1491.「孔子世家」④怪力乱神を語る?

1491.「孔子世家」④怪力乱神を語る?:2011/4/25(月) 午前 11:15作成分再録

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論語では、孔子は、怪力乱神を語らず、現世にのみ目を向けるリアリストだったということになっています。

論語述而篇の20、通し番号168「子不語怪力乱神。」
(試訳=孔子は、怪異・暴力・乱(反乱や乱倫など)・鬼神(人の魂や神など)を語らなかった)

論語雍也篇の20、通し番号140「子曰、務民之義、敬鬼神而遠之。可謂知矣。」(部分)
(試訳=(現世での)民の義に務め、(この世のものではない)鬼神を敬して遠ざける。これが知というものだ。)

しかし、

司馬遷史記の「孔子世家」の次の記事は、孔子は魑魅魍魎を解説し、また(多分恐竜の)骨を巨人の骨と言った、という話です。
確かにあの世の話ではなくこの世の発掘話であって、孔子は博物的な知識もあったといいたいのでしょうが、やや不可思議な印象なのです。

どういうつもりで、司馬遷がこういう話をわざわざ「世家」に採用したのか、いまひとつ、分からない・・。しかも、孔子が斉から帰り魯の季桓子に仕える仕えないの前、の微妙な時期に、司馬遷は挿入します・・この辺もどういう意図だったのか。

孔子の伝記の類でもこのことを転記するものはめったにありません。儒家史家の皆さんも、司馬遷の意図を読みかねている、ように見えます。

 

「世家」から引用します(筑摩『史記・中』野口定男さん訳。要約文責rac)。話しは二つあります。
孔子世家原文 http://zhidao.baidu.com/question/41175241
①魯国の実権者の季桓子が井戸を掘ったときに土缶を発掘、その中に羊か犬のようなものがあったので、

桓子は「狗を得た」といいつつ孔子に聞いたところ

孔子は「羊です。「木石の怪を?(き)・魍魎、水の怪を龍・魍象、土の怪を墳羊という」と聞いていますから」と。


②会稽山の戦いで呉が越を伐ち城を破壊したとき大きな骨が出てきた、一節が車の長さほどあった。

呉は使いを送って孔子に「最大の骨は何か?」と聞いた。

孔子は禹の時代の伝説を引いて、「禹が山川の神々を会稽山に招いた時防風氏が遅れてきたのでこれを殺して屍をさらした、これが最大。」

呉使「だれを神というのか?」

孔子「雲を起し雨を降らせ天下を利する名山・大川の祀を守るものを神、封土を保ち社稷の神を奉祀するものを公侯、という。神も公侯も王者に属します。」

呉使「防風氏とは何をどこを守ったのか?」

孔子「(浙江省の)封山禺山を守り、虞夏商代では汪罔といい、周代では長?といい、現在では大人といいます。」

呉使「人の身長はどれくらい?」

孔子「(西南方蛮族)??氏は三尺(67cm)、これが最小。最大はこの10倍(6.7m)でこれが限度です。」

呉使「(孔子というひとは)善で聖人だ!」


世家の二記事は、おそらく、孔子は正統六芸六経だけでなく、博物的に何でも良く知っていたひとなのだ、と司馬遷としては付記しておきたかった、とみます。・・がやはり宿題です。
まず、羊か狗かは、おそらく未熟児か胎児のミイラでも出てきたのでしょう。会稽近くで恐竜の骨(竜骨)が出るかどうかは良く知りませんがフツーには恐竜の骨だった、ということでしょう。

・・いずれも実際に発掘で出たものへの論評ですから、目に見えぬ鬼神を孔子は語っているわけでは必ずしもない・・

司馬遷は何を言いたかったのか?・・あるいは、孔子は季桓子よりはるかに物知り、そしてこんなことまで二人は話していた、といいたいのか?。あるいは、呉使が尋ねてくるとしたら、天下の物知りとして知られていた、かなり孔子後年の話ではないか、儒教の先生だけでなく博物学碩学でもあった、といいたいのか?

いすれにせよ、司馬遷当時はこういう伝承も孔子にまつわる伝承として残っていて、・・しかも採用していい伝承と司馬遷は判断した、ということです。・・いまいち、その気持ちはよくわからない、です。

やはり宿題です(笑い)。

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で、ついでに、

大変趣味的で、余り伝統的でない、読み方をもう少しつづけますと(笑い)
1)鬼神からの連想ですが・・論語には他にも以下があります。
論語八佾の12(通し番号52)「祭如在。祭神如神在。子曰、吾不與祭、如不祭。」
(試訳=祭るときには、在(い)ますがごとくに祭る。神を祀るときには神様がおられるものとして祭る。自分は、祭りでもないときに、祭らない。それと同様だ。)

論語郷党の10(#246)「・・郷人儺、朝服而立於?階。」(部分)
(試訳=町のお祭りで(追)儺(ついな、おにやらい)の時は、正装をして東の階段で立って見送る。)
孔子は、たしかに、この種のもの、を敬して遠ざけているのです・・

しかし人々の、この種の謙虚な考え方や習慣には・・丁寧に従う、ということです。
2)神在ますがごとくの次の句では、・・竈の神様、までは信じていないようにも見えることです(笑い)。
論語八佾(はちいつ)の13(#53)「・・與其媚於奧、寧媚於竈。何謂也。子曰。不然、獲罪於天、無所?也。」(部分)
(試訳=王孫賈「奥座敷の人にこびるより、竈(かまど、の神様?)にこびよ(手っ取り早い)、というがどうか。」。孔子「そうではない、罪を天に得てしまえば、祈るどころではない。」)
ここはフツーは寓意にとって、竈(の神様)=権臣や奥様、に取り入ったほうが早い、と読むようです・・

こういうことわざが当時もあった、そして質問者の意図もこの辺にあったのでしょうが

面白いのは孔子は「祈る」と返していることです。

だから、竈の神様というものは当時も信じられていたとみる(日本でもつい先日までそうでしょう)。


返事は生真面目な孔子らしく、正道から外れてしまっては問題外、というきついお叱り、です。

が、後のフツーの儒家の読みのように権臣や奥様にとりいるな、とは実は直接には言っていない。つまり、もっと大事なこと=正しいかどうか問題、ですから・・問いには直接答えていない。

だから、本当に正しいことなら、暗愚な主君で良臣や賢夫人がいるなら、取り入ることも可、とするのが、本当の孔子なのかもしれません。

・・この後の孔子の行動を見ると(司馬遷の世家による)、そういう諦めない粘り強い人だったようにも、みえます。

・・そうなるとさらに、・・竈の神様も必ずしも否定しないのかもしれません(笑い)。


3)ちと毛色が変わるのは、聖天子や治天下のときに現れるという、「鳳凰麒麟、河図」は、孔子は信じていた節があります。
論語子罕(しかん)の9(#214)「子曰、鳳鳥不至、河不出圖、吾已矣夫。」
(試訳=聖天子・天下のときに現れるという)、鳳鳥もこないし、河から(亀が背負おうという)図もでない、わが道もこれでしまいだなあ。)
こういう、後の讖緯説や易的世界・・は信じていた。・・というより、孔子は堯舜の時代には、本当に史実としてあった、この世の事実、と思っていたのでしょう。

他方、『春秋』にある奇怪な生き物を見てこれが麒麟といって嘆いた、というのは、果たして史実かどうか・・までは何ともいえませんが・・
(つづく)

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