1493.「孔子世家」より⑥夾谷の会

1493.「孔子世家」より⑥夾谷の会 :2011/4/26(火) 午前 10:06作成分再掲。

QT

孔子自らの「知天命」とは魯国の政治を行うことだったようです!
これも今回司馬遷史記孔子世家」を読んで「ビックリ驚いた」ひとつです。

論語の知天命=50歳、孔子はこのころには、先聖の道を纏めこれを後世に引き継ぐべく弟子たちとの講義に専念している、そしてこれこそ、孔子は自らの天命と思っていた、・・と思い込んでいました。

ところが実は、孔子50,51歳のとき、・・陽虎と公山不狃の反乱(まあ三桓体制への革命の面も)には弟子たちのおかげで組せずに済み、

結局、魯国体制(三桓+魯公)のなかで、孔子および孔子一門が現実の政治面で頭角を表すきっかけ、となったようです。

 

この間、世家は淡々と語り過ぎていて、事情はいまひとつ分かりません、世家の文章は以下です。
「(子路に止められて孔子は公山不狃のところには)いかなかった。その後、(魯)定公は孔子を中都の宰(地方の市長クラス)にした。1年たつとその四方の町村はみなその制にのっとった。孔子は中都の宰から司空(土木民生担当)になり、司空から大司寇(司法大臣)になった。定公の10年春に魯は斉と和好した。夏、斉の大夫黎?(れいしょ)が景公にいった「魯は孔子を登用しその勢いは盛ん斉を危うくする」と。」(世家)つづいて世家によれば、

孔子一門の魯国への貢献は
以下とします。

①定公10年(前500年、孔子52歳)魯定公と斉景公が夾谷(斉の地)会見。孔子は魯公のお供(相)として斉の脅迫を斥ける。外交上の貢献。

②定公12年(前498年、孔子54歳)三桓の勢力を削ぐべく、三桓居城を破壊。季氏費城・叔孫氏?城は破壊するも孟氏咸城は残る。魯国政治体制上の貢献。

孔子(季桓子につぐ魯国第二の権臣である=大司寇兼?相事(外務大臣)とか)の指導でこの間、魯国治世安定国力増大・・。魯国民生治世上の貢献。
しかし、

孔子による魯国強勢を恐れた斉国が「女楽八十人・文馬(飾り馬)三十駟」を送り、(魯公や)季桓子は政治を怠り・・孔子は魯を去り、衛に赴く。定公14年のこと、とします。
ですから、孔子が魯国で政治に参与したのは5年程度、孔子51~56歳の期間です

--------------------------------------------------------------------------------


世家・論語・春秋辺りの記録を見ながら、この間何があったものか、そして司馬遷あたりはどう評価していたものか、を、想像してみましょう。
ある意味で孔子の一生で現世現実的にはもっとも輝かしい時期、

それだけに諸説あり、

甚だしきは季桓子のもとで孔子が権臣であったこと自体疑わしい、という向きもあるようですが(多分これは、後に道学者たちが孔子を極度に聖人化する過程での希望的推測に過ぎず・・)、

最も古い資料である世家・論語・春秋がそれぞれにそれなりに示唆する以上、全面否定するだけの理由もない、とみます。

・・それらの語り口から真相はどうなのか想像してみることは楽しいことです。
(資料)
貝塚茂樹さん『孔子孟子』中公版解説(1966年)。岩波新書(1951年)もあるらしいが未見。
孔祥林さん『真説人間孔子河出書房新社(1994年)、孔子末裔で孔家伝承を基本とされているらしい。
http://book.geocities.jp/iizukakouu/kousi.html孔子年譜』
http://www.kyoto.zaq.ne.jp/dkanp700/koten/rongo2.htm論語2』

僭越ですが、最終的には面倒でも原典漢字をみたほうがいい。・・このころの漢文は竹簡に彫るせいでしょう極度に文字を惜しみます、ですから後世はどうしても補足して読みますので解釈もさまざまになるようです。

--------------------------------------------------------------------------------


孔子が相として参加した魯定公と斉景公の夾谷会見は、
世家と春秋左伝はかなり違う情報を提供、論語には直接の情報はない、ようです。

1)「世家」は緊迫感と具体性があり司馬遷当時には、この伝承が実在したとみます。あらまし以下です。(⇒racコメ)
⇒陽虎や不狃の誘いを断ったからでしょう、またそのとき孔子はすでに季桓子と組んで中都宰か司空にあって脾肉をかこっていたのかもしれません、いずれにせよ、

世家は、孔子は定公10年には大司寇であり、夾谷の会では相(魯側の会見準備司会者らしい)にも就いた、とします。

⇒・・突然こういう高官になったとは考えにくく、この前ある程度のプロセスがあった、と見たほうがいい。

斉の黎?は、上記通り、孔子をも意識して、夾谷(斉の地)で両国和好の会見を提案、

魯公は平和時の会見のつもりだったが、孔子は国境を出る限り文武両面の準備を勧め魯公は左右の司馬を整えて臨みます。

三段の土壇上で両公は会遇・揖譲・献酬を終え、斉側が四方の楽を奏します。

?旄・羽?・矛・戟・?(いずれも武具でしょう)で太鼓を鳴らし騒がしく舞楽した。

孔子は壇上にあわただしく上がり最後の一段を残して「和好の場で夷狄の楽を奏するとはいかが!お役目の方しかるべく!」と。

斉側の役人は孔子を排除しようとしますが孔子動かず、宰相晏嬰と景公を見据えます。景公は恥じて楽人達を退去させた。

しばらくして、宮中の楽を奏するとして、今度は優倡侏儒(芸人小人)が戯れながら登場。再び孔子が進み、「匹夫が諸侯を惑わすとは死罪に価する」と。斉側はなすすべもなく、法に従い優倡侏儒の手足をばらばらにした。

ここに景公は孔子を惧れ心動かし義において及ばないことを知った。

帰国してから、景公は「魯では君子の道で君を補佐している、しかるに斉では(君たる)自分に夷狄の道で恥をかかせ罪を犯させた、どうすべきか」。

斉の役人が応えた「君子は過失があった場合には実質を以って謝罪する、小人は文(飾り立てて)で謝罪する。わが君、ご心痛なら、実質で謝罪なさいませ」と。

そこで、景公は占領地である鄲・讙・亀陰の田を魯に返して過失を謝罪した。

 

2)春秋左伝定公10年記事は以下です。前提と結果は同じですが経緯については世家とだいぶ違いますが、こちらもなかなか劇的です。優劣つけ難い、です(笑い)。夾谷の会見に先立って、黎弥(=黎??)は斉公に「孔子は礼に明るいが勇に欠けているから、莱(夷狄)に武器を持たせて魯公を脅かせば、思い通りになるはず」と進言、斉公は従い(莱を踊らせた)。

孔子は定公を誘導して退席し、(莱の兵士たちに)こう言った。

「兵士たちよ撃ちかかるがいい。魯・斉両公が友好の会合している席に辺夷の俘虜が武器を手にして乱入した。これは斉公が諸侯に臨む態度とは思えぬ。辺境は中原に進出せず、夷狄は中華を撹乱せず。俘虜は会盟に加わらず、武器は友好の席を圧迫せぬもの。かかる行為は、神に対して不祥、徳に対して不義、人に対して失礼である。斉君がかかることをなさるはずはない。」斉公はこれを聞き、あわてて莱の人を退去させた。

盟誓に際し、斉が盟辞に「斉軍が出兵するには(魯は)兵車三百輌とともに従軍する、違反した場合には罰する」と加えると、孔子はいった「我が?陽の田土の返還されないまま、自分が斉の命を奉ずるなら、罰せられん」と。

(会盟が終わって)斉公が魯公を饗応しようとすると、孔子は言った「斉・魯間の旧例をご存知ないのか。大事が終了した上で饗宴を催せばそちらをわずらわせる。それに、犠尊・象尊(牛・象形の酒壷)は国門を出ず、鐘や磬の楽器は野外では合奏せぬもの。饗応の席にこれらを揃えれば、偽物のごまかしになる。偽者を使えば斉君の恥、礼を棄てれば評判が悪くなる。どうか考え直されよ。饗応の礼は徳を宣揚するためのもの。宣揚できぬならやめた方がよい。」そこで饗応は中止となった。

斉は〈陽虎が持ち去った〉?・讙・亀陰の田土を返還してきた。
左伝定公10年 http://ctext.org/chun-qiu-zuo-zhuan/ding-gong/zh

 

3)世家と春秋左伝以外、論語晏子春秋を見ましたが情報らしい情報はないようで、
夾谷の会については上記で尽きているようです。晏子(晏嬰)は斉の宰相ですが同年の前500年には没、世家は夾谷の会に斉景公と並んでいたように書きますがこれは怪しい。少なくとも権臣としての役割は終えていた可能性が高く、世家も左伝も斉側が仕掛けた策は、斉の黎弥(=黎??)という大夫のものだったとしています。結果は失敗策であり名宰相晏子に帰すわけにはいかないというなのことでしょう。

 

4)さて、
そうなると、夾谷の会の世家と春秋の記事、どちらを信じるか。・・今、関心があるのは孔子の実像です。だいぶ違う、世家の孔子はわが身を省みず、弁慶か歌舞伎の大見得を切るような、芝居がかったものがあります。左伝の孔子は沈着で礼儀正しく、いかにも後の孔子のイメージに近い。

道具立ては、案外似ている・・孔子が相として参加していたこと、夷狄の武勇武舞がポイント、古い礼を持ち出したこと、外交的に魯の勝利で土地を返却させたこと・・だからこの限りで史実と見ていいと思うのですが、

・・筋立てがだいぶ違う・・とくに孔子の描き方が全く違う。

・・おそらく書き手はお互いの話をリファーしていない。相互に見ないで書いている可能性さえある。言及しているポイントがずれているからです(例えば、宴会が後とか、条約の中身とか、世家は触れていない)。
だから漢初には、少なくともこの二種の伝承があったとみていい。・・司馬遷はいろいろ情報を集めたが、左伝的伝承は漏れたあるいは採用しなかった。すでに見たとおり(記事1409など)、左伝は古くから原左伝的なものはあったが、司馬遷の当時は散逸しており、もう一度纏めたのは公羊伝や穀梁伝が出た後の、前漢の末、と考えています。
司馬遷のころ(前100年ころ)はまだ、孔子の伝承についても、後の儒家的大人しいものではなく、戦国秦漢初の荒々しい雰囲気が残っていて、孔子のイメージの中にも、弁慶的ハデな伝承もあった・・武断的で最後の階を踏むとか踏まないとか、芸人小人が諸侯にフザケタ振る舞いをすればその手足を切っても当然、という雰囲気です。・・そういう強い孔子のイメージを司馬遷は好みここでは取り上げた・・そういう面もある人間と、孔子を愛する司馬遷は想像した。左伝の方は、前漢末(紀元ころ)ですから、儒家は勢力を得てより文民的体制的になっている・・司馬遷死後当時なりに追加資料も出てきた、原春秋や礼法・条約の情報も出てきていた、こうしたものを踏まえて、あるいは世家の孔子像も見た上でそこまで激しい人ではなかったのだよ司馬遷さんとおもいながら儒家系の人が左伝の記事を整えた・・そんな風に読みました。

 

孔子の実像はどちらだったか、わからない。案外、それ以外で大した役回りではなかったかもしれない・・もうわからない。しかし、司馬遷が真摯に資料を集めた結果として、孔子をそれなりに強い人、武断的で弁慶的な(上手な比喩とは思いませんが、笑い)な面もある人、と信じて世家に書いた、・・と読みたいと思います。
(つづく)