に代わっていたように左伝は書きます。一時晋では知伯は趙鞅以上の権勢を得ますが、結局454年には趙・韓・魏氏に破れ、大国晋はこの3氏に分割されます。

そして、

この⑧の文章が、春秋左伝の最後の文章です。

(つづく)

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1551.獲麟後の斉の動向

1551.獲麟後の斉の動向 :2011/6/5(日) 午前 9:53作成分再掲。

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孔子は西狩獲麟(前481年春)まで「春秋孔子伝(仮称)」を書いた。その後を子貢が書き継いだ(=「春秋孔子子貢伝(仮称)」。追って、孔門学窓派が春秋孔子子貢伝を上書き換骨奪胎した(=「春秋原左伝」)、これが現伝「春秋左伝」の原型です。


獲麟の年、前481年夏6月、斉では田常が簡公を弑殺し孔子は斉簡公のため3日間ものいみをし、大変珍しいのですが哀公に斉討伐を進言するが三桓に相談せよといわれ立ち消えとない「立場上言ってみただけという頼りない孔子の姿」が現伝左伝にも論語にもあります。どうにも違和感があって気になっていたのですが、いまはこれは孔子が書いたわけでもなく子貢の筆でもなく、後の孔門学窓派のでっち上げの孔子のセリフ
とみます。

理由は

1)前486年の斉鮑氏の斉悼公弑逆、呉王夫差が3日間哭泣(翌前485年に艾陵(かいりょう)の戦で呉魯は斉を破る)からの連想。・・意外ですが逆ではない。

2)優柔不断なところのある孔子ですが、軍事行動を率先提案ししかも三桓反対にあって言ってみただけ、というのはいかにも頼りなく、ここは志士的孔子に対する、後の孔門学窓派の嫌悪悪意からきた捏造

3)孔門学窓派は、君を弑殺した田常は絶対に許せない存在で、孔子の変なせりふなど歴史捏造も平気でした連中(・・左伝や論語を改竄変造するのが学窓派儒家の傲慢な本質。一歩譲って、史実は、孔子はつい従者にこぼしたのかも。しかし孔子や子貢はこれは本質ではないから記録には残さない。しかし孔門学窓派は必要だと見れば揚げ足取りのようなこともする連中、です。)。

4)史実としては、以下通り、翌前480年には斉と魯は和しているから。

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さて、以下が本題です。西狩獲麟後の斉の動向です。
現伝左伝より。

①前480年(哀公15年)春、成(魯の邑)が魯に叛き斉につく。

夏、楚の子西・子期が呉を伐つ。

秋、斉の陳カン(田常=陳恒の兄)が楚に行く。途中衛で子魯は「魯との同盟」を勧める。

冬、魯は斉と和平、子服景伯が子貢を介添えに、田常は魯衛に仕えると約し成を魯に返還。


⇒斉の田常ははじめは楚と組んで斉の自立を考えたようですが、(楚は断わり上記子路の勧めもあって)魯衛呉の同盟に加わることにしたと見ます。子路や子貢の貢献です。

・・なお、この秋冬の文章は「春秋子貢伝」にあった、子貢伝はかように自分達の活躍をかいていた、とみます。ですがこの種の残渣はもう現伝左伝ではごくわずかしかみれません。(笑い)


②このあと、現伝春秋左伝でも斉の記事は殆どありません。=基本的には、子貢ら孔門志士派のシナリオに準じて=呉と組んでいるときは呉と、越と組んでいるときは越と、の同盟者として、孔門志士派を事実上国際社会で支えたのだみます。
孔門志士派にとっては魯衛は母国なのですが、魯衛は小国で力なく不出来で小さな私利私欲の公や有力大夫に振り回され難儀したようですが、・・さすが田常でまとまった大国斉は、南方の葉公でまとまった大国楚とともに、子貢ら孔門志士派にとっては、最も頼りになる存在、になって行ったようです。

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しかしです。

少しややこしいですが大事なので、繰り返しますが、
後の孔門学窓派にとっては、田常斉国は眼の前で(前481年)あろうことか君主を弑逆して成り立った国であり認めがたく、しかも子貢ら孔門志士派がそんな田氏斉国と魯国との同盟を進めたことは、とても許しがたかった。・・前記事、楚の立役者葉公については子貢の書いた春秋子貢伝オリジナルの雰囲気を残しても良かったが、斉の田常についてはそうはいかななかった、かなり手を入れた。

その際たるものが、孔子の冒頭のセリフ。そして子貢ら志士派に組した孔子についてもつい悪意が先立ち「ちょっと言ってみただけ」と従者にこぼすという頼りない孔子に描いてしまったのも、捏造派の孔門学窓派の連中です。

それでもこの秋(子路)や冬(子貢)の記事を残したのは、孔子が3日物忌みして討伐すべしと言った国とその翌年には同盟を結ばせた、子貢ら孔門志士派とはそんなひどい連中という非難の気持ちがあるからでしょう。・・たしかに孔子が3日物忌みしたのは本当かもしれない。そしてそういうことが大事なことでそんな国と同盟するなどもってのほかと考えるのが名分や礼儀の孔門学窓派なのでしょう。事実を残せば人は分かるはず、と考えた。だからオリジナルを残した。

要すれば、

現伝の左伝や論語は、この程度の人たちが変造あるいは編集したものである、ことは忘れてはならない。rac新説珍説を信じる必要はありませんが、そういう可能性もあるかもと頭の片隅に置いた上で、現伝左伝や論語を読むことをお勧めします。・・そういう時代なのです、もともとの孔子とその時代に即しての読むことが、すなわち現代において孔子を読む、正しく読む、ということそのものなのです。

(つづく)

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1550.楚の葉公のその後

1550.楚の葉公のその後 :2011/6/4(土) 午前 11:22作成分再掲。

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承前。春秋左伝の獲麟以降を何度も読み返していますが、やはり子貢あたりが「孔子を知りたければ春秋を見よ」との孔子の意を汲んで春秋孔子子貢版(仮称)を書き継いだもの、がもともとあった、と見るのがいい。それを後の儒教くさい人たちが「無慙に改竄」した;形や礼法ばかりで実に疎く、例えば越を野蛮で賄賂で転ぶようなやつらと軽蔑し、子貢ら孔門志士派の意思と行動を全く否定し、志士としての側面の孔子を平気で否定する。そういう立場のひとびとがオリジナルの「春秋孔子子貢版」の意図を韜晦していって、今日の春秋左伝に近いものに書き直していった。

 

なぜ全文抹消しなかったのか不思議なほどですが、その基本的な理由は、

孔門志士派の努力にもかかわらず、中華統一や和平はありえない=孔子子貢ら孔門志士派の高い理想と強烈な行動、にもかかわらず、「結局世の中は基本、何も変わらなかったじゃないか」という一世代下の現実を踏まえての強い思い=「諸国分裂のまま戦乱はつづき周朝はあって無きが如し諸侯らは下克上に遭い名門各国は簒奪され分断されあるいは滅亡していく。元の木阿弥だったでしょう。」という彼らなりの孔門志士派への批判、そして絶望を記したかったのだ、とやはり想像します。


そして、孔門学窓派というべき彼らの立場を一番好意的にいうなら、

「なんといっても人の心の根底が変わらねばダメ、それには人としての基本教育と礼儀作法が最も大事、これを徹底するのがはじめで終わり」というところ、でしょう。

春秋経もそうしたものとして読むべき、としていわゆる春秋の筆法などという学窓的な読み方に傾斜重点志向していく。これが今に伝わる「春秋左伝」なのです。

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しかし例外的に、オリジナルの雰囲気がそのまま残っているのかもと思わせる部分もあります。例えば論語にも3本残っている、楚の葉公(しょうこう)について。
(参考)葉公の三句 記事1514 

孔子や子貢はもともとの春秋伝に、おそらく好意的な内容で、呉王夫差と同盟し南方を安定化させ夫差の中原進出を支援する、そういう人として孔子は書いたでしょう。

子貢は孔子がなくなった前479年の4~5年後には旗頭を呉王夫差から越王勾践に切り換えた(前474年「哀公21年夏5月はじめて越人が魯に来た」(左伝)既述)が、

楚の葉公らとの好い関係は続き、楚はある時点で(呉から)越との同盟に切り替え、越の中原進出の邪魔をせぬよう、また葉公自身は祖国楚にあっては筋に違うような内乱はうまく鎮圧し、下克上など政治的野心は全くなく、王や群臣をすべて納まるべきところに納めさせた賢人、として書いた。
そしてこの部分はオリジナルに近い形で、現伝左伝にも残ったと見えるのです。大部分無慙に改竄変造された春秋孔子子貢伝(仮称)なのですが、葉公関連の記事は極めて例外的にオリジナルの雰囲気を残していると読めるのです。


まず現伝左伝より

①前479年(魯の哀公16年)楚の太子建は讒言されて、城父から逃げ、宋→鄭→晋と亡命し、晋と組んで鄭を侵そうとした。それがばれて鄭に殺されたが、その子、勝は呉に亡命していた。

楚の令尹(宰相)子西は勝を迎えようとしたが、葉公(子高)は「勝はうそつきで乱暴者ときくから楚のためにならない」と反対。しかし令尹は勝を(呉との国境に白に)迎え白公、とした。白公は父の仇の鄭を伐つというが楚は基礎固めの時期と反対される。白公は呉の慎攻めに同行して勝利しその軍を楚王恵王(昭王の越女との子)に見せたいとして入城、だが、反乱を起こし令尹子西・司馬子期らは殺し恵王を脅す=白公の乱。

 

②同年の記事。葉公は蔡にいたが、他の大夫たちを説得(「子西や子期がなければ楚は国になっていないかった」など)し動員して、都に入り白公を誅殺、恵王を確保する。葉公は一時は令尹と司馬を兼務するが、楚が安定したあとには、令尹を子西の子(寧)に、司馬を子期の子(寛)に譲り、自分は葉に引っ込んだ。


③前478年(哀公17年)陳攻め。恵王は大師と葉公に相談。将軍を誰にするか、大師は将軍を下から昇格をいうが、葉公は「将の身分が低いと兵が侮って従わない」と反対、葉公は子西の子(朝)を押し、恵王が卜して朝に決定。陳を滅ぼす。

 

④同年。令尹を誰にするか恵王は葉公と相談。王が卜して王弟の子良とでるが、後に改めて卜して令尹を子西の子(国)とする。


⑤前476年(哀公19年)春、越が楚を侵して呉を油断させる。司馬寛(子西の子)は追軍するが追いつかず。

 

⑥同年秋、葉公(=沈諸梁)は東夷を伐って三夷の男女と傲(人偏なし、ごう)で盟う。


これ以降、楚の記事は左伝にはありません。

(以上、竹内さん平凡社本より、要約文責rac

補足コメです。

①前479年は孔子が死んだ年です、その直後の記事です。

太子建と太子と書き、城父から逃げたとありますから呉とぶつかった城父の陣=昭王が子西ら庶弟に位を譲ろうとして次々断わられ変死したとき、でしょう、当時楚にはちゃんと太子がいたのです。rac説では子西・子期・葉公らの昭王暗殺(孔子孔門十哲も認知して)です。太子は宋と晋に逃げた、鄭を伐とうとして鄭で死んだというから、明らかに昭王と太子建は親晋だったのです。ここでもジグゾーは見事に埋まります(笑い)。

この子=勝=白公は呉にいたというから親呉かも知れませんが、鄭を伐つ(父親の仇だから)といい、子西や子期を殺していますから、親晋なのでしょう。

太子建の話は現伝左伝としては必然性なく、こういう国際感覚とネタ晴らし?は孔子や子貢の意図ではないか、それが残ってしまっている、と思えるのです。
(参考)楚昭王の変死 


②~⑥、左伝の意図は、楚について書きたいというより、葉公を称えたいだけのようにみえます。見事なほどに、葉公中心の記事ばかりなのです。白公の乱を見事に収め、令尹・司馬を兼務し恵王(まだ子供でしょう)の傍で絶大な立場で居ながら、下克上などもせず亡き功労者子西と子期の子達に令尹司馬を継がせ、ささっと田舎に引っ込む。ここも、孔子や子貢の孔門志士派の葉公への好意が根っこにある。

そして、このスマートぶりは子貢らのみならず、反子貢の孔門学窓派(=後の帝国体制身分秩序封建派でもあります)も、問題なく歓迎するところ。・・だから子貢版春秋のまますんなり今に残った、とみえるのです。


⑤の「呉を油断させる」=「越人侵楚、以誤呉也」は興味深い記事です。この通りなら、この時点=前476年で、楚は呉との同盟を破って越との同盟に切り替えていたことになります。孔子死亡の3年後、呉の滅亡の3年前です。世の読み方については子貢らより葉公らが1~2年早かった可能性もあります。

(上記どおり、左伝が、魯に越人がはじめてきたとするのは前474年ですから)だとすると葉公あたりが仲が良かった子貢ら孔門志士派を動かして呉から越に旗頭を変えるように言い始めるのかもしれません、葉公にとっては呉越相闘って疲弊し呉に続き越も中原に関心を向けてくれれば楚にとってはもっともありがたいシナリオですから。

 

⑥楚の葉公が東夷を伐つのは、この時期なら呉も公認・越も公認というところでしょうが、傲の盟とは中身は難だったものか?

なお、三夷の男女とわざわざ女が入っているのはいくつかの東夷の集団相手でなかには女王(女酋)がいたと古来読むようです、賛成です。

 

左伝はこのあと沈黙ですが、さらに後の歴史を言えば、前447年には楚が蔡を滅し、前465年越王勾践は畳の上で死ぬものの勾践6世の孫の時代、前334年には越はついに楚に滅ぼされます。孔子と呉越の黄金時代を生き延び、戦国時代は南国の雄として生き延び、最後は項羽と劉邦の楚漢戦争まで楚は続いたわけです。論語に3度も出てくる葉公のような名臣が古く孔子の時代からいたからということでしょう。
(つづく)

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