1492.「孔子世家」より⑤四十にして惑う?

1492.「孔子世家」より⑤四十にして惑う? :2011/4/25(月) 午後 4:35作成分再掲。 

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右といえば左、のつもりはないのです・・ですが、

世家による、40代の孔子、は迷いっぱなし、なのです。少なくとも、司馬遷の筆による孔子は、そう見えます。

孔子として筋を通さんが為に(と好意的同情的に言っておきますが)、現実の政治生活や立場については、右に左に、ぶれたと見えます。まっすぐ筋を通す勇士の弟子子路からは叱られっぱなしの、40代、孔子です。40にして惑わず=不惑の年、というのは、後悔か反省か、後の孔子の弁のように見えます。(笑い)

つまりは、日本の戦国時代と同じで、・・名門小国の魯といえども、下克上、権謀術数、の世の中で結構ややこしく、敵の敵は味方。悪いヤツももっと悪いやつと比べればマシ。余り正論贅沢を言っては生きてもいけない。若き塾生を多く抱えた孔子が生きた40代とは、そんな時代だったようです。
順を追ってみましょう。・・基本は司馬遷史記「世家」によります、「世家」が一番古く、儒教ドグマ支配の前、史家としても孔子を愛する点でも公平真摯で信頼にたる、と思うからです。

 

孔子、42歳の時(前510年)、斉に亡命中の魯の昭公が斉で死に、弟の定公が魯で立ちます。権臣季平子の傀儡であった、とみられます。

②定公5年(前505年、孔子47歳)、季平子が死んで、季桓子があとを継ぎます、魯国第一の権臣ですが、三桓の他の二家、孟氏や叔孫氏も強力です。

③ですが、三桓家もまたそれぞれ権臣にその地位をおびやかされる状況だったようです。

季桓子には、陽虎・仲梁懐・公山不狃の家臣があり、これまた仲たがい中、陽虎と懐が悪く不狃が中にはいっていたが、前505年秋、ついに陽虎は懐と懐を可愛がる桓子を排して、魯の政治を牛耳る。

このころ陽虎は孔子に出仕を勧めるが断って・・詩書礼楽に励む、弟子ますます増える。

④定公8年(前502年、孔子50歳)、陽虎と不狃が反乱し、三桓の嫡子を排そうとする・・。

⑤定公9年(前501年、孔子51歳)、陽虎は斉に亡命し、不狃は費にあって孔子を誘うが、行かなかった。

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③のとき、孔子47歳、陽虎からの誘いがあった記録が、以下です。

論語陽貨の1(#435)「陽貨欲見孔子孔子不見。帰孔子豚。孔子時其亡也、而往拝之。・・」(部分)
(試訳=陽虎(=陽貨が通説)が孔子に会いたいと思った、しかし孔子は会わなかった。そこで、陽虎は一計を案じ、(高級品たる蒸し)豚を送(帰)った、(礼としてご挨拶に参上すべきなので)孔子は陽虎がいないころを見計らってお礼に参上した。(ところが折悪しく)道で陽虎に会ってしまった。・・陽虎が言うには、宝を懐中に持っていて国や民が困っている時に使わないのは仁ではない、志がありながらチャンスを逃すのは知ではない、時が流れるのは早く躊躇する暇はない、云々。孔子はまさに仕えんか、と。)
出処進退。「気に染まぬ就職を断る時には、はいはいといっておいて、いずれお世話になります、というのが礼儀です」と説かれます。あるいは、「気に染まぬ人を動員するにはこのようなやり方言い方もあるとの見本」とされます。


さらに踏み込んで、孟子以来たくさんのかたがたが注されていますが・・極論は「陽貨があの陽虎であるはずがない」というドグマ的なものや「陽貨の言は失礼窮まる」など・・、

ですが、ここは「魯公親政を是とした孔子は三桓排除のためには、その下にいて昔馴染み?の陽虎と組むことも是としたかもしれない」という説にむしろ賛成です。

また、陽虎(貨)の失礼なセリフとは、むしろ孔子の自問自答ではないか、とも思います。道であったというなら、お供も少なく、だとすれば、これを記録したのは誰か・・案外孔子自身の自問かもしれない、と思うのです。

決して積極的ではなかったにせよ・・やむない選択として自らの仕官はともかく、優秀な弟子たちを就職させるべく、陽虎と組んだことは十分ありうる。
このすぐあとの句も、むしろ陽虎と自分を重ね合わせていると読むと・・すわりがいい。

 

論語陽貨の2(#436)「子曰、性相近也、習相遠也。」
(試訳=人間の生まれついた天性はそんなに差がないものだが、その後の習慣教養で善悪賢愚などの隔たりは遠くなるものだ。)
これも「学習環境習慣こそ、大事」と古来一般化して読むようですが(それはそれでもちろんいいのですが)・・

陽虎と孔子はともに大柄でよく似ていて間違われたという話もあり(後述)、陽虎は悪者でもひとかどの人だったはずであり、昔から知っている陽虎と自分をみて、この時期に述懐したとみると・・より味わいがでる。・・多数説ではないが、そういう風に読まれている人もいた、と記憶します。
そもそも、孔子は40歳ころには、斉から魯に戻った、と司馬遷世家は考えています。
(例えば、昭公が斉に客死した後、帰国したなどという尤もな説、も別にあります・・)

前魯昭公に忠義立てしたためか、あるいは三桓家老クラスは孔子を身分違いとでも認めなかったのか・・帰国以来、三桓体制の下では、孔子は結局のところ受け入れられていなかった、ように見えます。

魯で、40代前半を空費している可能性が強い・・弟子も既に多かったという・・いまさら詩書礼楽に励むというのもちとおかしい。・・自分のためにも弟子たちのためにも機会があれば何とか、と孔子は魯に帰国して以降7年にわたって思い続けていた可能性が強い。

・・この時点では引きこもって勉学弟子育成のみに掛けるというところまで、孔子は老いていません。政治的な理想や志の高さは当然として、現世的可能性については、まだまだ生臭い。

・・だから当時の三桓体制に対して、陽虎は、これをぶち破り新しい可能性をもたらした革命児のように見えたとして、おかしくはない。
だから、40歳台の孔子の気持ちは、動き、惑った、ほうに賭けます(笑い)

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決定的なのは、④ないし⑤のときの記事です。↓

論語陽貨の5(#439)「公山不擾以費畔。召、子欲往。子路不説、曰末之也已、何必公山氏之之也。子曰、夫召我者、而豈徒哉、如有用我者、吾其為東周乎。」
(試訳=公山不擾(=狃)は費城で畔(そむ)いた。不擾は孔子を招き、孔子は往こうとした。子路が反対して言った「之(ゆ)かれることはないでしょう、(謀反人の)公山のところなどへは」。孔子は答えた「自分を招こうというのだから、言うことを聞くつもりだろう。自分を使ってくれれば、東周の政治をここに実現しよう。」と。)
このときの孔子は、完全にその気になっています、自ら行くとはっきり言って、子路に反対されています。

子路は、勇気があるだけで智慧がないように孔子はたびたび言いますが、まっすぐな人で、後に衛の叛乱に巻き込まれ主人のために筋を通して勇敢に斬り死にしてしまう人です、孔子はそのことを言い当ててその死を嘆きます。・・がこれはこの20数年後のこと。

公山のこのときは、ふにゃふにゃしている孔子を叱るようにして孔子を思いとどまらせたのは、子路のようです。

孔子にしてみれば三桓の専横を食い止め魯公による親政復活の一歩とでも理屈付けしていたのでしょうが、・・単純潔癖の子路にすれば、謀反人公山に組するなど、孔子がいつも言うことと違う、と明快です。・・子路はそういう人です。


陽虎や公山の叛乱(革命の一面もあった)時には、孔子は彼らに誘われて、迷いに迷っている。・・しかし、子路はじめ優秀な弟子達がむしろ反対した。

例えば子貢。お金儲けが上手で、これまた孔子にお前はお金儲けばかりが上手で、などと言われますが、実際はどうだったのか。・・孔子の死を最後まで看取ったのは子貢とか。・・だから孔子が迷ったときには、孔子の生活や弟子たちの経済的な面倒は自分がみますから、孔子一門は節を曲げるな、などといって支えたろう・・と想像もするのです。(明確な記録はありません)

孔子孟子などとこの辺が違う・・いい弟子たちが孔子を救っている。・・孔子の塾は弟子たちみんなで筋を通すべく孔子塾を盛り立てている、そんな感じがあるのです。

いずれにせよ、子路や子貢など弟子達のおかげもあって、孔子は、結局のところ、陽虎や公山の叛乱には組しないですんだ・・
そして、陽虎や公山の叛乱が小康を得た、この翌年。ついに、我慢の甲斐があって?孔子は、魯定公や季桓子の信頼を得て、魯国の政治に本格参加することになります。孔子、51歳の春です。
(つづく)
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